「夜鷹」~四ツ谷の鮫ヶ橋が巣窟~

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戸切り絵図 紀州中屋敷あたり

戸切り絵図です。鮫ヶ橋坂など、町にも「鮫ヶ橋」の名称が見られます。
門の前に橋の記号と鮫河橋の名が記されています。前回の、江戸名所図絵「鮫ヶ橋」に見られる橋です。
その鮫ヶ橋地域の江戸時代のお話です。
▼まずは、三遊亭圓生の落語「秋葉っ原」(あきばっぱら)。
「江戸の夜鷹(よたか)が京では辻君(つじぎみ)、大坂に行くと惣嫁(そうか)と名が変わる話でございます。
暗い所から『』チョイと、お前さん、遊んでいかない』」と声を掛ける女子(おなご)衆です。

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古くから。吉田の森に夜鷹という鳥住む。両の翼二十四枚あり・・・等と言われ、本所吉田町に巣窟があって、夜になると出かけるのが、両国の薬研堀、神田の筋違い橋、駿河台から護持院が原まで羽を広げていた。
料金は二十四文。山の手辺りでは、四ツ谷の鮫ヶ橋が巣窟で、番町、四ツ谷堀端、牛込桜ノ馬場、愛宕下に出稼ぎに出ていた。」
四ツ谷の鮫ヶ橋が巣窟>で、とあります。「鮫ヶ橋」は江戸時代、夜鷹で有名でした。
噺は「年に関係なく振り袖で白粉(おしろい)を塗って若く見せ、チラッと見ると22,3、チョイと見ると32,3、近づいてみると42,3、よくよく見ると52,3、年を聞くと60過ぎだった。」と続きます。

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            月岡芳年「月百姿」
▼夜鷹は、夜、辻に立って客を引く最下級の私娼婦のことです。綿の着物を着て、頭巾を被ってムシロ(ござ)を持ち歩いているのが基本的な姿です。また、篠竹とムシロを使って簡単な小屋を作るもの、建築現場や材木置場、石切場等の休憩用仮小屋を勝手に使うものなどもいたようです。年齢は15~40歳程度、中には60歳を超える女性もいました。年齢をごまかすために白髪を墨で黒く染めることもあったようです。
ムシロ一つで商売をし、大部分が病気を持っていました。
川柳に
 『はな散る里は吉田鮫ヶ橋』
 『吉田町稼ぎをカカア鼻にかけ」
 『材木の間に落とす鼻柱』
梅毒に侵されている者も多く、鼻や耳がそげ落ちている夜鷹もいました。川柳で言う「はな」は、梅毒を指しています。
当時から夜鷹は梅毒を蔓延させる元凶であるとして、例えば、浮世草子の『俗枕草紙』には「鮫ヶ橋、総じて関東夜鷹の根元、瘡毒の本寺は是や此の里になん侍る」などと書かれています。
▼夜鷹の名称が定着するのは、江戸中期で、最も数が多くなるのは江戸末期だった言われます。。
「夜鷹」という名前の由来は、夜に「もしもし」あるいは「おいでおいで」と客を引いたことから、夜鳴く鳥の夜鷹になぞらえられたと言われます。
玉代(値段)は上の川柳に「露天にいただき二十四文取り」とあるように異名にもなった24文というのが知られていま。
ただ、この値は、田沼時代の頃の相場でした。江戸初期は10文程度、後期になると48文となり、末期は人数は増えたことから値段の幅が大きくなったようです。

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▼夜鷹第一のピークであった田沼時代には、江戸市中だけで4千人もいたと言われます。
本所吉田町(墨田区石原4丁目)、四ツ谷鮫ヶ橋(新宿区若葉2、3丁目)、浅草堂前(台東区松が谷1丁目)、下谷山伏町(台東区北上野一・二丁目)などに寄宿し、両国広小路、薬研堀、柳原土手、駿河台、釆女ヶ原(東銀座付近)、四ッ谷見附門、赤坂御門外など、場所を問わず出没したと言われます。
最も人数が多かったのは本所吉田町で「本所夜鷹」と名が通っていました。大田南畝は、小咄本に本所夜鷹の出勤風景をこう書いている。
「日もはや七つ下りの頃、黒子袖に皮足袋はいた本所夜鷹、2,30人つれ立て、両国橋を通る時、辻風さっと吹きけり……」
夜鷹2,30人がゾロゾロと両国橋を渡っていたのですね。
▼江戸時代、夜鷹で名高かった鮫河橋、明治時代に入ると、貧困層流入し、スラム街を形成していきました。。明治以降、下谷万年町芝新網町とで東京三貧窟といわれ、そのなかでも鮫河橋は最も厳しい町でした。
しかしその後、東宮御所の目の前ということもあり、徐々に貧困層はこの地から消えて行きます。
現在の南元地名は元鮫河橋南町(南町)と元鮫河橋町(元町)の二町が統合し生まれました。鮫が橋の名は、現在では坂道の名前とか石碑とか東宮御所門程度しか残っていません。
「鮫河橋門」の派出所には「皇宮警察本部・赤坂護衛署・鮫河橋門警護派出所」との表示があります。
蛇足ですが、この界隈から若葉町に向かって歩くと、道は曲がりくねり、崖のようなものが見えたりします。スリバチ地形も残っています。