超高層ビル街に、しっかり地に足をつけて残る「成子子育地蔵尊」。

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「成子坂下」先は神田川の淀橋。開発はまだ続いています。

再開発によって街がすっかり変わっても、それによって所在の位置は異動しても「淀橋咳止地蔵尊」のように残るお地蔵さんがあります。また、周りはすっかり変わって行っても、ほぼ同じ場所に止まっていらっしゃるお地蔵さんもあります。
「成子子育て地蔵尊」は、そんな昔とほぼ同じ場所で存続しているお地蔵さまです。
かつて「柏木」という地名でしたが、今は西新宿という住所になっている青梅街道の成子坂の途中にあります。
成子坂の「成子」の由来は、源左衛門という酒屋さんが、往来に筵(むしろ)を張り、にごり酒などを置いて商いをしていました。お酒を買う合図に「鳴子」を鳴らしたことから「鳴子」というついたという説があります。
もともとは「成子」は「鳴子」と書かれていたようです。
新宿駅から青梅街道のその成子坂を西に進むと右側には富士塚もある「成子天神社」の鳥居が建っています。
その先の信号で道を渡ると高層ビルの下にお堂があります。

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新宿観光振興協会の案内では、「『成子地蔵』は、享保12年(1727)勝厭という道心者が、回国巡礼を終えた帰路に建てたもの」と書かれています。あわせて、由来については、子煩悩な父親がわが子を誤って殺してしまった末、自殺を遂げたという伝説が残っていることも記されています。
その伝説は次のようなお話です。
青梅街道筋ではありましたが、江戸時代は、この成子坂あたりは追い剥ぎが出るほど淋しい場所でした。農家の父親が、藪入りで久しぶりに一人息子が家に帰ってくるというので、なんとか歓待してやりたいと考えていました。
しかし、先立つものがありません。
ふと、悪心を起こして、夕まぐれにまぎれて、旅人を襲い財布を奪いました。その旅人は死んでしました。
家に帰り、奪った財布を見ると、なんとその財布は、奉公に出るとき、息子に持たせてやった財布ではありませんか。
父親は驚き、あれは、息子だったのかと、悔やみますが、死んだ息子はもう帰って来ません。深く悔やみ、思い悩んで、とうとう自死してしまいました。
その話を聞いて、勝厭が、ここに地蔵尊を建てられということになります。
また、一説では、この父親が、贖罪の意味で地蔵を造り、その堂守となってお地蔵さんをお守りしたという話もあります。
どちらにしても、子煩悩な父親がわが子を誤って殺してしまったことから、この「成子子育て地蔵尊」は誕生したということになります。
成子坂に北面して、お堂とともに建立されました。地蔵尊は四尺九寸(約148.5cm)の像でした。
その後、天保年間に再建され、以来200数十年、霊験あらたかに近隣の崇敬を集めていましたが、昭和20年(1945)、第二次世界大戦の戦災に遭遇し、損壊してしまいました。現在の地蔵尊は昭和26年(1951)に地蔵堂を再建して、新たに造られたお地蔵さんです。

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地蔵堂の前の2体の石仏はその再建の時、地面を掘っていたら出てきた石仏だそうです。

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現在のお堂は、平成14年(2002)に耐火構造で新築されました。

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ここのお地蔵様も、赤い衣装に包まれています。「子育地蔵」、子どもの頭がかろうじて見えます。

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近くにある「淀橋咳止地蔵」同様、新宿西口からこの地域ほど激変した街はありません。その街にお堂とともにしっかりとお地蔵さまが残されていることに、一つの奇跡を感ぜざるを得ません。