四谷怪談のお岩さんの墓がある「妙行寺」

西巣鴨の荒川線の庚申塚駅から栄和通りを歩いて白山通りを横切ると「お岩通り」になります。この先に、四谷怪談で知られるお岩さんの墓がある「妙行寺」があります。「お岩」は、四谷怪談のお岩さんです。
妙行寺は、麹町清水谷に創建され、寛文元年(1624)に、四谷鮫ケ橋南町に移転し、更に東京府により市区改正事業により
明治42年(1909)に、現在地に移ってきました。妙行寺 豊島区西巣鴨4-8-28

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入り口に大きく、大きなお岩さんの墓所の石碑、その横に、少し小さいですが、浅野家の墓の案内の碑があります。
門を入るとすぐ、大きな岩に「お岩さんの墓のある妙行寺」と深く彫られた見事な碑があります。元は外にあったのでしょう。

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明治末に移転して来てからも、お岩さんのお墓を訪ねる人が多かったのでしょう。

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門を入ると魚がし供養塔、浄行様、うなぎ供養塔、納骨堂を右に本堂が正面に見えます。

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妙行寺の境内案内

<魚がし供養塔>
「何妙法蓮華経法界萬霊」の下に右から左に横書きに「魚がし」と大書されています。
「魚がしで犠牲になった生類の供養塔」ということです。
碑の裏には「昭和十三年五月建之 施主 石黒為次郎/當山十九赤威猛院日勢」と記されていました。
<うなぎ供養塔>

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背面に「原型者 高村光雲先生  鋳造者 渡辺008長男先生  昭和三十五年五月二十日建立」とあります。
塔の上の観音像は高村光雲の原型作です。光雲が歿したのは昭和9年(1934)ですから、歿後かなり経ってから鋳造されています。
台座に、組合に加盟する店の名がたくさん記されています。
日本橋や上野の鰻蒲焼商組合に加えて、 浜名湖養魚漁協同組合、焼津鰻出荷組合などもあります。

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さて、墓地に入ります。
広い墓所の先に、赤い鳥居が立っています。ここがお岩様の墓へ通じる入り口でした。
お岩様の案内もありましたが、それは、また後ににて、左に入ると、まず、浅野家の墓があります。

●浅野家の墓

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赤穂浅野家の菩提寺でした。浅野長直の室高光院、浅野大学長広の室蓮光院の墓があり、浅野内匠頭長矩の室瑤泉院の供養塔があります。
瑤泉院の供養塔は、瑤泉院が祖母高光院の永代供養を依頼した縁で、昭和28年(1953)瑤泉院の240回忌に供養塔が建てられました。遥泉院の墓は泉岳寺にあります。
お参りして、先に行くと、小さなお地蔵さまがありました。

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お地蔵さまに手を合わせ、右に進むと、田宮家の墓でした。

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妙行寺は元々四谷にあった時から田宮家の菩提寺でした。お岩の墓はその菩提寺に田宮家の代々の墓と共に置かれていました。
これはお岩さんが実在の人物であったという証です。
お岩さんの墓は、真っ正面にあります。まわりには田宮家の名前の入った墓が並んでいて、その先にびっしりと卒塔婆が立っています。
このような墓の並びは、こちらに移ってからなのかなと思いました。
赤い鳥居は、四谷の「於岩稲荷」を意識してかなと思うので、『於岩稲荷田宮神社』から見て行きます。
●四谷の『於岩稲荷田宮神社』

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四谷三丁目駅から徒歩5分ほどで、お岩さんの末裔「田宮氏」が神主を務める『於岩稲荷田宮神社』があります。
田宮家は御先手組同心で16石の禄高、生活は非常に苦しかったようです。
<お岩さまの真実 貞女説> 
「江戸初期です。四谷左門町に、田宮又左衛門という御家人がいました。その娘のお岩と夫の伊右衛門は人も羨む仲睦ましい夫婦でした。
しかし、田宮家の家計が苦しいので、お岩は奉公に出ることになります。お岩は熱心に働き、また。その奉公している屋敷内の稲荷の社に日参して、一日も早く夫婦がいっしょに暮らせることが出来るようにと祈願していました。その結果、田宮家を再興することができました。
これも日ごろ信ずる稲荷大明神の霊験であるというので、お岩は自分の屋敷内にもその稲荷を勧請して朝夕に参拝しました。それを聞き伝えて、近所の御家人の奥さま方が、お岩の幸運にあやかろうとたくさん訪れるようになりました。お岩はそれを拒まずに誰にもこころよく参拝を許しました。その稲荷は、誰が云い出したともなしに「於岩稲荷」と呼ばれるようになりました。」
■<鶴屋南北東海道四谷怪談』の登場>
江戸の後期になります。歌舞伎作家、四代目鶴屋南北は、100年以上もたつのに「お岩稲荷」が根強い人気あることに注目しました。そして「お岩」という名前を使って歌舞伎にすることを思い立ちますが、お岩が、善人では面白くない。そこで南北は江戸で評判になったいろいろな事件を組み込んだ話を造ります。例えば、ふたりの下男が主人殺しをしてはりつけになったとか、旗本の妾が中間と密通したため戸板に釘付けされて神田川に流されたとか、江戸の人間なら、だれでも記憶にある事件を盛り込み台本を書き上げました。それが『東海道四谷怪談』です。鶴屋南北71歳の作品でした。
▼『東海道四谷怪談』は文政8年(1825)7月、江戸中村座での初演。初演時にはこの作品は『仮名手本忠臣蔵』と交互に上演し、2日かかりで完了する興行形式を取りました。
上演された文政8年(1825)ごろは、江戸文化が最も華やかで、文化爛熟といわれた時代です。歌舞伎は大当たりをします。お岩は三代目尾上菊五郎伊右衛門は七代目市川団十郎で、『東海道四谷怪談』は江戸中の話題をさらいました。
▼ちなみに、『東海道四谷怪談』では実在の田宮家をはばかり田宮を「民谷」とし、四谷を雑司ヶ谷四谷町に変えています。雑司ヶ谷に四家という地名はあります。
●お岩が亡くなったのは、寛永13年(1636)とされています。
東海道四谷怪談』の初演が1825年ですから、つまりは200年も後に作られた創作の舞台が、『東海道四谷怪談』なのです。

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妙行寺はお岩さんの田宮家の菩提寺で、かつて四谷鮫河橋(現在の新宿区若葉・南元町)にありましたが、明治後期になって巣鴨へ移転しました。お岩さんのお墓は境内墓地の一番奥まったところにあります。『東海道四谷怪談』や、それに題材を得たお芝居などを演じる役者さんがこのお墓をお参りしています。また、一般の人も「心願成就」のご利益があると、熱心にお参りされているようです。
多くの卒塔婆がそれを物語っています。
●お岩さんの墓の案内板には次のようにありました。

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お岩様が、夫伊右衛門との折合い悪く病身となられて、その後亡くなったのが寛永13年2月22日であり、爾来、田宮家ではいろいろと「わざわい」が続き、菩提寺妙行寺四代目日遵上人の法華経の功徳により一切の因縁が取り除かれた。
この寺も四谷にあったが、明治42年に現在地に移転した。
お岩様に塔婆を捧げ、熱心に祈れば必ず願い事が成就すると多くの信者の語るところである。(境内掲示より)
●お岩さんのお墓です。

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