「数寄屋橋」の話

 

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高速道路の高架。その下は「銀座ファイブ」です。銀座ファイブは、「数寄屋橋ショッピングセンター」より平成12年4月17日に名称変更しています。「銀座ファイブ」の向こう側に「数寄屋橋公園」があり、そこに「数寄屋橋の碑」があります。裏面に次のように書かれています。

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寛永6年(西暦1629年)江戸城外廊見附として数寄屋橋が初めて架けられた時は幅4間長3間の木橋であった 
橋名は幕府の数寄屋役人の公宅が門外にあったのに依るという見附の城門枡形は維新の際に撤去され 
ついで大正大震災後の復興計画によって完成を見た近代的美観を誇る石橋が銀座の入口を扼することヽなった 
爾来30年首都交通の激増はこの界隈を更に変貌させた外壕上を高架車道が地下には地下鉄が走るようになって橋も姿を消し ここは渾然たる大銀座の一劃となった
本会は茲に旧橋の遺材を以て碑を建て感慨深い東京文化の変遷を偲ぶよすがとした  
                  1959年4月  数寄屋橋公園美化協力会
数寄屋橋」の地名由来については、前回、織田有楽斎の茶室があったことによるという説を紹介しましたが、ここでは。「幕府の数寄屋役人の公宅が門外にあったことによる」とあります。
『御府内備考』は、江戸後期に編纂された江戸の地誌『御府内風土記』の資料集ですが、その『御府内備考』の数寄屋橋御門の項には、数寄屋町というのは御数寄屋の者の屋敷があったからと書かれています。御数寄屋の者というのは数寄屋坊主のことで、幕府で茶礼・茶器のことを司った職名です。
この数寄屋町があったことが数寄屋橋の名の由来とされています。
数寄屋橋寛永6年(1629)江戸城外郭見附、数寄屋橋御門の橋として架けられ、、御門内に南町奉行所がありました。数寄屋橋御門は慶長7年(1602)に築かれ、寛永6年(1629)陸奥仙台藩主の伊達正宗が石垣と枡形門を完成させました。

現在何の遺構も残っていないので、「数寄屋橋御門」「数寄屋橋」の図・写真等を少し見ておきたいと思います。

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数寄屋橋御門

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絵本江戸土産(広重) 『数寄屋河岸の夕景』

この絵には「数寄屋橋御門の外にて西は、大城(たいじょう)の石壁数里に連なり、東南北はみな市中にして商賈(しょうこ 商人)軒(のき)を嵩(かさ)ね甍(いらか)をならべ、東都の繁栄目を驚(おどろ)かせり。富士山朦朧として高く聳(そび)え、湖中船筏(せんばつ)には夕餉(ゆうげ)を炊(かし)ぐ。実に一時(いちじ)の壮観なり」とあります。
絵の右側はお濠で、右側中央に見える橋は数寄屋橋かと思われます。橋の右には数寄屋橋御門があります。
お濠は、現在首都高速が通っています

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文久3年(1863)14代将軍家茂の上洛の行列が馬印を掲げ、数寄屋橋門を通過する様を、2代目歌川広重が描いたものです。

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明治時代の数寄屋橋御門の風景

明治維新後に城門は撤去され、 関東大震災 後の帝都復興事業によって昭和 4年(1929)に石造りの2連 アーチ橋 に架け替えられました。

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数寄屋橋朝日新聞社

白い数寄屋橋は建築家山口文象(ぶんぞう)の代表作でした。
晴海通り (都道304号) が外堀を渡る位置にあり、北側に 日劇朝日新聞社 、南側に 銀座東芝ビルがありました。

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数寄屋橋が外濠に架かり、多くの人がいます。橋の先に日劇朝日新聞社の建物があります。右下に昭和28年の紙が貼ってあります。

ちなみに、「朝日新聞東京本社」は昭和2年(1927)、丸い形の日本劇場(日劇)は昭和8年(1933)に建てられました。
昭和27年(1952)にラジオドラマ、菊田一夫作「君の名は」が始まりました。
その主人公の春樹と真知子の待ち合わせ場所が数寄屋橋でした。
昭和27年(1952)から昭和29年(1954)にかけて全国放送され大好評を博します。
2人は運命的なすれ違いを重ねる物語で、銭湯の女湯から人が消えるという伝説とともに全国的に話題になりました。
数寄屋橋」の名を全国的に有名にしたのは、この菊田一夫の原作によるNHKラジオ連続放送劇「君の名は」だったと言えるでしょう。

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「君の名は」の映画 数寄屋の場面

昭和28年(1953)には大橋秀雄監督で、岸惠子佐田啓二主演で、映画化され、その人気は絶大なものでした。

しかし、昭和33年(1958)には、外堀が埋められ 、東京高速道路 が建設されるのに伴い、数寄屋橋は、取り壊されてしまいます。
もう一度数寄屋橋公園に帰りましょう。

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菊田一夫の「数寄屋橋 此処に ありき」

現在は、数寄屋橋公園の奥の方に「若い時計台」があります。
時計台は、昭和41年(1966)、「銀座ライオンズクラブ」から「東京数寄屋橋ライオンズクラブ」が独立したことを記念てし、両クラブからの依頼を受けて岡本太郎さんがデザインを担当して制作されました。
当時の数寄屋橋界隈は「みゆき族」など最先端のファッションや文化が生まれる街として知られる一方で、集まる若者たちの風紀の低下が問題視されていました。そこで時計台の建設は「青少年の健全育成」が目的でした。
岡本太郎は同所を訪れて「やたら色、形が混乱した雑踏の場。ひどい」と嘆きながら、「ただすっきりとしたものを作ったって埋もれてしまうだけ。激しいと同時に、静まった、周囲と異質でありながらピタリとあの場所に生きる、彩の濃い象徴を」と構想。
円柱スタイルの台から円すい状のオブジェがさまざまなに突き出す全長約8メートルの「若い時計台」を完成させました。
▼今回行ってみると、「若い時計台」の前に「明るい未来」という文字が立てられていました。

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岡本太郎の「若い時計台」と「明るい未来」

これは、太湯雅晴氏による「The Monument for The Bright Future TOKYO / 2021の作品でした。
岡本太郎のパブリック・アート「若い時計台」の前に、かつて福島県双葉町に掲げられていた標語看板から「明るい未来」の文字を設置した作品でした。この「明るい未来」の文字は、福島県双葉郡にかつて掲げられていた原子力発電に関連する標語「明るい未来のエネルギー」から取られたものです。ポジティブさが演出された東京オリンピック原発事故を想起させるネガティブな「明るい未来」を、岡本太郎の「対極主義」を援用しつつパブリック・アートに対して展開させた作品ということでした。

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少し横からずらして撮ってみました。