浅草寺の境内のお地蔵さん巡り
浅草寺には20体を超えるお地蔵さまがいらっしゃるるそうです。少し巡ってみます。
●中央にお地蔵さま、左右には阿弥陀さま
中央のお地蔵さまは、我々衆生を苦しみから救ってくださる仏さまで、左右に奉安される阿弥陀さまは、西方極楽浄土にあって無量の慈悲と智慧の光で我々衆生を救済してくださる仏さまです。
●母子地蔵尊
戦争犠牲者供養のひとつです。突如ソ連の参戦によって混乱状態となった満州での犠牲者を弔います。平成9年(1997)建立。願主は千野誠治氏。デザインは漫画家のちばてつや氏。
▼母子地蔵さん建立の由来
「第二次世界大戦末期ソ連参戦で混乱状態となった中国東北部(旧満州)で避難行の末命を落とした日本人の数は二十万人を超えると云われています。
酷寒の曠野を逃げ惑うの母子が生別れとなったり飢えや疫病に苦しみながら亡くなるなどその悲劇は数知れません。
犠牲となられた母子の霊を慰め、また、いまだ再会かなわない親と子の心のよりどころとして二度と戦争という過ちを繰り返さない事を祈念しつつここに、母子地蔵を建立いたしました。1997年4月12日」
●「宝蔵門」近くにある、地蔵菩薩
●めぐみ地蔵尊
「お地蔵さまは、六道(ろくどう)を輪廻(りんね)する衆生をあまねくお救いになる仏さまである」と書かれています。
「六道」、6つの世界を輪廻、つまり、生きかわり、死にかわりしている衆生(生き物)を救ってくださる仏さまがお地蔵さまだ。
六道は地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の6つになります。
この「めぐみ地蔵」、我々に幸せをお恵みになることからこの名を以て親しまれているとのこと。
また、お参りのときに唱えるお念仏が紹介されています。「南無地蔵菩薩(なむじぞうぼさつ)」
●戦災供養地蔵尊
「戦災供養地蔵」は浅草芸妓組合の皆さんが浅草花柳界の被災者慰霊のため建立したとされています。
●商徳地蔵と出世地蔵尊
●出世地蔵尊
●六角堂
『浅草寺誌』(文化10年編)に、元和4年(1618)に掘った井戸の上に建っていることを示す記述があり、さらには古い建築様式も採用されていることから浅草寺内に現存する最古の建造物と考えられています。
建物の底部は六角形状に廻した木製土台と基礎石で支えられ、さらに、その下部に11 段の石積みをした深さ1.5m余りの井戸状の穴が堀られています。建物は、木造、桟瓦葺、朱塗りの六角円堂で、建物中央の直径は1.82m、一面の柱間は0.91m、都内ではあまり見かけない特異な形式の建造物です。屋根を支える垂木は、建物の中心から傘の骨のように放射状に広がる「扇垂木(おうぎたるき)」という形式です。
▼六角堂内には、日限を定めて祈願すれば、必ず霊験があるという「日限(ひぎり)地蔵尊」が安置されています。
日数を決めて祈るとその願いがかなうとされています。
●六地蔵石灯籠 屋根付きの建物内で保護されています。
高さ2.3m、六角小松石造りの石灯籠です。石燈籠には六面それぞれに地蔵像が彫られています。
もとは花川戸町の入口角にありました。そのため、辺りの隅田川べり(吾妻橋あたり)は「六地蔵河岸」と呼ばれていたそうです。
その風景が、『江戸名所図会』に載っています。
『江戸名所図会』によれば、以前は雷神門の外、花川戸町の入り口角にあったとされ、それは奥州街道すじにあたり、馬駕籠の発着場であったとしています。現在の場所に移されたのは明治23年(1890)。小林兼吉の手によります。
建立に関しては、源義朝の浅草寺参拝の際に重臣の鎌田兵衛政清が献進したとする久安2年(1146)説があります。また、鎌田兵衛の寄立であるかどうかは不確かではあるが相当古いものであるとする戸田茂睡の説など諸説があります。(都旧跡)