新宿区の弁天町の「宗参寺」にお地蔵さんを訪ねる。

新宿区の弁天町にある、宗参寺へに行きました。
宗参寺は、天文12年(1543年)に没した牛込重行(法号:宗参)の墓所を、息子の牛込勝行が造ったことに始まります。宗参寺の「宗参」は牛込重行の法号から来ています。墓地には、東京都史跡に指定されている「牛込氏累代の墓」があります。
牛込氏は、元は上野国(現在の群馬県)の領主で、室町時代後北条氏の家臣となって現在の牛込地域を領しました。
その後、徳川家康に仕えて幕末まで旗本として続きます。
もう一人、こちらは国の史跡になっている江戸時代の儒学者の「山鹿素行の墓」もあります。
山鹿素行は、会津に生まれて江戸で林羅山儒学を学びました。家塾をおこして多くの門弟を育てましたが、当時の官学であった朱子学を批判したことで、赤穂藩へ流されます。晩年には許されて江戸に帰っています。
今回は、その2人の墓でなく、お地蔵さんを訪ねて来ました。
その地蔵菩薩は、牛込氏の墓と、山鹿素行の間にありました。

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三好朋十の『武蔵野の地蔵尊〈都内編〉』 (1972年) に紹介されていました。
「牛込氏の墓の北に隣って南面して高さ1.2mの舟形の光背面に、日月と卍とを彫り、その下に高山院云々と文字を彫り、円頂、立姿の地蔵を浮き彫りにした一塔がある。『干時寛文八申年李右衛門高山院月照宗徹居士信俊逆修云々』」と彫る。申の年の開眼であるから日と月とを文字の上に張り付けたのであろう.山鹿素行一家に縁のある石仏である」
この場所には、高山家という人の墓がありそこの墓地のようです。どういう人かわかりません。立派な地蔵菩薩です。上に日と月が彫られています。そこを見れば、庚申塔のようです。
この高山家の墓地には、数体のお地蔵さんがいらしゃいました。

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隣りの牛込氏の墓に行ってみると、壊れたお地蔵が転がされありました。

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山鹿素行の墓に向かうと、途中に石仏がまとめられていました。お地蔵さんもたくさんあります。

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「三界萬霊」という碑が立っていました。
 「三界」とは、私たちが生まれかわり死にかわりするこの世界のことで「欲界(よくかい)」、「色界(しきかい)」、「無色界(むしきかい)」の三つの世界をいうようです。難しいので、また勉強してみます。
とにかく、この世のあらゆる生命あるものの霊を、宿らせ供養するためのもののようです。ここのお地蔵さんを少し探して載せてみます。

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左の浮き彫りが気になりました。どんな所にあったのでしょうか。

宗参寺の墓地への入り口にある、水子地蔵は、新しい像のようです。

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水子(みずこ)とは、生後1年に満たない時期に亡くなった赤ちゃんや、流産や中絶によって亡くなった胎児のことをいいます。
水子という名前の由来は、日本神話で生後間も無く葦の船で海に流されたと水蛭子(ひるこ・後の恵比寿神)からきているとされています。
昔は、幼くして亡くなってしまった小さな命が生まれ変わることもなく極楽へと旅立つことを悲観し、7歳までの子供は、亡くなった際に儀式を行わず無縁仏としていました。
この小さな命を供養するために、現代でも水子地蔵を建て水子供養を行なっています。
親よりも先に亡くなってしまった子供たちは、親を悲しませたという深い罪悪感から、親の幸せを願い賽(さい)の河原で石を積み上げています。しかし、子供達が親の幸せを願いながら積み上げた石は、鬼によって何度も壊されてしまいます。
その子供達を救うのが、地蔵菩薩水子地蔵です。錫杖(しゃくじょう)でもって追い払うということですが、ここでは、子供を抱いている地蔵です。下に子供たちがいるので、見守っているのでしょうか。
一般に、子供を抱いている地蔵は、子安地蔵(こやすじぞう)とか、子育て地蔵と呼ばれます。
今回の宗参寺のお地蔵さまは、よくわからないまま、終わりました。