段ボールとブルーシートでできた2つのお城。会田誠 / 東京城 (Tokyo Castle)

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明治神宮外苑 いちょう並木青山通り入口のT字路に、入口の石垣に、段ボールの「東京城」というお城が飾れている、と教えてもらい観に行きました。

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段ボールでできています。そばに行くと大きいです。そしてある意味とてもきれいです。左は、ブルーシートで包まれて、雨で包んでいるのかなとと思いました。よく見ると、少し低いですが、青のブルーシートで作られたお城でした。

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これは、「パビリオン・トウキョウ2021」の一環として、会田誠 氏の作品「東京城 (Tokyo Castle)」がいちょうに並木道の石垣の上に飾られているのです。この「東京城 (Tokyo Castle)」、実は、段ボールとブルーシートでできいている2つのお城で、段ボール8m、ブルーシート4m、そばで見ると、迫力があります。

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「パビリオン・トウキョウ2021」は、オリンピックスタジアムとなる〈国立競技場〉を中心とする都心の10か所に、9人の建築家とアーティストが建物やオブジェを設置し、自由で新しい都市のランドスケープを提案する『Tokyo Tokyo FESTIVAL スペシャル13「パビリオン・トウキョウ2021」』ということで、7月1日から始まっています。

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会田誠 氏の作品紹介があります。

ダンボールとブルーシートは、非常に廉価であるにもかかわらず堅牢性を備えた頼もしい素材で、恒久性ではなく仮設性も象徴する点に、共通した特徴があり、会田は1995年から作品の素材に使用しています。このパビリオンは、このような2つの素材を使うことで、何があっても容易に挫けない人間のしなやかな強さを示しています。また重くて硬くて高額で恒久的な素材のみを使う現代彫刻などに対する批評性をはらんでいます」
平成7年(1995)、新宿が、多くのホームレスの存在で話題になっていたとき、そのホームレスが使っている段ボールの強さに共感するこことがあり、段ボールで「新宿城」を作って発表しています。

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段ボールと聞いて、梅雨に時期、大丈夫ななのかなとまず思いました。まったく痛んでいる様子はありませんでした。
「アーティスト本人が3ヶ月かけて集めた近所の八百屋さんからもらった段ボールを薄く剥いで、特殊ボードを貼り、さらに撥水剤で固めています。見た目のヘナチョコさに反して実はかなり手が込んでいるのです。雨の水分をたっぷり吸って下部の色が濃くなっていました。」
すごいですね。

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設置されている石塁は、かつて江戸城を支えていた石垣です。神宮外苑造営の際に建設されました。
また、いちょう並木は絵画館に近づくにつれて低いイチョウが植えられており、遠近法によって実際の距離より絵画館が遠くに見えるよう植樹されています。このような場所ですから、東京城設置のための使用許可を得るのに2年かかったそうです。

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段ボールとブルーシートでできいている2つの東京城、台座との対比もさる事ながら、青山通り沿いの近代的な大企業のビル群との対比も、段ボール、ブル-シートだけにおもしろいです。
「パビリオン・トウキョウ2021」は、ビクタースタジオ前、国際連合大学前、旧こどもの城前、代々木公園 パノラマ広場付近、kudan house 庭園、浜離宮恩賜庭園 延遼館跡、高輪ゲートウェイ改札内、渋谷区役所 第二美竹分庁舎、明治神宮外苑 いちょう並木入口、ワタリウム美術館 向かい側の8カ所に「それぞれの建築家、アーティストたちの東京の未来への願いが込められた」作品が展示されているそうです。
2ヵ月近く展示するということなので、行って見てみたいと思います。

駒形堂 、浅草寺のご本尊・聖観世音菩薩が、はじめて奉安された地に建つお堂。

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浅草寺の縁起絵巻のひとこまです。檜前浜成(ひのくまのはまなり)、竹成(たけなり)兄弟が、ご本尊を感得するの場面です。
推古天皇36年(628)の)3月18日のことです。
宮戸川(今の隅田川)のほとりに住む檜前浜成、竹成兄弟が、朝早くから漁をしていると、投網の中に一躰の像がかかりました。
仏像のことはよく知らなかった檜前兄弟は、像を水中に投じ、場所を変えて何度か網を打ちました。しかしそのたびにその像が網にかかるばかりで、魚は捕れませんでした。檜前兄弟はこの像を持ち帰りました。
▼江戸名所図会の絵です。

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檜前兄弟は、その像を土師中知((はじのなかとも)という土地の長に見てもらいました。すると、聖観世音菩薩の尊像であるとわかりました。
翌19日の朝、里の童子たちが草でつくったお堂に、この観音さまをお祀りしました。このお堂が駒形堂の原形です。
▼「江戸名所図会」の絵です。

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そして、土師中知は「御名を称えて一心に願い事をすれば、必ず功徳をお授けくださる仏さまである」と、人びとに語り聞かせました。
やがて私宅を寺に改め、観音さまの礼拝供養に生涯を捧げることになります。この私邸が、現在の浅草寺になるわけです。
浅草寺に伝わる縁起には、「観音さま示現の日、一夜にして辺りに千株ほどの松が生じ、3日を過ぎると天から金の鱗をもつ龍が松林の中にくだったと記されています。この瑞祥が、後につけられた浅草寺山号「金龍山」の由来です。現在、浅草寺寺舞として奉演されている「金龍の舞」も、これに因みます」。

きちんとした駒形堂のお堂は天慶5年(942)平安中期の武将、平公雅(たいらのきんまさ)によって建立され、円仁作の馬頭観音を祀るために建てられたのが起こりであると伝わります。
なお土地の人々によれば、駒形の読み方はコマカタと清く発音してコマガタとは濁らないということです。
ここは古来交通の要地で、駒形の渡しのあったところで、船宿もあり大変な賑わいをみせ、船で浅草寺参詣に訪れた人々は、まずこの地に上陸して駒形堂をお参りして、観音堂へと向かいました。
▼「江戸名所図会」の駒形堂の出ている場面です。

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浮世絵で、江戸時代の駒形の様子をみてみましょう。

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歌川広重『名所江戸百景 駒形堂吾妻橋

『名所江戸百景』(めいしょえどひゃっけい)は、浮世絵師・歌川広重が幕末の1856(安政3)年〜1858(安政5)年にかけて制作した連作浮世絵名所絵です。当時駒形堂一帯には材木屋が並び、材木町と呼ばれていました。絵の右隅には、立てかけて貯木された木材が描かれています。
赤い旗は、吉原の遊女の土産でも人気だった紅や白粉を売る店です。
左下に描かれたのが駒形堂です。
この時代は、まだ駒形橋はなく、吉原通いの人はここから舟で隅田川(大川)を上流へと遡りました。
絵の上方で飛んでるのはホトトギスです。高尾太夫伊達綱宗宛ての手紙に書いた高尾太夫の句「君はいま 駒形あたり ほととぎす」にちなんでいます。

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一勇斎国芳歌川国芳)『駒形の朝霧』

1843(天保14)~1847(弘化4)年頃の様子です。
近辺の料理屋の女将たちが浅草寺に朝参りに向かうところです。女将を先頭に、子供を背負った奉公人、娘と続きます。
背後の駕籠(かご)の列は、吉原(遊郭)からの朝帰りの客をのせていると推測できます。駒形堂がシルエットで描かれています。

駒形(こまかた)の地名の由来は、「駒形堂に由来する」と言われますが、その説として次のようなものがあります。
馬頭観音菩薩を納めた駒形堂があることに由来する。
浅草寺の門前に駒形堂というお堂があったことに由来する。駒形の「駒」とは「将棋の駒」のこと。
・同じく、駒形堂があったことに由来する。駒形の駒は馬のこと。
隅田川を走る船からみると、白駒が駆けているように見えたことから「駒駆け」といいいい、「駒形」となったという。
・堂に絵馬をかけたので、「駒掛け」と称し、それが「駒形」になったという説もある。ということです。

現在の駒形堂

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現在の駒形堂

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お隣の「浅草むぎとろ」のお店から見た駒形堂。駒形橋が見える。

現在のお堂は平成15年(2003)に再建されました。
堂宇の正面ははじめ川側に向いていましたが、時代とともに現在のように川を背にするようになりました。
縁日は毎月19日で、ご本尊が開扉されて法要が営まれます。

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左が「戒殺碑」

境内に付近の魚類の殺生を禁じた「戒殺碑(かいさつひ)」があります。
元禄5年(1692)生類憐みの令で知られる五代将軍綱吉の時代に、浅草寺本尊が現れた霊地を禁漁にしました。
駒形堂を中心に、南は諏訪町(台東区駒形)から北は聖天岸(同区浅草7丁目)までの十町ほどの川筋です
駒形堂はたびたび火災にもあっていて、「戒殺碑」はかなり痛んでいます。

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駒形橋と隅田川

 

浅草寺境内にある童謡「鳩ぽっぽ」の歌碑

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童謡「鳩ぽっぽ」の歌碑

浅草の浅草寺境内に童謡「鳩ぽっぽ」の歌碑が建っています。滝廉太郎作曲、東くめ作詞により明治34 年(1901 )に発表されました。
「鳩ぽっぽ」というので、

♪ぽっぽっぽ 鳩ぽっぽ
 豆がほしいか そらやるぞ
 みんなで仲良く食べに来い

という歌かと思っていましたが、違いました。

「鳩ぽっぽ」の歌碑の歌詞は東くめ作詞で、次のようです。

 ♪鳩ぽっぽ 鳩ぽっぽ
 ポッポポッポと 飛んで来い
 お寺の屋根から 下りて来い
 豆をやるから みな食べよ
 食べても直(すぐ)に 帰らずに
(ポッポポッポと 鳴いて遊べ)

先に引用したのは「鳩」です。この歌は広く知られています。
東くめが手がけた「鳩ぽっぽ」を知っているのは、少ないのではと思います。
『鳩ぽっぽ』は、作詞東くめ(1877年-1969年)、作曲は瀧廉太郎です。
明治33年(1900)に作られ、明治34年(1901)7月に刊行された『幼稚園唱歌』に第十二曲として収められています。
そして、明治44年(1911)に文部省によって編纂された『尋常小学唱歌』第一学年用には、「鳩」という楽曲が作詞作曲者不詳で採録されています。

作詞作曲者不詳というのは不思議ですね。

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作詞をした東くめは、この浅草寺の境内で鳩と戯れている子供姿を見て、この歌詞を書いたといわれています。
そういう意味で「鳩ぽっぽ」の歌碑がここにあるのは正しいです。
滝廉太郎と東くめ は一緒に仕事をすることが多く、「お正月」、「雪やこんこ」などなじみの童謡も手がけています。
幼稚園唱歌には、東くめ作詞・滝廉太郎作曲の「雪やこんこん」が掲載されていますが、文部省唱歌では「♪雪やこんこ」の歌い出しで知られる「雪」に変わっています。
作詞者の東くめは「“♪ぽっぽっぽ”で歌い出すと、鳩だか汽車だか判らない」とコメントしていたと東くめの義理の娘にあたる人が証言しているそうです。
「鳩ぽっぽ」はそれまでの文語調の唱歌ではなく、初めて「語り口調」で作られた唱歌と言われています。
東くめの夫の東基吉が、教育学者で、常々提唱していたのが「外国曲に訳をつけた唱歌や、文語調の歌詞では子供たちが楽しく歌えないのでは」「音楽教育としては、幼児に合った唱歌が必要」という事でした。
東くめは、東京音楽学校を卒業し、結婚して東京府立高等女学校で音楽講師をしていました。それで、近くの隅田川浅草寺をよく散歩をしていたようです。
そして、浅草寺境内に集まる鳩と、子供たちを見てこの歌詞が生まれたわけですが、夫の提唱する「語り口調」で作詞しました。
この歌碑は昭和37年(1962)に、彫刻家の朝倉文夫の作で建立されました。
ちなみに、浅草寺境内の鳩豆売りは、ハトの糞害対策で平成16年(2004)になくなっています。

一度「鳩ぽっぽ」を聞かないといけないです。

武島羽衣作詞・滝廉太郎作曲「花」

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墨田公園の「花」の歌碑

言問橋のたもとの隅田公園に、文部省唱歌「花」の歌碑があります。
武島羽衣作詞・滝廉太郎作曲「花」。
♪春の うららの 隅田川
 のぼり くだりの 船人が
 櫂(かひ)の しづくも 花と散る
 ながめを 何に たとふべき

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文部省唱歌「花」は明治33年、東京音楽学校(現、東京芸術大学)教授の武島羽衣と、同校の助教授であった滝廉太郎により作られました。
滝廉太郎がこの「花」を作曲したのは、明治33年(1900)、21歳の時です。「花」完成の3年後に明治36年24歳の短い生涯を閉じています。
滝廉太郎は、この「花」で、日本で初めて西洋音階「ドレミファソラシ」のすべての音を使うことに成功しました。
また、3節の詩に付けた旋律と伴奏が単なる繰り返しではなく、物語のように展開されていています。
幕末から明治維新にかけ、ようやく西洋音楽が日本に持ち込まれたと言われます。
武島羽衣は、日本女子大学で教鞭をふるい、昭和42年94歳で没したそうです。
歌碑に刻まれているのは武島羽衣の自筆の文字です。
武島羽衣が歌碑建立を望んでいることを知った教え子が、昭和31年(1956)11月3日(除幕式)に、84歳の誕生日を記念して建てました。
歌碑は「すみた河」のように、すべての獨点が省かれています。歌詞は旧仮名使いのままを希望しました。

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墨田公園は、大正12年(1923)の関東大震災により、壊滅的な被害を受けた東京の復興事業の一環として、後藤新平の主導により浜町公園(中央区)、錦糸公園(墨田区)と並んで計画・整備された公園です。
隅田川沿いの桜は、春になると美しく咲き、変わることなく私たちを喜ばせてくれます。この桜は、四代将軍徳川家綱が現在の茨城県桜川村から桜を取り寄せて、木母寺付近に植えたのが始まりで、八大将軍吉宗がさらに植桜を行い、その後も手が加えられ、現在は両岸で約千百本にもなり、桜の名所になっています。

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隅田公園の「千年桜」7月撮影

また、この歌碑のすぐ近くには、「千年桜」があります。これは、三春滝桜の子孫木を墨田公園の”シンボルツリー”として守り、育て、次の世代へ受け継いでいくプロジェクトを推進しています。

浅草神社の「夏詣」

 

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浅草神社の「夏詣」、鳥居の飾り

浅草に行きました。浅草神社にお参りすると、「夏詣」というイベントをやっていました。6月30日・7月1日から7日までです。
「夏詣」、どういうことかと思ったら、正月の「初詣」に対して、半年後には「夏詣」をしましょうということのようです。
6月末と12月末に茅の輪を作ります。その茅の輪をある規則のもとにくぐることで、つみけがれを祓い清めます。
年末は、1年のつみけがれれを祓い清め、お正月にその年の平穏を願い神社・仏閣に詣でる「初詣」を行います。
その行事を、半年後にも、しようではないか、と、浅草神社では、8年も前、平成26年(2014)からやっているとのことです。
まったく知らず、境内が飾られ、たくさんの人がお参りに来ていて、驚きました。
この行事を「夏詣」と称して、日本の守り伝えるべき風習となるようにということで、この8年で、全国の280を超える神社仏閣が「夏詣」に参画しているそうです。
夜の方がとても雰囲気が出ていてすてきのようですが、昼間の浅草神社の「夏詣」の様子載せておきます。
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浅草神社の鳥居から入ります。

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縁日風に屋台が出ています。

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この道「竹水参道」とあります。七夕の竹の飾りがあります。藍染めの手ぬぐいが、涼しいです。竹水の「水」はこの手ぬぐいかな。昔、夏に井戸洗いをしていた風習があったことから、この浅草神社の井戸も洗って洗って水を汲みかえたりしているそうです。その水をここに打ち水でもしたのかもしれません。

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茅の輪があります。

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本堂へお参りします。この期に特別な御朱印があるようです。

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七夕の飾りがしてありました。お琴や、浴衣も飾ってあります。

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風参道です。風鈴がたくささんつるされています。小さな提灯も。

 

白山神社のあじさい、アジサイ、紫陽花、七変化、八仙花

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白山神社の鳥居とあじさい

約3,000株の多様なあじさいが白山神社の境内から白山公園にかけて彩る「第37回文京あじさいまつり」は、緊急事態宣言中で、令和2年に続き、今年も中止になりました。まつりの時は公開される富士塚も閉じられていました。そのかわり人出は少なく、ゆっくりあじさいの観賞ができました。

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白山神社界隈の江戸時代の切絵図です。
白山権現に「八幡太郎ハタカケサクラ」の表記があり、また上に「富士」と描かれています。富士塚です。右上の「アイノミチ」はT字路の意味のようです。
「白山」の地名は、徳川五代将軍綱吉が屋敷を設けた白山神社に由来する。
この神社は天暦2年(948)、加賀国の白山比咩(しらやまひめ)神社から勧請を受けて、武蔵国豊島郡本郷元町(現在の本郷1丁目)に創建されました。
江戸時代、五代将軍綱吉とその母・桂昌院けいしょういんによる厚い保護を受け、歴代の将軍家も参拝に訪れました。

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こちらが現在の白旗桜

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手水鉢の後ろにも白旗桜があります。

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富士塚あじさい

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こちらも富士塚あじさい

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社殿のところのあじさい(カシワバアジサイ

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手水鉢の前のあじさい。いつもはもっとたくさんのあじさいが咲いています。

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拝殿前のあじさい

あじさいは漢字で「紫陽花」と書きます。
「紫陽花」と書いて「あじさい」と読むのは、中国語表記を和名に当てた日本語独自の当て字です。「あじさい」全体に対して「紫陽花」が当てられているので、紫(あ)陽(じ)花(さい)のような漢字単独でバラバラな読み方はしません。
中国語表記を和名に当てた漢字は他にも「蒲公英(たんぽぽ)」「向日葵(ひまわり)」などがあります。
あじさいは花色が変化することから「七変化」と名前が付けられています。
また、「八仙花(はっせんか)」とも呼ばれるため、八仙花と書いてあじさいと読ませる事もあります。
それでは「紫陽花」という漢字の由来はどこから来ているのでしょうか。
実は紫陽花という名前の花は中国の招賢寺にあった花の名前で唐の詩人白居易(白楽天)という人物が別の花に名付けたものでした。
この漢字を平安時代の学者源順という者があてはめて誤った形で広がったとされます。

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ガクアジサイ

ガクアジサイは、日本原産のアジサイの原種となっているアジサイです。小さな花の周りを額縁のように大きな花が囲んでいるのが印象的な花です。ガクアジサイは低木樹の植物。木の高さは1~2mほど。ガクアジサイの花の大きさは18~25cm程度のものが一般的なガクアジサイです。ガクアジサイの特徴は、何といっても2種類の花びらによって形作られるその姿にあります。
また、ガクアジサイと一口にいっても、似たように見えてもよーく観察するといろいろな花びらの形をした種類がたくさんあります。

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花色は土の酸性度によって変わってきます。青やピンクや紫が主な花色です。

 

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百合もさいていました。

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大円寺の「子育て地蔵尊」

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大円寺「本堂」と「観音菩薩像」と左手前に「子育て地蔵尊

大円寺曹洞宗のお寺で、山号は金龍山。開山は上州茂林寺十二世久山正雄大和尚、開基は石河土佐守勝政。本尊は聖観世音菩薩です。
神田柳原に慶長2年(1597)創建、当地に移転したのは慶安2年(1649)のことです。
昭和新撰江戸三十三観音霊場23番、東京三十三観音霊場26番札所にもなっています。
ということで、本堂前の大きな「子育て地蔵尊」を載せておきます。

 



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