「番町」の歴史を嗅ぎ取る。

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江戸の「番町」を記した切り絵図です。すべて名前が載っています。大番組の旗本だったからです。
千代田区の「番町」エリアは皇居の西南に位置し、高級マンションが建ち並ぶ住宅地です。
江戸時代の旗本のうち、将軍を直接警護するものを大番組と呼び、大番組の住所があったことから番町と呼ばれました。
大番組は設立当初、一番組から六番組まであり、これが現在も名目だけ一番町から六番町に引き継がれています。
しかし江戸時代の大番組の組番号と、現在の町目の区画は一致していません。
江戸時代の番町の区画は、通りに面して向かい合う二連一対の旗本屋敷の列を基準に設定されていました。(名前が道を挟んで姓を付き合わせています)
そのように、「番町」という地名には、歴史を感じます。
実は上に載せたような、江戸の「切絵図」は「番町」のわかりづらさから発案されたにです。
切絵図の「番町」収図範囲は、四谷御門・市ヶ谷御門・市ヶ谷濠・九段・富士見・番町・麹町の地域です。この一帯は幕閣の中堅幹部・組番の役宅密集地で、麹町通りの町地を除く約9割が旗本屋敷となっていました。
それに、役職が変わるたびに移転するので、「切絵図」改版も多かったようです。
旗本屋敷街と外桜田の大名屋敷街に挟まれて伸びるのが麹町です。麹町は江戸で最も古くからある町地で、武家の衣食を支えて栄えてきました。

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番町文人通りの道に建つ「番町文人通り」の碑

前に記した心正寺と藤田嗣治旧居跡の道を少し来ると、江戸時代、大番組の大阪城、二条城を敬語する組頭のひとり、笠原平太夫の屋敷跡に来ます。この前に「番町文人通り」碑があります。「番町」のことを詳しく記しています。

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番町の道は江戸時代とあまり変わっていません。切り絵図散策にも楽しい町です。

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「番町」は、このように江戸時代武家地だったことから、広い敷地が必要な学校が多く,イギリス大使館ローマ法王庁大使館なども多く建っています。
また、明治から大正、昭和にかけて多くの作家や文化人に愛された街でもあり、小説家の島崎藤村与謝野晶子与謝野鉄幹永井荷風菊池寛、作曲家の滝廉太郎なども居を構えた街として知られています。その住居跡や史跡碑などからは歴史と文化の香りを感じる事ができます。
第2次大戦後,今は移転しましたが、日本テレビをはじめ、大きな会社,事業所が進出し、高級マンションも多く建ちました。

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番町小学校:文政年間(1818~29)以前にはこの地に、四谷門の定火消し屋敷がありました。