麹町の藤田嗣治(旧居)と佐伯祐三(墓)

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麹町六丁目 安政3年(1856)の古地図

江戸時代の古地図で言えば、四谷見附から麹町に入るとすぐ左に、成瀬隼人正の上屋敷があります。
現在で言えば、四ッ谷駅の麹町口を出て、道を渡るとすぐ、ということになります。
成瀬隼人正は、代々尾張徳川家の付家老職で、犬山藩の藩主でした。
付家老(つけがろう)とは大名級の徳川譜代の家臣を徳川御三家だけに家老として配した役職です。
心法寺との間の道は、古地図には出ていませんが、成瀬横丁と呼ばれていました。
その成瀬横丁から麹町七丁目横丁にかけて、明治から大正、昭和にかけて多くの文人が住んでいたので、
千代田区は「六番町文人通り」と名付けています。

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藤田嗣治旧居跡の碑

▼旧成瀬横丁の成瀬家の屋敷跡の所に藤田嗣治旧居跡の碑があります。
藤田嗣治(ふじたつぐはる、1886年11月27日 – 1968年1月29日)は東京市牛込区に4人兄弟の末っ子として誕生しました。
藤田嗣治は、フランスで活躍し、油彩画に日本画の技法を取り入れた独自の「乳白色の肌」を用いた裸婦像を描き、西洋画壇に脚光を浴びていました。昭和14年(1939)第二次世界大戦が勃発したため日本に帰国しました。そして、昭和15年(1939)から昭和19年(1944)、この六番町13に住んでいました。

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「六番町文人通り」「心法寺」の屋根の右側、樹木があるあたりが藤田嗣治旧居跡です。

なお、藤田嗣治は、昭和10年(1935)に25歳年下の君代と出会い、一目惚れして翌年5度目の結婚をして、終生連れ添っています。
ここの屋敷から従軍画家として戦地へ行き、戦争記録画を精力的に描きましました。
そのため、終戦後、日本美術界は画家としての戦争責任を藤田一人に負わせようとしました。
昭和24年(1949)、藤田は責任をとるかのようにアメリカ経由でフランスへ移住し、二度と日本へ戻ることはありませんでした。

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藤田嗣治の『私の画室』

藤田嗣治は、麹町区下六番町に建てたアトリエ兼住居の室内を描いた作品があるということなのですが、この作品『私の画室』かなと思います。
今は、藤田嗣治旧居跡の碑がたつばかりです。
▼その藤田嗣治が暮らした六番町の家の前は、塀を隔てて「心法寺」という浄土宗のお寺があります。

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「常栄山心法寺」本堂

「心法寺」は、三河国の秦宝寺から天正18年(1590)に徳川家康といっしょに江戸に来た然翁聖山和尚が創始者ということです。
そして、寛永年間に江戸城拡張工事のため、麹町の数多くの神社仏閣が、外堀の外に移転した中において、心法寺は、麹町に留まり、現在に至っています。したがって、千代田区内で最も古い寺で、かつ唯一墓地があるお寺なのです
実は、その心法寺に、佐伯祐三家の墓があります。墓石には佐伯祐三、米子、彌智子の名前が刻まれています。

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佐伯祐三一家の墓

佐伯祐三は、昭和3年(1928)8月16日の死亡しました。娘の彌智子は後を追うようにその8月30日病死します。
祐三と彌智子の遺骨を抱いた米子未亡人は、昭和3年(1928)10月31日朝、郵船・北野丸で神戸港に帰ってきました。
そして、11月5日、祐三と彌智子の本葬は、佐伯祐三の大阪の生家、浄土真宗本願寺派名刹「光徳寺」で営まれます。
祐三の法名は巌精院釈祐三で、彌智子は明星院釈尼祐智でした。
麹町のお寺にどうして佐伯祐三の家族の墓があるのか、理由はわかりませんが、ここにお墓があることは、あまり知られていないと思います。
墓のある案内もありませんし、墓地まで入るのも気が引けます。
一度、お参りしたことがあり、写真はその時のものです。
フランスで活躍し、日本でも人気の高い藤田嗣治佐伯祐三がこのような近くで縁があるとは不思議です。