伊藤左千夫のお墓と伊藤左千夫牧舎兼住居跡

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亀戸三丁目にある「普門院」の入り口。左に「伊藤左千夫の墓」の石柱があります。

亀戸天神社の近く、亀戸3丁目に、大きな自然体の「普門院」があります。自然体というのは、住職もだれもいなくなったお寺のように、樹木が生い茂っているという意味です。でも、よく見ると、剪定された枝が積んであるので、廃墟になっているのではありません。しかも亀戸七福神で、毘沙門天を祀りしている寺です。
歴史を見ると、普門院は、元和2年(1616)に豊島郡石浜三股城内(いまの荒川区南千住3丁目)から移転してきたと伝えられています。その移転の際に誤って梵鐘を隅田川に落としてしまいました。そこが鐘ヶ淵(墨田区)の地名の由来となった言われています。それほど由緒のあるお寺です。

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伊藤左千夫の墓

ここに明治時代の歌人で小説家としても活躍した伊藤左千夫(元治元年・1864~大正2年・1913)の墓があります。
少しひびが入っていますが、このあたりは、戦災で焼けたので、その時の傷ではないかと言われています。
伊藤左千夫について、新潮社のプロフィールを引用します。
「千葉県生れ。歌人、小説家。1885(明治18)年上京し牛乳牧舎で働いたのち、牛乳搾取業を開業する。30歳の頃から『万葉集』に親しみ、歌会などに出席。
1900年正岡子規を訪ねその門人となる。子規の没後、歌誌「馬酔木」を創刊。
編集、作歌、『万葉集』研究に全力を尽くす一方、斎藤茂吉など優れた門下生を養成した。また、子規の写生文の影響を受け、1906年小説『野菊の墓』、1908年『春の潮』等を発表した。」
「牛乳搾取業を開業する」とありますが、その場所が、現在の錦糸町駅の南口あたりでした。

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「歌碑」と「伊藤左千夫牧舎兼住居跡」の案内板

錦糸町駅、南口バスターミナルのある辺りに伊藤左千夫の歌碑と案内板があります。
案内には、少し長くなりますが、引用します。

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「この地には、明治時代の歌人で小説家としても活躍した伊藤左千夫の牧舎と住居がありました。左千夫、本名幸次郎は、元治元年(1864)8月18日に上総国武射郡殿台村(現在の千葉県山武市)の農家の4男として生まれました.
明治18年(1885)から、東京や神奈川の七か所の牧場に勤めて酪農の知識を深めました。明治22年25歳のとき本所茅場町三丁目18番地(現在地・錦糸町駅南口)の牧舎と乳牛3頭を購入し、四畳半一間と土間のついた仮小屋を建て。乳牛改良社(茅の舎、デポン舎とも称した)を開業しました。
随想「家庭小言」には開業当時の様子について。毎日18時間の労働をしたことや、同業者の中で第一の勤勉家という評を得たことなどが書かれています。
 左千夫が歌の世界に入ったのは、明治26年ごろ同業の伊藤並根から茶道や和歌を学んだことがきっかけでした。明治33年37歳のころには正岡子規の門下生となり、根岸派の有力な歌人として多くの作品を発表しました。
また、子規没後の明治36年には、機関誌「馬酔木」を創刊。
明治41年には後継誌「阿羅々木」(のちに『アララギ』と改題)を創刊して根岸派、アララギ派の中心となり、島木赤彦、斎藤茂吉など多くの歌人を輩出しました。小説では処女作でもある『野菊の墓』が知られています。この作品は政夫と民子の青春、悲運を描き、近代文学の名作と言われます。」
野菊の墓』が世に知られるのに大きく貢献したのが、夏目漱石でした。
漱石は、左千夫が明治39年(1906)に雑誌「ホトトギス」に発表した『野菊の墓』について、左千夫に手紙を送っています。

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千葉県立中央博物館-収蔵資料として掲載されていました

「拝啓 只今ホトトギスを読みました。野菊の花ハ名品です。自然で淡泊で可哀想で、美しくて野趣があって結構です。あんな小説なだ何百編よんてもよろしい。……」
と賞賛しています。手紙の送り主の「金」とは、漱石の本名、金之助のことです。
ただ「野菊の「墓」でなく、野菊の「花」と記しています。
野菊の墓』は、『伊豆の踊子』や『潮騒』と同じように、松田聖子山口百恵といった若手の人気のアイドルによって映画化され、テレビドラマになりました。
木下恵介は『野菊の如き君なりき』という作品を撮っています。
(余談ですが『野菊の墓』限らず、こうしたこと定番だった展開はこれからもあるのでしょうか)
伊藤左千夫は、この地で、明治43年(1910)の大洪水で壊滅的な打撃を受けています。
牧場も20頭の牛を避難させました。この時の様子を『水害雑録』に書いています。
(ネットで読めるので、ぜひ読んでみてください)
そこに「天神川」と出てきますが、これは亀戸との間を流れる「横十間川」のことです。地元の人は、「横十間川」と書いても「てんじんばし」と読んでいました。、天神は亀戸天神社のことです。その裏側に伊藤左千夫のお墓のある「普門院」はあります。

案内の続きです。

「経営の問題から、明治45年に南葛飾郡大島町(現在の江東区大島)に牧舎を移し、程なくして茶室「唯真閣」(現在は千葉県山武市に移設)を残して家族とともに転居しました。大正2年(1913)7月30日50歳で没しました。
隣に建つ「よき日には」の碑は、昭和58年(1983)に「伊藤左千夫記念会」が建てたものです。刻まれている歌は明治41年10月「阿羅々木第一巻第一號」の「心の動き二」に掲載した一首で、家で遊ぶ子供たちの様子を詠んだ作品です。親として子供に寄せる左千夫の思いがうかがわれます。
平成二十四年三月  墨田区教育委員会

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「よき日には 庭にゆさぶり 雨の日は 家とよもして 児等が遊ぶも 左千夫」