まさかりかついで きんたろう  「金太郎」はどこにいる。

f:id:ktuyama:20210206104152j:plain

神楽坂を本多横丁を抜けて大久保通りに出ると、筑土八幡神社があります。
嵯峨天皇の時代(809年 - 823年)に、付近に住んでいた信仰心の厚かった老人の夢に現われた八幡神のお告げにより祀ったのが起源と言われる古い神社です。
元和2年(1616)には、それまで江戸城田安門付近にあった田安明神が隣に移転して来て「津久戸明神社」となり、筑土八幡神社と並んでいました。
それが昭和20年(1945)に第二次世界大戦による戦災でどちらも全焼してしまいます。
それで、津久戸明神社は千代田区九段北に移転し「築土神社」として鎮座しています。「築土神社」は、平将門を祀る神社として人気を集めています。
久しぶりに筑土八幡神社行ってみると、その津久戸明神社があった場所に大きなビルが建つようで、工事が進んでいました。
▼筑土八幡神社は、高台にあります。
登録有形文化財の「石造鳥居」、指定有形民俗文化財の「庚申塔」があります。
筑土八幡神社の入口には「田村虎蔵先生顕彰碑入口」の石碑が建っています。
急な階段を登りつめると、左手に「田村虎藏先生をたたえる碑」があります。

f:id:ktuyama:20210206104036j:plain

碑文には「田村先生(1873~1943)は鳥取県に生れ東京音楽学校卒業後高師附属に奉職 
言文一致の唱歌を創始し多くの名曲を残され また「東京市視学として日本の音楽教育にも貢献されました」と記してあります。また「まさかりかついで きんたろう」の「金太郎」五線譜が刻まれ、「1965 田村先生顕彰委員会」とあります

田村虎蔵は作曲家で「金太郎のうた」、「花咲爺」、「大黒様」、「青葉の笛」、「一寸法師」、「浦島太郎」などを作曲をしています。
昭和40年(1965)教え子たちが3回忌を記念して、田村虎蔵がよく散歩していた筑土八幡境内に顕彰碑を建てました。
田村虎蔵の家は、筑土八幡神社の裏側にありました。現在その家はありませんが小さな碑があります。

f:id:ktuyama:20210206104853j:plain

f:id:ktuyama:20210206110356j:plain

筑土八幡神社の裏の坂。坂下に田村虎蔵旧居があった

簡単な年譜で言えば下記の通りです。
明治6年(1873)5月24日 鳥取県岩美郡馬場村(現・岩美町馬場)にて出生。蒲生小学    校卒業
明治33年(1900)言文一致唱歌を提唱し、納所弁次郎らと「幼年唱歌」「尋常小学唱歌」などを編集
大正11年(1922)西洋に渡り音楽教育事情を研究。帰国後は東京市音楽担当視学となる
昭和18年(1943)11月7日没
▼「それまで、文部省の唱歌教科書ではどれも漢文調で難しい歌詞が多く、一方、軍歌では乱暴な言い回しが多かった。
これに対して、田村虎蔵は美しい声、美しい歌を主唱した、言文一致の唱歌創始者の一人だった」とあります。
作曲の言文一致体唱歌がどんなものかよくわかりませんが、とにかく親しみやすいすぐに口ずさめるような曲なおでしょうか。
「まさかりかついでキンロウ…」や「うらのはたけで、ポチがなく…」「大きな袋を肩にかけ…」など、誰でもよく知っていて、
ふと口をついて出てきます。作詞: 石原 和三郎  (1865-1922) 

♪まさかりかついで きんたろう
 くまにまたがり おうまのけいこ
 ハイシイドウドウ ハイドウドウ
 ハイシイドウドウ ハイドウドウ
♪あしがらやまの やまおくで
 けだものあつめて すもうのけいこ
 ハッケヨイヨイ ノコッタ
 ハッケヨイヨイ ノコッタ

▼歌詞で見ると「金太郎」は単純です。金太郎がどういう人物か記されていません。
auのCMに、桃太郎、浦島太郎、金太郎の3太郎が登場します。
浦島太郎ウラタロス「でもさ、桃太郎と浦島太郎はあらすじを言えるけど金太郎は言えないんだよね」
桃太郎 モモタロス「確かに言われてみれば…」
金太郎 キンタロス「金太郎といやあまさかりかついで熊と相撲取って…アカン、それまでや…」

▼そこで、金太郎を調べてみました。
金太郎にはいくつも伝説が存在するようですが、「ウィキペディア」から、静岡県駿東郡小山町金時神社に伝わるものを引用させてもらいます。
「天暦10年(956年)5月に誕生う。彫物師十兵衛の娘、八重桐が京にのぼった時、宮中に仕えていた坂田蔵人と結ばれ懐妊した子供とされる。
八重桐は故郷に帰り金太郎を産んだが、坂田が亡くなってしまったため、京へ帰らず故郷で育てることにした。
成長した金太郎は足柄山で熊と相撲をとり、母に孝行する元気で優しい子供に育った。
そして天延4年3月21日(976年4月28日)、足柄峠にさしかかった源頼光と出会い、その力量を認められて家来となる。
名前も坂田金時(きんとき)と改名し、京にのぼって頼光四天王の一人となる(他には渡辺綱卜部季武碓井貞光が四天王)。
永祚2年3月26日(990年4月28日)、丹波の国大江山(現在京都府福知山市)に住む。
酒呑童子が、都に訪れては悪いことをするため、源頼光や四天王たちが山伏姿に身をかえ、神変奇特酒(眠り薬入り酒)を使って退治する。
そして、坂田金時は寛弘8年12月15日(1012年1月11日)、九州の賊を征伐するため築紫(現在北九州市)へ向かう途中、作州路美作(みまさか)勝田壮(現在の岡山県勝央町)にて重い熱病にかかり、享年55で死去した。」
酒呑童子の退治の話では、渡辺綱1人が有名で、坂田金時や3人はあまり目立ちません。
▼この話で、個人的に驚いたのは、「作州路美作(みまさか)勝田壮(現在の岡山県勝央町)にて重い熱病にかかり死去」でした。
勝央町、私の郷里は作州・津山なので、近いです。まったく、知りませんでした。
「勝田の人々は金時を慕い、倶利加羅(くりがら、剛勇の意)神社を建てて葬った。その神社は現在、栗柄神社と称する」一度訪ねてみたいと思います)

▼そしてもう一つ、金太郎を調べていて、知ったことがあります。
金時豆(きんときまめ)」「きんぴらゴボウ」です。
「金時は酒呑童子を退治しました。金時の肌は赤い褐色でした。だから赤い褐色の豆を金時豆と言うようになりました」ということです。
金平は「きんぴら」と読みます。つまり「きんぴらごぼうのきんぴらで「きんぴらごぼう」の名前の由来になっています。ゴボウの歯ごたえや精がつくところ、また唐辛子の強い辛さが坂田金平の強さに通じることから、「きんぴらごぼう」という料理の名がついたということです。
親が豆で,子がごぼう。面白いなと思いました。
でも、金太郎も忘れられきていて、まして、息子の金平については、年配の大人でもほとんど知らないと思います。

時代の流れと言ってしまえばそれまでですが、どこか淋しいです。