『東京行進曲』と『東京ラプソディ』で見る、戦前の東京の盛り場・繁華街

また、昔の本になりますが、多田道太郎の本に『風俗学』(昭和53年・筑摩書房発行)があります。
そこに「盛り場低佪」という章があり、東京の盛り場はどこか考察されています。
戦前の盛り場としては、浅草、銀座、新宿があげられています。
戦後はそれに、六本木、原宿、渋谷、下北沢、吉祥寺が加わるということです。
浅草は、「活気」で現され、門前のにぎわいの自然延長であるとされます。
銀座は、「計画」。西洋文化の計画的輸入であったと。
新宿は、交通の要衝で、ターミナル文化の先駆と記されています。
「宿場町ということで、自然と色気がともない、内藤新宿の賑わいとなった。色とターミナル、これが新宿の性格をきめる」
浅草、銀座、新宿が、戦前の盛り場として、賑わいがあり、その性格がどうであったか、よく解る分析だと思っています。
これも、「東京行進曲」と「東京ラプソディ」という歌で、探ってみたいと思います。

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『東京行進曲』 作詞:西條八十、作曲:中山晋平、唄:佐藤千夜子

まず、昭和4年(1929)の「東京行進曲」。
作詞:西條八十、作曲:中山晋平、唄:佐藤千夜子
1 昔恋しい 銀座の柳
  仇(あだ)な年増(としま)を 誰が知ろ
  ジャズで踊って リキュルで更けて
  明けりゃ ダンサーの涙雨
2 恋の丸ビル あの窓あたり
  泣いて文(ふみ)書く 人もある
  ラッシュアワーに 拾った薔薇を
  せめてあの娘(こ)の 思い出に
3 ひろい東京 恋ゆえ狭い
  粋な浅草 忍び逢い
  あなた地下鉄 わたしはバスよ
  恋のストップ ままならぬ
4 シネマ見ましょか お茶のみましょか
  いっそ小田急で 逃げましょか
  かわる新宿 あの武蔵野の
  月もデパートの 屋根に出る

「東京行進曲」は、昭和4年(1929)制作の日活映画『東京行進曲』の主題歌でした。
この歌がわが国における映画主題歌の第一号とということになっています。
映画は菊池寛の小説が原作で、若き日の溝口健二が監督し、夏川静江・小杉勇が主演しました。
1番は銀座、2番はビジネスの中心地・丸の内にが出て来ています・3番は浅草、4番は当時まだ新開地の新宿が舞台です
「繁華街」ということで、昭和初期の東京のようすがよくわかる構成になっています。
先に述べた「盛り場」ということで言えば、丸の内は入らないでしょう。
1番の銀座に、♪昔恋しい銀座の柳♪とあります。銀座の並木は、当初柳がありましたが、イチョウに切り替えられ、この歌より6年前の関東大震災で壊滅状態となり、この歌の当時はプラタナスになっていました。
しかし、この曲の大ヒットで<銀座に柳を復活させよう>の気運が盛り上がり、銀座に柳が復活しました。

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昭和の初めの銀座。柳があります。向こう見えるのは、和光の時計台。

後に作詞作曲も同じメンバーで「銀座の柳」が作られてもいます。
銀座の柳も東京大空襲などで壊滅し、少し残っているだけになっています。
2番は丸の内です。丸の内は江戸時代には、譜代大名上屋敷がありましたが、明治に、陸軍用地などが設けられました。
陸軍用地は、明治23年(1890)に三菱に払い下げられ、三菱はそこに21棟に及ぶ赤煉瓦のビジネスビルを建てました。

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丸の内 一丁ロンドンの街並

以来、丸の内は、ビジネス界の中心地であり続けています。
「丸の内ビルヂング」通称「丸ビル」ができたのは、大正12年(1923)のことでした。
3番は大衆娯楽のセンター・浅草です。昭和2年(1927)の12月30日に、上野-浅草間に、現在の東京メトロ銀座線の一部となる日本初の地下鉄が完成しています。

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浅草地下鉄ビル

4番の「いっそ小田急(おだきゅ)で逃げましょか」
もうこの頃では、東京では小田急以外にも東急、西武鉄道が私鉄近郊線として走っていましたが、この「東京行進曲」がヒットしたことで、この歌詞から「小田急(おだきゅ)る」という言葉が当時流行ったそうです。
ところがこの歌が発表された時、「小田原急行鉄道」の重役がレコード会社に「『東京行進曲』の製作責任者を出せ!」と怒鳴り込んできたそうです。
当時小田急はまだ通称で、小田原急行鉄道」が社名であったため、略された上に「駆け落ち電車」とは何事だ、ということです。
その後、社名は「小田急電鉄」に改称されます。それは、「東京行進曲」が<会社の宣伝になった>ということで、西條八十小田急電鉄から終身有効の「優待乗車証」が支給されたそうです。
なお、このフレーズ、当初は「長い髪してマルクスボーイ今日も抱える『赤い恋』」だったそうですが、当局を刺激してはまずいと言う配慮から、小田急に変更したという経緯があったのだそうです。

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小田急線の路線図

新宿駅は、近郊と結びつく私鉄の小田急西武、京王、小田急などのターミナルになり、乗降客集、世界1の駅になります。

そして、歌詞には、「シネマ」「お茶」「デパート」なども出ています。

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新宿に最初にできた百貨店「ほていや」とその隣りに建設される「伊勢丹


新宿の賑わいは、この歌のおかげだったとも言われています。

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『東京ラプソディ』 作詞:門田ゆたか、作曲:古賀政男、唄:藤山一郎

次は、昭和11年(1936)のヒット曲「東京ラプソディ」
作詞:門田ゆたか、作曲:古賀政男、唄:藤山一郎
1 花咲き 花散る宵も
  銀座の柳の下で
  待つは君ひとり 君ひとり
  逢えば行く ティールーム
  楽し都 恋の都
  夢のパラダイスよ 花の東京
2 現(うつつ)に夢見る君の
  神田は想い出の街
  いまもこの胸に この胸に
  ニコライの 鐘も鳴る
  楽し都 恋の都
  夢のパラダイスよ 花の東京
3 明けても暮れても歌う
  ジャズの浅草行けば
  恋の踊り子の 踊り子の
  ほくろさえ 忘られぬ
  楽し都 恋の都
  夢のパラダイスよ 花の東京
4 夜更けにひととき寄せて
  なまめく新宿駅
  あの娘(こ)はダンサーか ダンサーか
  気にかかる あの指輪
  楽し都 恋の都
  夢のパラダイスよ 花の東京
5 花咲く都に住んで
  変わらぬ誓いを交わす
  変わる東京の 屋根の下
  咲く花も 赤い薔薇
  楽し都 恋の都
  夢のパラダイスよ 花の東京
  楽し都 恋の都
  夢のパラダイスよ 花の東京

歌詞では、銀座、神田、浅草、新宿が取り上げられています。
1番の歌詞では、「銀座の柳の下で…逢えば行く喫茶店ティールーム)」と歌われている。同曲が発表された1936年(昭和11年)当時、喫茶店の形態としては、飲食と共にウェイトレスの接待サービスを主体にした「カフェー」と、あくまでコーヒーや軽食を主体とした「純喫茶」の二つが存在していた。『東京ラプソディ』の歌詞にある「喫茶店」は、この後者の純喫茶の方です。
2番は、神田ですね。思い出の街は、学校でしょうか。ニコライ堂が出てきます。
3番の歌詞では、「明けても 暮れても 歌う ジャズの浅草行けば」と歌われています。浅草は、東京におけるジャズ発展に大きな役割を果たしてきました。

戦前の日本におけるジャズの歴史としては、すでに大正時代の横浜や神戸を中心に、ジャズ演奏が行われていましたが、大正天皇崩御をきっかけに一部のバンドが東京へ移って行きました。
昭和初期に、浅草電気館でジャズ演奏が行われたのが、東京ジャズ史の始まりと言われます。以後、ジャズと浅草は深く結びつき、ジャズコンテストなどが開催されるなど、ジャズの街として広く親しまれていました。
そして「東京ラプソディ」は、5番「楽しい都 恋の都 夢の楽園よ 華の東京」と締めくくられています。
「ラプソディ」とは、「狂詩曲(きょうしきょく)」とも訳される音楽スタイルの一つです。特にクラシック音楽などで、自由な楽想で民族的・叙事的な内容を表現した楽曲を意味しています。
昭和の初め、東京の賑わい、は今よりかなり東にあり、銀座や浅草、神田が繁華街の代表格で、新宿が新興の盛り場として活況を呈し始めたところでした。渋谷や池袋は、まだほとんど郊外といった感じで、流行歌の対象にならず、ようやく歌に歌われるようになったのは、昭和30年代に入ってからです。昭和31年に出た、作詞:佐伯 孝夫 作曲:吉田正 の「東京の人」には、「銀座」、「日比谷」「墨田川」「新宿」「浅草」と「渋谷」「池袋」の名前が出てきます。

 

心の底まで しびれるような デュエット曲の定番2つ。

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西銀座デパートと「銀恋」の碑

西銀座デパート、チャンスセンターの並びの茂みに「銀恋の碑」があります。
「銀恋」は「銀座の恋の物語」です石原裕次郎と牧村旬子のデュエットで、昭和36年(1961)にテイチクより発売されました。。
作詞は大高ひさを、作曲は鏑木創
「銀座の恋の物語」
  (女)心の底まで しびれるような
 (男)吐息が切ない ささやきだから
  (女)泪が思わず わいてきて
 (男)泣きたくなるのさ この俺も
 (男女)東京で一つ 銀座で一つ
    若い二人が 初めて逢った
     真実(ほんと)の恋の 物語

 (女)誰にも内緒で しまっておいた
 (男)大事な女の真心だけど
 (女)貴男(あなた)のためなら 何もかも
  (男)くれると言う娘の いじらしさ
(男女)東京で一つ 銀座で一つ
    若い二人の 命をかけた
    真実の恋の 物語

 (女)やさしく抱かれて 瞼をとじて
 (男)サックスの嘆きを 聴こうじゃないか
 (女)灯りが消えても このままで
 (男)嵐が来たって 離さない
 (男女)東京で一つ 銀座で一つ
     若い二人が 誓った夜の
     真実の恋の 物語

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「銀座の恋の物語」、最初の登場は、昭和36年(1961)1月に公開された石原裕次郎主演の映画『街から街へつむじ風』の挿入歌でした。
この映画のヒロインは芦川いづみです。
そして、この歌の人気の先行で、翌昭和37年(1962)3月に、映画『銀座の恋の物語』が造られました。

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映画「銀座の恋の物語」のポスター

もちろん主演は、石原裕次郎です。相手役は浅丘ルリ子です。江利チエミジェリー藤尾も競演しています。
歌はこの映画のテーマにも主題歌にもなりました。
実は、その当時、デュエットソングフランクとして、大ヒットしていた曲がありました。

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東京ナイトクラブ ジャケット

フランク永井松尾和子が歌たった「東京ナイト・クラブ」です。
「銀座の恋の物語」が作られた背景には「東京ナイト・クラブ」の存在がありました。

「東京ナイト・クラブ」 作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田 正、歌:フランク永井松尾和子
(男)なぜ泣くの 睫毛(まつげ)がぬれてる
(女)好きになったの もっと抱いて
(男)泣かずに踊ろよ もう夜もおそい
(女)わたしが好きだと 好きだといって
(男)フロアは青く 仄(ほの)暗い
(女)とても素敵な 
(男女)東京ナイトクラブ

(女)もうわたし 欲しくはないのね
(男)とても可愛い 逢いたかった
(女)男は気まぐれ そのときだけね
(男)うるさい男と 言われたくない
(女)どなたの好み このタイは
(男)やくのはおよしよ
(男女)東京ナイトクラブ
        (間奏)
(男)泣くのに弱いぜ そろそろ帰ろう
(女)そんなのいやよ ラストまで踊っていたいの
(男女)東京ナイトクラブ

「東京ナイト・クラブ」は、「有楽町で逢いましょう」「西銀座駅前」と同じ作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正のコンビです。
ナイトクラブという夜の大人の世界を人気のフランク永井と新人の松尾和子と組ませて、大人の少し妖しいムードただようデュエット曲をつくりあげました。今では考えられないことですが「好きになったの もっと抱いて」がいやらしいとして、この歌の放送を自粛することまであったということです。
テイチクはこの「東京ナイト・クラブ」のヒットを見て、「東京ナイトクラブ」のような歌を作ろうと考えました。
「『東京ナイトクラブ』とそっくりな歌を作ってくれ」と関係者に指示したそうです。
それでできたのが、「銀座の恋の物語」でした。
大人の男女がかけあいで歌うというデュエットの歌唱法を採用したこととか、2人の声質の良さを引き出したメロディーとか、
そして、「貴男のためなら 何もかもくれると言う娘の いじらしさ」(ナイトクラブ)、「好きになったの もっと抱いて」(銀恋)など、当時としてはかなりきわどい詞が盛り込まれています。
この⑵つの曲は、以後のデュエット曲の定番となる、型を作ったと言えます。
「銀座の恋の物語」は、当時の石原裕次郎は忙しすぎて、わずか数時間の目通しだけで、歌を吹き込んだと言われます。
「銀恋」つまり「銀座の恋の物語」は、公称300万枚を超える大ヒット曲となりました。
カラオケ・ブームの到来とともに、「東京ナイト・クラブ」も「銀座の恋の物語」も好んで歌われるようになり、
今でもとともに。デュエット曲の人気の1位、2位を争っています。

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「銀恋」の碑

「銀恋の碑」は、平成2年(1990)7月、「銀座の恋の物語」の作詞家・大高ひさを氏の依頼で、西銀座通会、銀座通連合会、テイチク(株)によって建立されましたた。碑には歌詞と楽譜が刻まれています。
どこに碑を建てるか、場所の選考に苦慮したようですが、4丁目の数寄屋橋公園がノミネートされ、中央区の内諾を得て、場所が決定しました。

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4丁目の数寄屋橋公園

碑のデザインは、2人分の座席、西洋風に言うと「ラブ・シート」の形に決まりました。碑を挟んでカップルで記念写真が撮れるよう左右に座席が設けられています。

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「ラブ・シート」の形の「銀恋」の碑

平成2年(1990)7月、石原まきこさん、牧村美枝子さんなどを招いて、数寄屋橋公園の碑の前で除幕式が行われました。

 

▼この「銀恋の碑」を造った西銀座通会、銀座通連合会の方が除幕式のことなど書かれているものの中に。「新しい銀座名所が一丁上がり、とほくそ笑んでいましたら、案に相違の素通りの碑。」とありました。
近くの「有楽町で逢いましょう」の歌碑も残念ながら「素通りの碑」のようです。
碑の前で、足を止めて、ゆっくりと、これらの歌にまつわる、自分の思い出などに浸ってみるのも悪くないと思います。
ただ、こういう碑になった歌をまるで知らないという世代の時代が、もうそこまで来ているのも、ちょっと気になります。

 

♪ イカすじゃないか 西銀座駅前

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昭和32年(1957)百貨店そごうが開業して、集客効果を狙ったフランク永井の『有楽町で逢いましょう』が大ヒット。その翌年、5月には、フランク永井の歌う『西銀座駅前』がリリースされ、こちらも大ヒットします。
7月には日活で同名タイトルの映画が公開され、西銀座駅周辺の風景が数多く映し出されます。有楽町と同じく、「西銀座」が「最先端の街」として盛り上がりました。

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西銀座駅前/フランク永井(昭和33年)

『西銀座駅前』 作詞:佐伯孝夫 作曲:吉田正 歌手:フランク永井
 ♪♪ ♪ABC・XYZ これは俺らの 口癖さ
 今夜も刺激が 欲しくって
 メトロを降りて 階段昇りゃ
 霧にうず巻く まぶしいネオン
 イカすじゃないか 西銀座駅

実は「西銀座」という地名の街は、その時も、今もありません。
それでは、「西銀座」は何ななのか。
それは、丸ノ内線が出来たときの西銀座駅の「西銀座」のことでした。まさに「西銀座駅前」でしかなかったのです。
しかし、その「西銀座駅」の呼称も、使われた期間は昭和32年(1957)から昭和39年(1964)までの8年だけでした。
昭和39年(1964)8月に、日比谷線が開業して東京メトロは、銀座線、丸の内線、日比谷線の3路線の駅が接続します。
そのことで「西銀座駅」は「銀座駅」に改名されてしまいます。

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現在のメトロ「銀座駅」入り口

今、鉄道のコースを見ても「西銀座駅」はありません。
「東銀座駅」はあります。日比谷線浅草線の2路線が乗り入れています(中央区銀座4丁目)。その名のとおり、銀座駅の東側にあります。

『西銀座駅前』 作詞:佐伯孝夫 作曲:吉田正 歌手:フランク永井
   ♪♪ ♪ABC・XYZ そこのクラブは顔なじみ
  酒には弱いが 女には
  強いといった 野郎もいたが
  何処へ消えたか 泣き虫だった
  イカすじゃないか 西銀座駅

そもそも、西銀座駅という名前は、銀座の西になるから、というのではなく「銀座西」という地名が存在していたから来ていました。
銀座西の地名は、現在の銀座2丁目から銀座5丁目まで南北に長く延びていて、1丁目から5丁目まで存在していました。
「銀座西」は少し呼びにくいので、「西銀座」という呼称でよく言われていたようです。それで「銀座西駅」でなく
「西銀座駅」になったとされたということです。「銀座西」の地名は、住居表示の実施により、昭和43年(1968)に姿を消しました。

地下鉄の駅名から西銀座は消えてしまいましたが、高速道路の高架下のショッピングモールに、いまも「西銀座デパート」の名は残っています。
高架下のショッピングモーは、5丁目の泰明小学校裏のブロックは「銀座ファイブ」、3丁目から1丁目にかけてのブロックは「銀座インズ」と言います。銀座ファイブの旧称は数寄屋橋ショッピングセンター、銀座インズは有楽フードセンターと言いました。
開業当初から改称していないのは4丁目エリアの西銀座デパートだけです。
もっとも「西銀座デパート」の名称はどこにも掲示されていません。「NISHIGINZA」です。旧称「西銀座デパート」と記しているお店もあります。

西銀座デパートの開業は昭和33年(1958)の10月でした。
数寄屋橋の下を流れていた外堀川の埋め立てと高速道路の工事が立ち上がったのは、昭和28年(1953)のことです。
数寄屋橋も消えました。現在高架に、新数寄屋橋の名称がつけられています。

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さてこの高速道路高架下の高架下のショッピングモーは、当初別の案があったようです。
「最初の計画では、もっと壮大なビルの建設が予定されていたとのことです。
それは、地下4階・地上12階という巨大なもので、地下はすべてガレージ、地上2階は駐車場、その上の2階を2車線の高速道路が走り、
そして、3階以上はオフィス街……という計画だった。ということです。
最近のように、縦に長い、高層ビルが建つ予定だったのです。「スカイビルディング計画」となずけられていました。
もしそうなっていたら少し鬱陶しい街並になっていたのではないかと思います。

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昭和33年(1958)10月にオープンした西銀座デパートは、地下2階、地上2階で、収容店舗約60軒と現在とほぼ変わっていません。
西銀座デパートのの上を走る高速(東京高速道路)の土橋(銀座8丁目)・城辺橋(銀座1丁目)間が部分開通するのは翌昭和34年(1959)6月のことですがが、昭和32年(1957)の暮れに丸ノ内線・西銀座駅が開業。
昭和33年(1958)に入るとフランク永井が『西銀座駅前』を出し、これが日活で映画化されました。
つまり、そういう「西銀座ブーム」の中で、西銀座デパートは幕を開けたのでした。

『西銀座駅前』 作詞:佐伯孝夫 作曲:吉田正 歌手:フランク永井
     ♪♪ ♪ABC・XYZ 若い二人はジャズ喫茶
  ひとりの俺の行く先は
  信号燈が 知っている筈さ
  恋は苦手の 淋しがりやだ
  イカすじゃないか 西銀座駅

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映画「西銀座駅前」は巨匠今村昌平の監督第2作目の作品です。東京銀座を舞台とした喜劇です。
フランク永井が歌った「西銀座駅前」がヒットしてしたので作られた歌謡映画です。
映画に、フランク永井も登場していて、ところどころで、さりげなく登場して、状況を紹介するという不思議な役どころを勤めています。。
当時の社会的な流れで、歌がヒットすると映画が作られました。この「西銀座駅前」については、若き今村昌平に振られたわけです。
当然イヤといえないので、2週間程度で撮影を済ましてしまったようだと伝わっています。

以下補足です。

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「億の細道」

西銀座デパートのそばに、「億の細道」という名前の案内が立っていました。
平成4年(1992)、発売初日に1番窓口に並んだ人が1等を引き当てたことが話題となり、その運にあやかりたいと、1番窓口で買いたいというお客さんが列をなして、いつしか「億の細道」と呼ばれるようになったということです。今では西銀座チャンスセンターに来る人の約3割が1番窓口で宝くじを購入しているそうです。「億の細道」、言い得て妙です。
この「西銀座チャンスセンター」をもう少し先に行くと、歌碑「銀恋の碑」があります。デュエットソングの定番中の定番「銀座の恋の物語」の歌碑です。こらは次回に。

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キティちゃん(Sanrioworld GINZA 2F)
西銀座デパート の1階、玄関前に大きなキティちゃんが2体立っています。
「世界一の品揃えを誇る、世界最大のサンリオフラッグシップショップです。大人から子供まで、サンリオキャラクターの世界観に浸っていただくことが出来ます。」

フランク永井の『西銀座駅前』はよく口ずさみました。
 「A B C,X Y Z、それが~オイラの口癖さ~♪」

 

 

 

♪あなたと私の合言葉「有楽町で逢いましょう」♪

山本夏彦久世光彦 『昭和恋々』(清流出版 平成10年(1998)発行)という本に、2人の対談が載っています。
山本夏彦「昭和50年代までの歌には、歌詞のわからないものは一つもない。ほとんど覚えていて歌えるんです。いまの歌はみんなわからないでしょう。」
久世光彦「私にもわかりません」
山本「歌詞がわかって、曲も歌えて初めて、歌といえるのに。今の人たちは自分の歌を持ってないんですね。」

“はやり歌”を、みんなが知っているという時代がありました。それこそ、大人も子どもも、男も女も。

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有楽町マリオン前にある「有楽町で逢いましょう」の歌碑

例えば、フランク永井が歌った「有楽町で逢いましょう」です。
昭和32年(1957)に世に出た歌です。私は中学生でした。でも、惹かれてよく口すさんでいました。
実は、この「有楽町で逢いましょう」は、関西の老舗百貨店「そごう」の東京進出のキャンペーンから生まれた歌でした。。
大阪に本社を置いていたそごうは、東京へ進出にあたって、出店地候補の一つとして有楽町を検討していました。
当時の有楽町と言えば、東京の中心部としては、少し遅れていて、
闇市の面影がようやく消えていこうとしていて、人通りが増え始めていた、いわば新興の商業地でした。
その有楽町で、そごうに、読売新聞社が自社物件の読売会館を提供するという話が来ました。

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読売会館

そこで、読売会館で、昭和32年(1957)5月に開店が決まります。
しかし、当時の有楽町は、まだ焼け跡、闇市の名残もあり、デパートが目指す高級感とはかけ離れていました。
そこで、そごうは「有楽町高級化キャンペーン」を展開します。
当時ヒットしていた、アメリカ映画『ラスヴェガスで逢いましょう』にヒントを得て「有楽町で逢いましょう」というキャッチフレーズを大きく打ち出しました。
各種マスメディアとのタイアップをしましたが、中でも昭和32年(1957)4月に放送開始された日本テレビの歌番組と提携し、そごうのコマーシャルソング(キャンペーンソング)として、佐伯孝夫作詞・吉田正作曲、フランク永井唄の「有楽町で逢いましょう」を発表します。

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有楽町で逢いましょう」のレコードジャケット

昭和32年(1957)7月のことです。発売から半年で約50万枚を売り上げ、昭和33年(1958)度上半期のビクターの歌謡曲(流行歌)レコード売上で1位を記録します。

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上の写真は開店前の、新聞広告です。

「そごう」有楽町店が開店したのは、昭和32年(1957)5月25日でした。当日はあいにくの雨でしたが、約30万人が押しかけるという騒動になりました

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開店当日の様子を伝える「そごう」前の写真

この「有楽町で逢いましょう」の爆発的な展開を見て、雑誌『平凡』は、小説『有楽町で逢いましょう』(宮崎博史作)を連載します。
そして、その小説を大映が、京マチ子菅原謙二川口浩野添ひとみのオールスター・キャストで映画化しまいした。

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有楽町で逢いましょう」の映画のポスター

映画「有楽町で逢いましょう」は、昭和33年(1958)1月15日に封切られたました。
そごうの店内でロケーション撮影が行われ、フランク永井も本人役で『有楽町で逢いましょう』を歌っています。
詳しくは覚えていませんが、映画も見ました。恋人役の川口浩野添ひとみは、のちに結婚しました。
有楽町で逢いましょう』の歌で、「有楽町」の認知度は上昇し、イメージもアップしました。
歌が、街を造ったと言える好例とも言えます。

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ある意味全盛の有楽町界隈 そごうも、都庁も、日劇も、鉄道の高架もあります。

百貨店「そごう」が出たビルは、JR有楽町駅前という恵まれた立地条件でしたが、三方を道路に囲まれた三角形の狭小で不整形な敷地で、百貨店としては決して恵まれた敷地ではありませんでした。
しかし、正面入口に、天井から床に向け風を送って外気を遮断する「エア・ドア」を導入したり、昇りと下りのエスカレーターをX字型に設置するなど目新しい設備を施し話題となりました。
それから44年、
東京都庁の西新宿への移転や、経営トップの企業私物化などにより「そごう」は倒産してしまいます。

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「そごう」最後の折り込み広告

平成12年(2000)9月24日、フランクフランク永井の「有楽町で逢いましょ」』の流れるなか、閉店セールが行われ、そごう東京店は44年の歴史に幕を下ろしました。

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現在はビックカメラが入っている、かつての「そごう」のビル。

現在は大型電器店ビックカメラ」になっています。
外装はそごう時代のままです。三方を道路に囲まれた三角形で残っています。

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そして、有楽町駅前の再開発が行われ、平成19年(2007)10月には、丸井などの入店する「有楽町イトシア」が開業しました。
有楽町イトシアは、丸井を核店舗とするオフィスペースを兼ね備えた複合商業施設です。
「 イトシア(ITOCiA)」という名前の由来は「愛(いと)しい + ia(場所を表す名詞語尾)」ということですが、「有楽町で逢いましょう」の「雨も愛し」やのフレーズがヒントとなったということです。

 ♪あなたを待てば雨が降る 
  濡れて来ぬかと気にかかる  
  ああ ビルのほとりのティー・ルーム
  雨も愛(いと)しや 唄ってる
  甘いブルース
  あなたと私の合言葉「有楽町で逢いましょう」♪

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有楽町マリオンを抜けて、有楽町マリオン前の植栽の中に「有楽町で逢いましょう」の歌碑があります。
平成21年(2009)5月、『有楽町で逢いましょう』発表から50年が経ったことを記念して、ここに歌碑が設置されました。

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石碑は縦横約1メートルで、雨水の「水たまり」の形と表現しています。
フランク永井の出身地の宮城県産の伊達冠石で造られているそうです。

 

明治から終戦のころまでの有楽町界隈の変貌をたどる。

明治に入り「東京」が誕生。西洋文明を積極的に吸収し、急速に西洋化・近代化が進み、丸の内・有楽町・銀座周辺は、 銀座煉瓦街の完成や市内電車の発達を通して、ハイカラな街へと変貌して行きました。
明治27年(1894)丸の内(現在の有楽町駅近く)に「東京府庁舎」ができます。
東京府庁舎は、当初東京市幸橋門内(現在の内幸町一丁目)の旧大和郡山藩邸に開設されていましたが、丸の内(現在の「東京国際フォーラム」とところ)に新たに建設されました。

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東京府廳舎跡」の碑

東京国際フォーラムの片隅に、古めかしい石碑があります。東京都の前身、東京府時代の庁舎跡を示す石碑です。
東京府庁舎は、当初東京市幸橋門内(現在の内幸町一丁目)の旧大和郡山藩邸に開設されその後1894年(明治27年)に丸の内(現在の有楽町駅前)に新たに建設されました。1898年に東京市庁舎も完成し、第二次世界大戦中の1943年に東京市東京府 が廃止され東京都が設置されましたが、この建物は戦災で焼失しました。1955年3月に敷地一帯が、旧跡として東京教育委員会により文化財指定されました。
かつて東京府庁舎があったことを示すものとしては、この石碑だけが残っています」(碑の隣りの解説板より)

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解説板に載っている「東京府庁舎」と「東京市役所」

明治31年(1898)に東京市庁舎も完成。昭和18年(1943)に東京市東京府 が廃止され東京都が設置されます。
明治43年(1910)山手線が延伸され、有楽町駅が開業します。

新橋駅から有楽町駅、東京駅、神田駅にかけて現在も残っている煉瓦造の高架橋もこのころ出上がっています。

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明治44年(1911)には、現在の丸の内エリア 馬場先門通りに日本の近代化都市としてグランドデザインされた 「一丁ロンドン」が出現します。
大正3年(1914)には東京駅が完成し、丸の内・有楽町エリアはビジネスセンターとしても発展を遂げました。
大正12年(1923)関東大震災で、有楽町も多大な被害を被りました。
政府の復興計画により洋風建築が増え、銀座通りに三越松屋松坂屋、などのデパートが進出 しました。
昭和2年(1927)東京日日新聞(現:毎日新聞)、報知新聞、読売新聞に続き、朝日新聞が有楽町へ進出し、新社屋が完成します。
毎日新聞社朝日新聞社の本社と讀賣新聞社有楽町別館が置かれ、界隈は「新聞街」と呼ばれました。
▼当時の有楽町は文字通り「新聞街、インク街」でした。
東京日日新聞毎日新聞社)は明治5年(1872)3月29日(明治5年2月21日)発刊の東京最初の日刊紙です。
当初は浅草茅町(現在の浅草橋駅近辺)の居宅から発刊しましたが、明治7年(1874)に丸の内寄りに社屋を建てて進出しました。

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東京日日会館

東京日日会館は屋上にプラネタリウム(東日天文館)があり、ビルの壁面には、いまでいう電光掲示板なる電光ニュースを見ることができたそうです。昭和41年(1966)本社を竹橋に移しました。
読売新聞社は、明治10年(1877)に銀座1丁目に進出し、新聞街の中心的存在となります。。昭和42年(1967)大手町に移ります。
朝日新聞社は、有楽町の前は銀座6丁目、資生堂の近く(当時は京橋区瀧山町)にありました。
当時の建物の前に有名な歌人の記念碑があります。石川啄木です。彼は、同新聞社に亡くなるまでの3年間、校正係として勤めていました。

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在籍年数こそ短いものの、当時の編集長や同僚からの厚意や恩情に守られていたそうです。この碑は、彼の没後60年を記念して銀座の有志により建立されたものです。碑には『京橋の瀧山町の新聞社、灯ともる頃のいそがしさかな』と歌集「一握の砂」から1歌を抜粋し刻まれています。
当時の新聞記者たちは、この有楽町、銀座を新聞刊行の魂の込めた地と解し、尽力したといわれています
有楽町駅ガード下の飲み屋に各新聞社の記者が集合していたそうです。
昭和8年(1933)日劇が。昭和9年(1934)に東京宝塚劇場がオープンし、有楽町は劇場街と化します。
そして、私鉄沿線も発展することで、 銀座・丸の内が繁栄し、銀座・有楽町・日比谷周辺は歓楽街へと変貌して行きます。

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昭和8年、出来たばかりの「日劇」風景(中央)。京橋図書館蔵の写真より

▼日本劇場は、昭和8年(1933)12月24日 に建設されています。日劇(にちげき)の通称で親しまれました。
設計は「服部時計店」「第一生命館」などを設計した渡辺仁です。地上7階、地下3階建でした。
収容客数4000人の大劇場、ならびに日本初の高級映画劇場として計画されました。屈曲した外壁、広大な舞台、アールデコ調の内装など、当時としては斬新かつ画期的な建築要素をふんだんに取り入れていました。
戦後は映画館「丸の内東宝劇場」「日劇ニュース劇場」と居酒屋などが入居しています。

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1階は正面玄関と4階までの大劇場、2階有楽町側には内外どちらからも入れた喫茶「らせん」。4階は稽古場、2台の映写機が置かれた映写室、照明室、パブレストラン「チボリ」、明治の喫茶店。5階は日劇ミュージックホールがあった小劇場。屋上は取材の場所としてよく使われました。劇場の客席は3階席まであり、1階1060席、2階540席、3階463席の計2063席。両壁際にはロイヤルボックスと呼ばれたボックス席が10個(2階6個、3階4個)あり、2階席前3列とともに日劇唯一の指定席となっていました。立ち見の客を最大限入れた状態で「4000人劇場」と呼んだ。
▼この日劇の5階(後に日劇ミュージックホールになる)に、昭和13年(1938)から昭和15年(1940)にかけて「東京婦人会館」という女性のためのクラブの活動施設がありました。
昭和15年(1940)から18年は、東宝ビルに移転しますが、現在のカルチャーセンタの先端と呼べるものでした。
「東京婦人会館」は、小林一三を中心に、ルート化粧料本舗の板倉安兵衛を顧問にして、村岡花子吉屋信子、藤原あき、金子真子などの著名女性陣が役員として、いろいろな講演会をはじめとして、各種技芸教室から育児、法律相談など幅広い活動を行いました。

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日劇5階にあった「東京婦人会館」の図面(400坪)

昭和15年(1940)には、働く女性のために夜間の教室も開講しています。
特に、それまで、家元制度などで、一般の人には少し敷居の高かった、茶道、華道、邦楽舞踊なども、一流講師に安い費用に学べるようにしました。茶室、舞台のある和室など設備もきちんと造られていました。このため、この技芸教室は、常に定員に達していました。
しかし、戦渦はしだいにはげしくなり、「東京婦人会館」は昭和18年(1943)に解散してしまいます。
短い間ですが、華やかな日劇に、静かに日本文化を継承する、一般の女性のための施設があったことは、記録に価すると思います。
昭和20年(1945)第二次世界戦争が終結します。

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昭和22年ごろの有楽町駅前の風景

日中戦争昭和6年)、上海事変昭和12年)、第二次世界戦争(昭和16年~昭和20年)の後、東京大空襲を経て終戦を迎えた日本において、 占領軍は有楽町の第一生命をGHQ(総司令部)とし、周辺の焼け残ったビルを接収しました。
日本人立ち入り禁止のクラブ、キャバレーなどが軒を連ね、 闇物資横行や闇酒もガード下の飲み屋でひそかに飲み交わされていました。その結果、東京の中でも開発が遅れた地域となりました。 また、占領軍相手の娼婦の存在や、すし屋横丁も当時を象徴する土地柄として、戦後の話としてよく取り上げられます。
■昭和27年(1952)の占領政策終了後は、昭和39年(1964)の東京オリンピック開催に向け高速道路の建設や、地下鉄丸の内線、東海道新幹線が開通し有楽町駅前は整備。 1965年(昭和40年)には大型ビルの東京交通会館が落成し、すし屋横丁も撤去。数寄屋橋も外濠が埋め立てられた後取り払われ、有楽町は大きく変貌を遂げて行きます。

「数寄屋橋」の話

 

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高速道路の高架。その下は「銀座ファイブ」です。銀座ファイブは、「数寄屋橋ショッピングセンター」より平成12年4月17日に名称変更しています。「銀座ファイブ」の向こう側に「数寄屋橋公園」があり、そこに「数寄屋橋の碑」があります。裏面に次のように書かれています。

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寛永6年(西暦1629年)江戸城外廊見附として数寄屋橋が初めて架けられた時は幅4間長3間の木橋であった 
橋名は幕府の数寄屋役人の公宅が門外にあったのに依るという見附の城門枡形は維新の際に撤去され 
ついで大正大震災後の復興計画によって完成を見た近代的美観を誇る石橋が銀座の入口を扼することヽなった 
爾来30年首都交通の激増はこの界隈を更に変貌させた外壕上を高架車道が地下には地下鉄が走るようになって橋も姿を消し ここは渾然たる大銀座の一劃となった
本会は茲に旧橋の遺材を以て碑を建て感慨深い東京文化の変遷を偲ぶよすがとした  
                  1959年4月  数寄屋橋公園美化協力会
数寄屋橋」の地名由来については、前回、織田有楽斎の茶室があったことによるという説を紹介しましたが、ここでは。「幕府の数寄屋役人の公宅が門外にあったことによる」とあります。
『御府内備考』は、江戸後期に編纂された江戸の地誌『御府内風土記』の資料集ですが、その『御府内備考』の数寄屋橋御門の項には、数寄屋町というのは御数寄屋の者の屋敷があったからと書かれています。御数寄屋の者というのは数寄屋坊主のことで、幕府で茶礼・茶器のことを司った職名です。
この数寄屋町があったことが数寄屋橋の名の由来とされています。
数寄屋橋寛永6年(1629)江戸城外郭見附、数寄屋橋御門の橋として架けられ、、御門内に南町奉行所がありました。数寄屋橋御門は慶長7年(1602)に築かれ、寛永6年(1629)陸奥仙台藩主の伊達正宗が石垣と枡形門を完成させました。

現在何の遺構も残っていないので、「数寄屋橋御門」「数寄屋橋」の図・写真等を少し見ておきたいと思います。

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数寄屋橋御門

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絵本江戸土産(広重) 『数寄屋河岸の夕景』

この絵には「数寄屋橋御門の外にて西は、大城(たいじょう)の石壁数里に連なり、東南北はみな市中にして商賈(しょうこ 商人)軒(のき)を嵩(かさ)ね甍(いらか)をならべ、東都の繁栄目を驚(おどろ)かせり。富士山朦朧として高く聳(そび)え、湖中船筏(せんばつ)には夕餉(ゆうげ)を炊(かし)ぐ。実に一時(いちじ)の壮観なり」とあります。
絵の右側はお濠で、右側中央に見える橋は数寄屋橋かと思われます。橋の右には数寄屋橋御門があります。
お濠は、現在首都高速が通っています

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文久3年(1863)14代将軍家茂の上洛の行列が馬印を掲げ、数寄屋橋門を通過する様を、2代目歌川広重が描いたものです。

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明治時代の数寄屋橋御門の風景

明治維新後に城門は撤去され、 関東大震災 後の帝都復興事業によって昭和 4年(1929)に石造りの2連 アーチ橋 に架け替えられました。

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数寄屋橋朝日新聞社

白い数寄屋橋は建築家山口文象(ぶんぞう)の代表作でした。
晴海通り (都道304号) が外堀を渡る位置にあり、北側に 日劇朝日新聞社 、南側に 銀座東芝ビルがありました。

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数寄屋橋が外濠に架かり、多くの人がいます。橋の先に日劇朝日新聞社の建物があります。右下に昭和28年の紙が貼ってあります。

ちなみに、「朝日新聞東京本社」は昭和2年(1927)、丸い形の日本劇場(日劇)は昭和8年(1933)に建てられました。
昭和27年(1952)にラジオドラマ、菊田一夫作「君の名は」が始まりました。
その主人公の春樹と真知子の待ち合わせ場所が数寄屋橋でした。
昭和27年(1952)から昭和29年(1954)にかけて全国放送され大好評を博します。
2人は運命的なすれ違いを重ねる物語で、銭湯の女湯から人が消えるという伝説とともに全国的に話題になりました。
数寄屋橋」の名を全国的に有名にしたのは、この菊田一夫の原作によるNHKラジオ連続放送劇「君の名は」だったと言えるでしょう。

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「君の名は」の映画 数寄屋の場面

昭和28年(1953)には大橋秀雄監督で、岸惠子佐田啓二主演で、映画化され、その人気は絶大なものでした。

しかし、昭和33年(1958)には、外堀が埋められ 、東京高速道路 が建設されるのに伴い、数寄屋橋は、取り壊されてしまいます。
もう一度数寄屋橋公園に帰りましょう。

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菊田一夫の「数寄屋橋 此処に ありき」

現在は、数寄屋橋公園の奥の方に「若い時計台」があります。
時計台は、昭和41年(1966)、「銀座ライオンズクラブ」から「東京数寄屋橋ライオンズクラブ」が独立したことを記念てし、両クラブからの依頼を受けて岡本太郎さんがデザインを担当して制作されました。
当時の数寄屋橋界隈は「みゆき族」など最先端のファッションや文化が生まれる街として知られる一方で、集まる若者たちの風紀の低下が問題視されていました。そこで時計台の建設は「青少年の健全育成」が目的でした。
岡本太郎は同所を訪れて「やたら色、形が混乱した雑踏の場。ひどい」と嘆きながら、「ただすっきりとしたものを作ったって埋もれてしまうだけ。激しいと同時に、静まった、周囲と異質でありながらピタリとあの場所に生きる、彩の濃い象徴を」と構想。
円柱スタイルの台から円すい状のオブジェがさまざまなに突き出す全長約8メートルの「若い時計台」を完成させました。
▼今回行ってみると、「若い時計台」の前に「明るい未来」という文字が立てられていました。

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岡本太郎の「若い時計台」と「明るい未来」

これは、太湯雅晴氏による「The Monument for The Bright Future TOKYO / 2021の作品でした。
岡本太郎のパブリック・アート「若い時計台」の前に、かつて福島県双葉町に掲げられていた標語看板から「明るい未来」の文字を設置した作品でした。この「明るい未来」の文字は、福島県双葉郡にかつて掲げられていた原子力発電に関連する標語「明るい未来のエネルギー」から取られたものです。ポジティブさが演出された東京オリンピック原発事故を想起させるネガティブな「明るい未来」を、岡本太郎の「対極主義」を援用しつつパブリック・アートに対して展開させた作品ということでした。

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少し横からずらして撮ってみました。

 

「有楽町」と「数寄屋橋」と「南町奉行所跡」

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織田有楽斎画像ー正伝永源院所蔵)

■「有楽町」という町名は、戦国武将の織田有楽斎(おだうらくさい)に由来するとされます。
織田有楽斎は、織田信長の弟で本名は織田長益です。
信長が本能寺の変で倒れてからは秀吉に仕え,関ヶ原の戦いでは東軍につきました。また大坂冬の陣では豊臣方の盟主に推されたが,夏の陣には参加しませんだした。
そうした武将でしたが、後年は茶人として過ごしました。有楽斎は号で,単に有楽とも言います。
茶人としても名をはせた有楽斎は、関ヶ原の戦いのあと徳川方に属し数寄屋橋御門の周辺に屋敷を拝領し、その屋敷跡が有楽原(うらくがはら)と呼ばれていました。明治時代にその「有楽原」から「有楽町」の名前が付けられました。
ただ、江戸初期に有楽斎の屋敷がはたしてそこにあったかなど、はっきりした記録は残っていません。
ただ、江戸切り絵図に「有楽原」という名前は出ています。(下の切り絵図参照)

その「有楽原」から、「有楽町」は誕生したのです。
▼「数寄屋橋」という地名もあります。これも織田有楽斎に因むという説があります。
数寄屋橋は、寛永6年(1629)に江戸城外堀に架けられた橋です。
小規模(多くは四畳半以下)な茶座敷を「数寄屋」と呼んでいました。「数寄屋」は「茶室」を意味します。
数寄屋橋あたりに「有楽斎の茶室」があった所からその名称が来ているという説です。

しかし、別の説に、このあたりには、「御数寄屋坊主」の屋敷があり、「御数寄屋坊主」は、茶礼や茶器を司る坊主で、参勤する大名や高禄の武士にお茶を出していました。御数寄屋坊主と言っても、宗教的な坊主ではなく名流派筋の茶道の坊主で世襲でした。

この数寄屋坊主衆に由来して「数寄屋町」から「数寄屋橋」さらに「数寄屋橋御門」と名付けられたというものです。下の写真の後ろ側にある案内には、「御数寄屋坊主」に由来すると説明が書かれています。(次回紹介予定)

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菊田一夫の「数寄屋橋此処にありき」

数寄屋橋」は現在の銀座5、3丁目付近になり、数寄屋橋交差点や数寄屋橋公園など、周辺にその名前が残っています。
また「数寄屋橋」という地名が、いまでも多くの人に親しまれているのは、1950年代に放送されたラジオドラマ『君の名は』で、“待ち合わせ場所”になっていたからです。

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戸切り絵図

安政の江戸切り絵図を見ると、数寄屋橋御門のそばに「奉行所(南)、池田播磨守」の記載があります。ここが南町奉行所です。
池田播磨守頼方は、嘉永5(1852)~安政4(1857)と安政5(1858)~文久1(1861)に南町奉行所に奉行として就任しています。
この切り絵図は、安政年間のものです。

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■JR「有楽町」の駅前広場に「南町奉行所跡」の碑があります。「大岡越前守忠相」も町奉行を務めたところです。
平成17年の発掘調査で見つかった下水溝の一部が再現され、地下に、江戸時代中期に掘られた穴蔵(地下室)が展示されています。
南町奉行所は、宝永4年(1707)に常盤橋門内から数寄屋橋門内に移転し、幕末までこの地にありました。その範囲は、有楽町駅および東側街区一帯にあたりです。
平成17年(2005)の発掘調査では、奉行所表門に面した下水溝や役所内に設けられた井戸、土偶などが発見されました。

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南町奉行所跡」の碑のそばには、発掘した石を使った石垣が飾ってあります。

エスカレーターを下りると、穴蔵の板枠が壁に立てて展示されています。

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穴蔵は厚い板材を舟釘で留め、隠し釘となるように端材を埋め、板材の間に槇肌(木の皮)を詰めて防水処理をしており、壁板の一辺に開けた水抜き穴から竹管がのびて桶に水が溜まる構造です。
この穴蔵の中から伊勢神宮の神官が大岡忠相の家臣に宛てた木札が出土しています。

左右にに置かれたベンチは、木樋(もくひ・江戸時代の水道管)です。

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江戸町奉行は、寺社奉行勘定奉行とともに、徳川幕府の三奉行のひとつでした。その職掌は、江戸府内の行政・司法・警察など多方面に及び、定員2名で南北両奉行に分かれ月番で交代に執務していました。
大岡越前守忠相は、享保2年(1717)~元文元年(1736)にかけて南町奉行としてここで執務をしていました。
また、遠山の金さんでお馴染みの遠山金四郎天保11年(1840)~天保14年(1843)まで北町奉行を務め、その後、弘化2年(1845)~嘉永5年(1852)までは南町奉行も務めています。両町奉行を務めたのは遠山金四郎だけです。
大岡越前守忠相の上屋敷跡が霞が関にあります。現在は「弁護士会館」です。
 大岡越前守忠相屋敷跡 千代田区霞が関1-1-3
 弁護士会館の植栽の中に案内板があります。
「名奉行として知られる大岡忠相(1667-1751)は、徳川吉宗が八代将軍に就任した翌年(享保2年・1717)に江戸奉行に起用され、以後20年間その要職にあった。
宝暦元年(1751)12月、半年前に没した吉宗の後を追うようにして亡くなった。
この地は晩年に忠相の上屋敷がおかれた場所である。」(案内板より)

霞が関の屋敷から有楽町の南町奉行所まで江戸切り絵図で大岡越前守忠相の通勤路を示してもらいましょう。

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大岡越前守の南町奉行所までの通勤路(予測)