内田百閒の千代田区五番町・六番町の住まい

 

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屋敷があったあたりの前の道から外濠の土手の方を望んで見た。

随筆『阿防(あほう)列車』で知られる内田百閒は、明治22年(1889)に岡山市に生まれました。本名は內田 榮造です。
明治44年(1911)に、病気見舞いに行った夏目漱石に弟子入りしています。
千代田区五番町、六番町は、内田百閒が晩年を過ごした地です。
(ちなみに、筆名の「百閒」は、故郷岡山にある旭川の緊急放水路である百間川から取ったもので、当初は「百間」と表記していましたが、後に「百閒」に改めました。 門に耳が入る字です)。
昭和4年(1929)から現在の防衛庁の近く「合羽坂」に住んでいました。この合羽坂は、現在そう呼ばれている合羽坂ではないようです。その当時「合羽坂」と呼ばれていた坂をあがった仲之町でした。
その仲之町から、昭和12年(1937)に「麹町区土手三番町37番地」に引っ越します。
現在の番地で言えば「千代田区五番町12番地」になります。
麹町区」があったのですね。「土手」は外堀の堤のことでしょう。四谷見附跡、四谷駅はすぐ近くです。家は借家でした。
その家のことについて弟子だった中村武志が『内田百聞と私』(「同時代ライブラリー」岩波書店)に詳しく書いています。

大変興味深いので、カットもあわせて、引用させてもらいます。

五番町での最初の家は2階建てでした。2階は6畳1間、1階は玄関2畳で、8畳2間と3畳の部屋があったようです。また、土地に高低差があったようです。
中村武志の図をお借りします。見てください。右側です。

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お隣は、松木男爵の邸宅でした。大きな家で、長い塀がありました。
(図に記されている「長い塀つい小便がしたくなり」は百閒の川柳で、それが載った『長い塀』という随筆集があるようです。)

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外濠の土手から見た松木男爵の邸宅のあった場所。そこに3畳の掘っ建て小屋があった。

その借家が、昭和20年(1945)5月25日の大空襲で焼けてしまいます。
それから大変です。松木男爵邸の片隅に3畳敷の小屋があり、そこを借りました。上の図で言えば、土手に近い左側です。
3畳と言っても1畳は低い棚の下になっていて、座ったり、寝たりするには2畳しか使えませんでした。
内田百閒夫婦は、その3畳の掘っ建て小屋で3年も過ごすことになります。
トイレやお風呂はどうしたのでしょう。気になります。中村武志の『内田百聞と私』に百閒の言葉で。
「憚(はばかり)は、今日家内がこしらへてゐた。小屋の横の塀陰に穴を掘り焼け跡から持ってきたバケツを入れ、両側に歩道の敷瓦を1枚宛おいて設備は完全である。」
厠のバケツは夜更けに奥さんが邸外へ持ち出し、道路のマンホールの重い鉄蓋をずらして流し込むのであった。
「銭湯には行かず、松木家に皆さんが寝るの待って3年間盥の行水ですませた。」
大変だったでしょうね。百聞としても引っ越しを検討していたようですが、3年過ごし、近場に家を持つことになります。
昭和22年(1947)、松木男爵からお手伝いさんが、賃屋の土地40坪をもらったのですが、そこを買ってほしいと言われ、
百聞は買うことにします。
そのころ、ちょうど夏目漱石の全集と自らの全集を出版するという企画が持ち上がり、その印税で家を建てることにしたのです。
昭和23年(1948)5月末、空襲で焼ける前に住んでいた家から道を隔てて向かい側、六番町6に、3畳間が3つ並んだいわゆる「三畳御殿」を建てました(下の図参照)。

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百聞は、この「三畳御殿」に昭和46年(1971)、81才で死ぬまで住むことになります。

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百閒の終焉の家「三畳御殿」の前あたりは、現在「東京中華学校」がある。

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東京中華学校には「長い塀」がある。

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三畳御殿のあったあたりに入って見ると、双葉小学校が見えた。

昭和32年(1957)には、「三畳御殿」で可愛がっていた猫「ノラ」が失踪してしまい、有名な随筆『ノラよ』が書かれます。
昭和45年(1970)  最後の百鬼園随筆である『猫が口を利いた』発表。老衰が激しく以降の作品が書けず、これが絶筆となります。
昭和46年(1971)4月20日 - 東京の自宅で老衰により死去、享年81。
昭和48年(1973) 摩阿陀会有志により中野の金剛寺に句碑「木蓮や塀の外吹く俄風」が建立。この句碑から忌日を木蓮忌と言います。

*摩阿陀会(まあだかい
内田百閒は、法政大学教授をしていましたが、還暦を迎えた翌年から、教え子らや主治医・元同僚らを中心メンバーとして、毎年百閒の誕生日である5月29日に「摩阿陀会(まあだかい)」という誕生パーティーが開かれていました。摩阿陀会の名は、「百閒先生の還暦はもう祝ってやった。それなのにまだ死なないのか」、「まあだかい」に由来します。黒澤明監督の映画『まあだだよ』は、この時期を映画化したものです。