「八百屋お七の墓のあるお寺」圓乗寺

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白山権現(神社)付近の切り絵図

八百屋お七の墓のあるお寺」圓乗寺に行きました。圓乗寺は文京区白山1丁目34番地にある天台宗の寺です。(切り絵図は「円乗寺」です)。
寺伝によると、圓乗寺は、圓栄法印が天正9年(1581)本郷に密蔵院として創建したのが始まりで、元和6年(1620年)寶仙法師が圓乗寺と寺号を改め、寛永8年(1631)に当地へ移転したということです。江戸時代には、境内が1,770坪もありましたが、戦後の混乱期に地域の人に分け与えたとも伝えられています。

寺の前の浄心寺坂は、別名お七坂とも呼ばれています。
その於七地蔵尊にお目にかかりたいと思って行ったのですが、圓乗寺の門前は、すっかりきれいに改修されていました。

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浄心寺坂から圓乗寺の入り口

以前は、その坂道に面して「八百屋於七地蔵尊」の赤い奉納旗がひらめく御堂がありました。「八百屋於七地蔵尊」の石碑と、この地の旧地名である「指ヶ谷」の説明板は、しっかりと建てられていました。
しかし、「八百屋於七地蔵尊」の御堂は消えてしまっていました。とても残念です。
現状と合わせて、数年前に撮った写真を載せておきます。

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かつての圓乗寺入り口付近の写真

その当時、圓乗寺の入り口にあった「八百屋お七地蔵尊」は「お七が在世のとき所持していた地蔵尊を祀ってある」ということでした。
持ち運べるような小さなお地蔵さんではなかったので、どういうお地蔵さんだったのかな、と疑問に思っていました。

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八百屋お七地蔵尊

今度、どこに行ったのか聞いてみようと思います。
地蔵の正式名は「南無六道能化八百屋於七地蔵尊」でした。

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化八百屋於七地蔵尊の碑と、右に「指ヶ谷」・「お七の墓」の案内

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「指ヶ谷」と「八百屋お七の墓」の案内板


「指ヶ谷」の説明板は、昔のままです。
このあたりは昭和39年(1964)8月1日施工の新住居表示によって白山となるまでは「指ヶ谷町」と呼ばれていたのです。
指ヶ谷の由来は、3代将軍家光がこの地を「あの谷」と指差したことによるといわれています(『紫の一本』)。
この町は小石川村御料地で、元和9年(1623)に伝通院領となりました。
寛永11年(1634)百姓町屋が許され、延享2年(1745)より町奉行支配となります。
町内の呼び名は「さすがや」が正しい呼び方のようですが、「さしがや」ともいわれました。この案内では「さしがや」になっています。
▼旧指ヶ谷町の東北端に位置していたこの「南縁山円乗寺」は元和6年(1620)宝仙法印によって開山された天台宗の寺院です。
円乗寺の手水鉢の龍と、龍塚があります。

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圓乗寺 六地蔵

六地蔵があって、その先にお七の墓があります。

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八百屋お七の墓

八百屋お七の墓
墓碑は3基建っています。

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八百屋お七の3基の墓

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昔の「八百屋お七の墓」の写真

中央がお七の墓で、「妙栄禅定尼。天和3(1683)年3月29日寂」とあります。
右側は、寛政年間(1789-1801)に歌舞伎役者の岩井半四郎が、お七を演じた縁で建立した供養塔で、左側は近所の人が270回忌法要のために建て供養塔です。
墓石の後ろには卒塔婆が並び、いつも、線香や花が手向けられていて、お参りの人は多いようです。

真ん中の墓については、次のような住職の話があります。
当時の住職が当地区には沢山の大名屋敷があり、そこのコネで遺骨を引き取らせてもらい安置していましたたが、
ほとぼりの冷めた頃墓を建てて菩提をともらいました。その墓石が今に伝わっているのです。
戒名「妙栄禅定尼霊位」(みょうえいぜんじょうにれいい)。
お七は地蔵になって極楽浄土に往生したと伝わっています。
ですから、お七地蔵を祀っています。その名を「南無六道能化(のうけ)八百屋於七(おしち)地蔵尊」と言います。

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お七の墓の左側にあるお地蔵様。これが、そのお七地蔵かなと思ったりしています。

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三代 歌川豊国 古今名婦伝 八百屋お七 

●「八百屋お七」事件とは
本郷森川宿の(一説による駒込片町とも)の有数な八百屋の娘お七は、大円寺塔頭大竜庵を火元とする火事で、一家でこの寺・圓乗寺に避難しましたが、そこで寺小姓の吉三郎と知り合い恋の炎が燃え上がりました。
お七は、火事になればまた吉三郎と会えると思い つけ火をして捕らえられます。
お七の付け火は、すぐ消し止められたのですが、当時は放火は重罪で、鈴が森の刑場で天和3年(1683)、火あぶりの刑に処されました。
お七15歳の頃の話になっています。江戸時代の悲恋物語の代表格で各種芝居や浄瑠璃等の台本に取り上げられています。

八百屋お七には、いろいろな説があります。

お七一家が逃れた火事は、よく振袖火事(明暦の大火)と思われたりますが、その振袖火事から25年後の天和2年(1682)12月28日、駒込大円寺から出火した火事です。東は下谷、浅草、本所を焼き、南は本郷、神田、日本橋に及びました。大名・旗本屋敷240余、寺社95を焼失、焼死者3,500人をだした大火事でした。

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歌川国貞 八百屋於七

●まだまだ、八百屋お七に関するいろいろ。
▼お七の恋人の名は、井原西鶴の『好色五人女』や西鶴を参考にした作品では「吉三郎」とするものが多く、そのほかには山田左兵衛、生田庄之介、落語などでは吉三(きっさ、きちざ)などさまざまです。
▼『近世江都著聞集』では、「お七は左兵衛という美少年に恋をし吉三郎にそそのかされて放火した。」となっています。
つまり、お七と恋仲は山田左兵衛で、吉三郎は、八百屋に出入りしていたあぶれ者で素性の悪い人物として登場します。
吉三郎は、自分が博打に使う金銀を要求する代わりに2人の間の手紙の仲立ちをしていました。やがて渡す金策に尽きたお七に吉三郎に「また火事で家が焼ければ左兵衛のもとに行けるぞ」とそそのかすわけです。(圓乗寺では、この説を引いているようです)
▼八百屋の娘お七が火付けの科(とが)で、火あぶりによって処刑されたという実話に基づいて、処刑から3年後、井原西鶴が『好色五人女』のなかで脚色、「恋草からげし八百屋物語」として物語化しました。そして井原西鶴の『好色五人女』に取り上げられてから、浄瑠璃・歌舞伎などに脚色されて行きます。
▼現代の「八百屋お七」の物語では、落語などを中心に「当時の江戸では火付け犯は15歳を過ぎれば火あぶり、15歳未満は罪を減じて遠島の定め」とし、お七の命を救ってやりたい奉行がお七の年齢をごまかそうとして失敗するといった話が流布しています。
しかし、西鶴などの初期の八百屋お七物語には、この話は出ていません。
▼数ある「八百屋お七」物語は、情人の名や登場人物、寺の名やストーリーなど設定はさまざまです。共通しているのは「お七という名の八百屋の娘が恋のために大罪を犯す」ということです。
▼日本舞踊、浮世絵では、お七は放火せず、代わりに恋人の危機を救うために振袖姿で火の見櫓に登り、火事の知らせの半鐘もしくは太鼓を打つストーリーになっています。
歌舞伎や文楽でも、振袖姿のお七が火の見櫓に登る場面がもっとも重要な見せ場となっていて、櫓の場面だけを1幕物『櫓のお七』で上演する事が多いです。

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●「八百屋お七」に真偽のことをとやかく言うのは野暮なことですが、圓乗寺のお七の墓は元々は天和3年(1683)3月29日に亡くなった法名「妙栄禅尼」の墓です。これがお七の墓とされ、お七の戒名は「妙栄禅定尼妙」とされていますが、それはどうかなと思います。お七は火あぶりの刑に処せられたのですから、墓に葬られたということは、本来おかしいと言えます。
●他にもある八百屋お七の墓」
岡山県御津町と千葉県八千代市の長妙寺にも八百屋お七の墓とよばれるものがあります。
御津町吉尾(現岡山市御津吉尾)には次のように伝わります。「八百屋お七」は、恋仲の男に会いたい一心で、吉三郎の入れ知恵に従い自宅に火を放って処刑されました。吉三郎はこれを悔い、お七の分骨を持って諸国を行脚し、いつのころか野々口に留まり、後小山村で没しました。村人はお七の分骨とともに手厚く葬ったと伝えられています。
あぶれもの吉三郎が、改心しての登場です。
千葉県八千代市の長妙寺のお七の墓は、「お七の養母が、鈴ケ森の刑場から遺骨をもらいうけ埋葬した」と寺の過去帳に記されているのだそうです。ここでは、養母が出てきます。
▼なお、恋人の吉三郎も、お七の処刑後、発心して「西運」と称し、江戸より巡礼の旅に出たことになっていて、各地にお七の地蔵を建てています。そして「西運」墓もあちらこちらに伝わっています。
例えば目黒の大円寺(目黒区下目黒一丁目8番5号)には、念仏を唱えながら、浅草観音に日参する西運の姿を刻んだ碑が境内にあります。
吉三は出家して西運を名乗り、大円寺の下(今の雅叙園の場所)にあった明王院に身を寄せたと言われます。
西運は明王院境内に念仏堂を建立するための勧進とお七の菩提ぼだいを弔うために、目黒不動浅草観音に1万日日参の悲願を立てた。往復10里の道を、雨の日も風の日も、首から下げた鉦しょうをたたき、念仏を唱えながら日参したのです。かくして27年後に明王院境内に念仏堂が建立されました。しかし、明王院は明治初めごろ廃寺になり、明王院の仏像などは、隣りの大円寺に移されました。

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目黒の大円寺・西運の姿を刻んだ碑