江戸の香りを伝える「山谷堀公園」、そして今戸人形の飾り。

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山谷堀公園・ 聖天橋

山谷堀公園を聖天橋から待乳山聖天まで歩きました。
山谷堀(さんやぼり)公園は、かつての水路でした。正確な築年は分かっていませんが、江戸初期に荒川の氾濫を防ぐため、箕輪(三ノ輪)から大川(隅田川)への出入口である今戸まで造られた人工の川でした。

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広重の『江戸名所百景 待乳山山谷堀夜景』

手前を流れる川が隅田川。中央の闇に浮かぶ岡が待乳山です。そしてその右が、山谷堀です。

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江戸時代には、吉原遊廓新吉原遊郭への水上路として、隅田川から遊郭入口の大門近くまで猪牙舟が遊客を乗せて行き来していました。
隅田川から山谷堀を上り、吉原へと向かうために主に使われた船は猪牙船(ちょきせん)という船でした。
船底が浅く、スピードは出たようですが、横揺れも激しかったようで、
  江戸っ子の 生まれそこない 猪牙に酔い
という川柳があります。また、この猪牙船は吉原通いにも利用されたため、別名を山谷船といい、 吉原通いを「山谷通い」とも言いました。
船での吉原行きは陸路よりも優雅で粋とされました。

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猪牙舟の案内

界隈には船宿や料理屋などが建ち並び、「堀」と言えば、山谷堀を指すくらいに有名な場所でしたが、明治時代に遊興の場が吉原から新橋などの花街に移るにつれて次第に寂れ、昭和には肥料船の溜まり場と化して行きました。

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「山谷堀」 大正5年(1915)5月 改修工事が終わった山谷堀」 東京都下水道局資料より

そして吉原閉鎖後、昭和50年(1975)までにはすべて埋め立てられてしましました。
現在は、日本堤から隅田川入口までの約700mが台東区立の「山谷堀公園」として整備されています。

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山谷堀公園

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広重画『隅田川八景 今戸夕照』

今戸焼きは、瓦職人が余技で焼き始めたと言われ、素焼きの土器は「今戸焼」と総称されたくらい盛んに製造されていました。(広重画『隅田川八景 今戸夕照』は瓦を焼いている風景です)
今戸焼きの範囲は非常に広いです。焙烙(ほうろく)、灯心皿、瓦燈(かとう)、土風炉(どぶろ)、豚の蚊やり、七輪 、火鉢、猫あんか、植木鉢、そして、招き猫、狸、狐、鳩笛、人形など。
素朴な味わいで人気がありました。

 

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今戸焼きの解説


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国芳画「江戸じまん名物くらべ・今戸のやきもの」です。招き猫や鉄砲狐に彩色しています。右は今戸人形の鉄砲狐。雄雌の対です。ひげがある方(左)が雄です。

▼ 山谷堀公園に、今戸焼きの形を中心にした置物が飾られています。

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招き猫、河童、おどり雀、招き猫、鉄砲狐です。ずっと向こうにスカイツリー

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福助・お福・鉄砲狐

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河童 前から後ろまで

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踊り雀

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招き猫 横向きばかりなりました。

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そこで正面を 招き猫