「新宿ワシントンホテル」の「韋駄天尊」と「蛯子稲荷大明神」

                

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▼西新宿の都庁の隣り「新宿パークタワー」あたりは、江戸時代から明治にかけて、『梅屋敷銀世界』と名付けられた梅園でした。
その様子をしるには、歌川広重(2代目)が、慶応3年(1867)に『梅屋敷銀世界』を描いた「絵本江戸土産第10編 『四谷新町』」(上の絵図)があります。
絵には、天保3年(1833)琉球人棟応昌が書いた「銀世界」の石碑が、大きく描かれています。
『梅屋敷銀世界』は明治45年(1912)に、ガスタンクが出来るので、芝公園へ移されました。
昭和40年(1965)には、浄水場は廃止され、西新宿一帯は、高層ビルの立ち並ぶ都心へと大変貌を遂げます。
『梅屋敷銀世界』があった場所には「新宿パークタワー」が建設されましたがその一角に、『梅屋敷銀世界』を偲ぶ「銀世界稲荷」があります。
▼江戸時代、『梅屋敷銀世界』の隣は「館林藩角筈抱屋敷」でした。抱屋敷とは、大名家が自分で所有権を取得した屋敷のことです。
群馬館林出身の作家田山花袋(1871~1930)の家系は、館林藩の下級藩士でした。
明治30年代、館林藩角筈抱屋敷は、田山花袋の義兄が屋敷守をしていました。その縁で、田山花袋はこの屋敷を頻繁に訪れています
そして、すぐ近くだった淀橋浄水場が建設される様子などを『時は過ぎゆく』に書いています。また、梅屋敷のことも出てきます。
「梅が白く垣根に咲く時分には、近くにある名高い郊外の梅園に大勢東京から人が尋ねて来た。瓢箪などを持って来て、日当たりの好い芝生で、酒を酌んだりなどする人達もあった。梅の多い奥の邸に間違えて入って来て、『や、ここは銀世界じゃないのか。それでも梅が沢山あるじゃないか』など言って、門の中から引き返して行くものなどもあった。」
館林藩は、小田原征伐後、徳川四天王の一人・榊原康政が館林10万石で立藩しました。
寛文元年(1661)のち六代将軍となる徳川綱吉が25万石で館林藩主になりましたが、その外はおおむね5万石から11万石の中藩でした。
幕末の弘化2年(1845)出羽山形藩から秋元志朝が6万石で入り、それ以後明治4年(1871)の廃藩まで秋元家が藩主として続きました。
その最後の藩主秋本家の抱え屋敷が、元角筈、現在の新宿ワシントンホテルから都庁にかけてあってわけです。

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▼「新宿ワシントンホテル」ビル玄関の右側に、健脚健康の神、韋駄天を祭った「韋駄天尊(いだてんそん)」があります。
秋元家第2代藩主、秋元但馬守礼朝(ひろとも)の守護神・戦神として浅草の屋敷に祭祀されていました。
韋駄天尊は、韋駄天尊は江戸中期の作とされ、浅草の屋敷から、明治4年(1871)年、現在の場所に遷座されたものです。
その後広く信仰を集め参詣する人が増えたため、大正8年(1919)独立仏堂となりましたが、第二次世界大戦末の空襲により昭和20年(1945)4月仏堂は破壊消失されてしまいました。
戦後の混乱がようやく治まりつつあった昭和30年(1955)ごろ地元に復興の機運が高まり、板碑で「新宿韋駄天尊」は復元されました。

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板碑は宮原柳遷画伯の揮毫により、仙台石に彫刻されました。 堂宇は総桧造りで再建されました。

それから、昭和61年(1986)、この地域が東京副都心として超高層ビルが林立し始める時、当地の守護神として現在の堂宇が建立されました。

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堂宇の中の全景。賽銭箱のところに、白いシューズがある。

▼韋駄天尊とは
古代インド神話の神であり、仏教においては南方増長天八大将軍の一官として三十二将の主位に置かれています。
インドの伝説によれば釈迦牟尼世尊の入滅後、 仏舎利を奪った足疾鬼(そくしつき) に対し、韋駄天尊は得意の脚力で追い、雲を踏み、霧を破って瞬時に奪還したとあります。このことから足の速い様を「韋駄天のごとし」といい、 その走力を韋駄天走りと称するようになりました。
韋駄天尊のご神徳は、勇猛迅速ということで、大名の間では守護神又は戦神として祭祀されていました。そのうち、しだいに、一般に信仰は拡がり、勝負事の神、あるいは足の神として尊崇されて行きます。殊に腰部より足先にかけての疾患等はその信心により癒されるとされました。
▼浅草から角筈へのご遷座にまつわる伝説があります。
もともとは、立像であった韋駄天尊像を秋元家屋敷の浅草新寺町から角筈へ運搬しようと請け負った者が、 男一人と荷車一台を手配して訪れたところ、高さ6尺、重さ300貫程という想像以上の大きさでした。 浅草から角筈までは一里半はあり、駿河台や九段の坂もこれでは覚束ないとして後日準備万端臨まねばと考え、出直そうとしました。その時、運搬人の耳元で「心配することはない。坂やなんぞは俺れが後押してやるから運べ運べ」とささやく声が聞こえました。 やってみるかと韋駄天尊と蛯子稲荷大明神の御二柱を車上に上げ、荷車を引き出してみると、坂道になっても平坦を行く軽さで、 角筈下屋敷にまで運び込んでしまったと伝えられています。
これは確かに、韋駄天尊の御加護だと当時の人々は云い、より崇敬の念を篤くしました。

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▼韋駄天尊並んで、商売繁盛の神様「蛯子稲荷大明神」があります。
「蛯子稲荷大明神」は「うばこいなりだいみょうじん」と読みます。
「蛯」は本来「えび」と読みます。「蛯」は海老の別の表記ですが、蛯には老の字が含まれていることから、「うばこ」と呼んだのでしょう。
商売繁盛の神として韋駄天尊と共に浅草から当地に遷座されました。「蛯」は本来「えび」と読み、 「えびすいなり」と読むのが普通と思われますが、近隣の人々には「うばこいなり」と呼び、親しまれ崇敬されているとのことです。
創建の年代や詳しい由緒は不明です
韋駄天尊の祠の脇には、私財を投じて、この地の祠の建立や、稲足神社(東京都あきる野市)の遷座に尽力された野村専太郎ご夫妻の像があります。

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「衷心より韋駄天尊に対し 感謝と奉仕を捧げる姿」ということです。