浅草、花川戸公園の「姥ヶ池(うばがいけ)」と「助六歌碑」
「姥ヶ池(うばがいけ)伝説」とか「一つ家伝説」とか「石の枕伝説」などとよばれる、一軒家に棲む老女が、宿泊する旅人をあやめて金品を奪っていたお話は、全国各地に見られます。
浅草でも、浅草寺の観音菩薩にまつわる伝説として江戸時代以後には書籍や演芸・芝居なども取り上げられ、広く知られていました。
いろいろな形で伝わっていますが、少し丁寧なものを引用すると次のようになります。
▼浅草寺が創建された頃、この周辺一帯は浅茅が原と呼ばれ、奥州へ向かう街道ではあるものの、見渡すばかりの荒れ地であったという。その荒野にあばら屋が一軒、老婆とその娘が暮らしていた。この辺りで日が暮れてしまうと、旅人はこの一軒家に宿を借りるしかなく、二人もそれを承知して旅人を泊めていた。しかし親切な老婆の正体は、旅人が石枕に頭を置いて眠りに就くと、吊した大石を落として頭を叩き潰して殺し、遺骸は近くの池に捨てて金品を奪ってしまうという鬼婆だったのである。そしてその所業を浅ましく思う娘は何度も諫めるが、老婆は聞く耳を持たなかった。
あと一人で千人の命を奪うところまできたある夕刻、一人の稚児が宿を請うた。老婆はいつものように床に案内すると、稚児が寝てしまうのを待った。そして頃合いを見計らって、いつものように大石を頭めがけて落とした。そして遺骸を改めたところで、異変に気付いた。いつの間にか稚児は女の身体にすり替わっていた。しかもそれは我が娘であった。さすがの冷酷無比の鬼婆も事の次第に茫然自失するしかなかった。
そこに全てを悟ったかのように稚児が姿を見せた。その正体は浅草寺の観音菩薩。老婆の所業を哀れんで、稚児に姿を変えて正道に立ち戻らせようとしたのである。
その後の老婆であるが、娘を自らの手に掛けた報いと己の所業を悔いて池に身を投げたとも、観音菩薩の法力によって龍となって娘と共に池に沈んだとも、仏門に入って手を掛けた者の菩提を弔ったともいわれる。いずれにせよ、この“浅茅が原の鬼婆”にまつわる池として姥ヶ池と呼ばれるようになったという。
▼柳田國男『日本の伝説』には、
「咳のおばば様と呼ばれるお婆さんの石像があちらこちにあり、子どもの咳を止めるだけでなく、子安様としてこどもの生育を守っていました」
と出ていました。
そこに、「姥ヶ池」が出て来ます。
「浅草には今から四十年ほど前まで、姥淵(うばがふち)という池が小さくなって残っていて、一つ家石の枕の物凄(ものすごい)昔話が、語り伝えられておりました。浅草の観音様が美しい少年に化けて、鬼婆の家に来て一夜の宿を借り、それを知らずに石の枕を石の槌つちで撃って、誤ってかわいい一人娘を殺してしまったので、悲しみのあまりに婆はこの池に身を投げて死んだ。姥が淵という名もそれから起ったなどといいましたが、この池でもやはり子供の咳の病を、祈ると必ず治ると信じていたそうであります。これは竹の筒に酒を入れて、岸の木の枝に掛けて供えると、まもなく全快したということですから、姥神も、もとはやはり子供をまもって下さる神であったのです。(江戸名所記)」
▼さて、その姥ヶ池の遺構が、花川戸公園にあります。
「鬼婆が身を投げたとされる池は姥ヶ池(うばがいけ)と呼ばれて、現在も花川戸公園に残っている。池の大きさは、古くは隅田川に通じるほどの水をたたえた大きなものであったが、明治時代に宅地造成などのために大部分が埋め立てられており、かつての姿とはかけ離れたものとなっている。」とあります。
浅草寺の北東に、寺々が並んでいます。浅草寺の支院群です。この中に「妙音院」という寺があり、そこの寺宝として、「石の枕」が保管されていると言われます。
●浅草花川戸町(あさくさはなかわどちょう) は、奥州街道の両側に開けた町です。
地名の「花」は「桜」のことで、由来は「桜並木のある川端通り」など、諸説ありますが、
一般には「川に望む地に、桜並木と多くの戸(家)があったことに由来する」と、考えられています。
●花川戸と言えば、助六です。
花川戸公園には、助六歌碑(すけろくかひ)があります。
「碑面には、 助六にゆかりの雲の紫を 弥陀の利剣で鬼は外なり 団洲
の歌を刻む。九世市川団十郎が自作の歌を揮毫したもので、「団洲」は団十郎の雅号である。
歌碑は、明治12年(1879)九世団十郎が中心となり、日頃世話になっている日本橋の須永彦兵衛(通称棒彦)という人を顕彰して、彦兵衛の菩提寺仰願寺(現清川1丁目4番6号)に建立した。大正12年(1923)関東大震災で崩壊し、しばらくは土中に埋没していたが、後に発見、碑創建の際に世話役を務めた人物の子息により、この地に再造立された。台石に「花川戸鳶平治郎」、碑裏に「昭和三十三年秋再建 鳶花川戸桶田」と刻む。
歌舞伎十八番の「助六」は、二代目市川団十郎が正徳3年(1713)に初演して以来代々の団十郎が伝えた。ちなみに、今日上演されている「助六所縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」は、天保3年(1832)上演の台本である。助六の実像は不明だが、関東大震災まで浅草清川にあった易行院(現足立区伊興町狭間870)に墓がある。」
●現在の姥ヶ池の姿です。