明治から終戦のころまでの有楽町界隈の変貌をたどる。

明治に入り「東京」が誕生。西洋文明を積極的に吸収し、急速に西洋化・近代化が進み、丸の内・有楽町・銀座周辺は、 銀座煉瓦街の完成や市内電車の発達を通して、ハイカラな街へと変貌して行きました。
明治27年(1894)丸の内(現在の有楽町駅近く)に「東京府庁舎」ができます。
東京府庁舎は、当初東京市幸橋門内(現在の内幸町一丁目)の旧大和郡山藩邸に開設されていましたが、丸の内(現在の「東京国際フォーラム」とところ)に新たに建設されました。

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東京府廳舎跡」の碑

東京国際フォーラムの片隅に、古めかしい石碑があります。東京都の前身、東京府時代の庁舎跡を示す石碑です。
東京府庁舎は、当初東京市幸橋門内(現在の内幸町一丁目)の旧大和郡山藩邸に開設されその後1894年(明治27年)に丸の内(現在の有楽町駅前)に新たに建設されました。1898年に東京市庁舎も完成し、第二次世界大戦中の1943年に東京市東京府 が廃止され東京都が設置されましたが、この建物は戦災で焼失しました。1955年3月に敷地一帯が、旧跡として東京教育委員会により文化財指定されました。
かつて東京府庁舎があったことを示すものとしては、この石碑だけが残っています」(碑の隣りの解説板より)

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解説板に載っている「東京府庁舎」と「東京市役所」

明治31年(1898)に東京市庁舎も完成。昭和18年(1943)に東京市東京府 が廃止され東京都が設置されます。
明治43年(1910)山手線が延伸され、有楽町駅が開業します。

新橋駅から有楽町駅、東京駅、神田駅にかけて現在も残っている煉瓦造の高架橋もこのころ出上がっています。

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明治44年(1911)には、現在の丸の内エリア 馬場先門通りに日本の近代化都市としてグランドデザインされた 「一丁ロンドン」が出現します。
大正3年(1914)には東京駅が完成し、丸の内・有楽町エリアはビジネスセンターとしても発展を遂げました。
大正12年(1923)関東大震災で、有楽町も多大な被害を被りました。
政府の復興計画により洋風建築が増え、銀座通りに三越松屋松坂屋、などのデパートが進出 しました。
昭和2年(1927)東京日日新聞(現:毎日新聞)、報知新聞、読売新聞に続き、朝日新聞が有楽町へ進出し、新社屋が完成します。
毎日新聞社朝日新聞社の本社と讀賣新聞社有楽町別館が置かれ、界隈は「新聞街」と呼ばれました。
▼当時の有楽町は文字通り「新聞街、インク街」でした。
東京日日新聞毎日新聞社)は明治5年(1872)3月29日(明治5年2月21日)発刊の東京最初の日刊紙です。
当初は浅草茅町(現在の浅草橋駅近辺)の居宅から発刊しましたが、明治7年(1874)に丸の内寄りに社屋を建てて進出しました。

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東京日日会館

東京日日会館は屋上にプラネタリウム(東日天文館)があり、ビルの壁面には、いまでいう電光掲示板なる電光ニュースを見ることができたそうです。昭和41年(1966)本社を竹橋に移しました。
読売新聞社は、明治10年(1877)に銀座1丁目に進出し、新聞街の中心的存在となります。。昭和42年(1967)大手町に移ります。
朝日新聞社は、有楽町の前は銀座6丁目、資生堂の近く(当時は京橋区瀧山町)にありました。
当時の建物の前に有名な歌人の記念碑があります。石川啄木です。彼は、同新聞社に亡くなるまでの3年間、校正係として勤めていました。

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在籍年数こそ短いものの、当時の編集長や同僚からの厚意や恩情に守られていたそうです。この碑は、彼の没後60年を記念して銀座の有志により建立されたものです。碑には『京橋の瀧山町の新聞社、灯ともる頃のいそがしさかな』と歌集「一握の砂」から1歌を抜粋し刻まれています。
当時の新聞記者たちは、この有楽町、銀座を新聞刊行の魂の込めた地と解し、尽力したといわれています
有楽町駅ガード下の飲み屋に各新聞社の記者が集合していたそうです。
昭和8年(1933)日劇が。昭和9年(1934)に東京宝塚劇場がオープンし、有楽町は劇場街と化します。
そして、私鉄沿線も発展することで、 銀座・丸の内が繁栄し、銀座・有楽町・日比谷周辺は歓楽街へと変貌して行きます。

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昭和8年、出来たばかりの「日劇」風景(中央)。京橋図書館蔵の写真より

▼日本劇場は、昭和8年(1933)12月24日 に建設されています。日劇(にちげき)の通称で親しまれました。
設計は「服部時計店」「第一生命館」などを設計した渡辺仁です。地上7階、地下3階建でした。
収容客数4000人の大劇場、ならびに日本初の高級映画劇場として計画されました。屈曲した外壁、広大な舞台、アールデコ調の内装など、当時としては斬新かつ画期的な建築要素をふんだんに取り入れていました。
戦後は映画館「丸の内東宝劇場」「日劇ニュース劇場」と居酒屋などが入居しています。

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1階は正面玄関と4階までの大劇場、2階有楽町側には内外どちらからも入れた喫茶「らせん」。4階は稽古場、2台の映写機が置かれた映写室、照明室、パブレストラン「チボリ」、明治の喫茶店。5階は日劇ミュージックホールがあった小劇場。屋上は取材の場所としてよく使われました。劇場の客席は3階席まであり、1階1060席、2階540席、3階463席の計2063席。両壁際にはロイヤルボックスと呼ばれたボックス席が10個(2階6個、3階4個)あり、2階席前3列とともに日劇唯一の指定席となっていました。立ち見の客を最大限入れた状態で「4000人劇場」と呼んだ。
▼この日劇の5階(後に日劇ミュージックホールになる)に、昭和13年(1938)から昭和15年(1940)にかけて「東京婦人会館」という女性のためのクラブの活動施設がありました。
昭和15年(1940)から18年は、東宝ビルに移転しますが、現在のカルチャーセンタの先端と呼べるものでした。
「東京婦人会館」は、小林一三を中心に、ルート化粧料本舗の板倉安兵衛を顧問にして、村岡花子吉屋信子、藤原あき、金子真子などの著名女性陣が役員として、いろいろな講演会をはじめとして、各種技芸教室から育児、法律相談など幅広い活動を行いました。

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日劇5階にあった「東京婦人会館」の図面(400坪)

昭和15年(1940)には、働く女性のために夜間の教室も開講しています。
特に、それまで、家元制度などで、一般の人には少し敷居の高かった、茶道、華道、邦楽舞踊なども、一流講師に安い費用に学べるようにしました。茶室、舞台のある和室など設備もきちんと造られていました。このため、この技芸教室は、常に定員に達していました。
しかし、戦渦はしだいにはげしくなり、「東京婦人会館」は昭和18年(1943)に解散してしまいます。
短い間ですが、華やかな日劇に、静かに日本文化を継承する、一般の女性のための施設があったことは、記録に価すると思います。
昭和20年(1945)第二次世界戦争が終結します。

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昭和22年ごろの有楽町駅前の風景

日中戦争昭和6年)、上海事変昭和12年)、第二次世界戦争(昭和16年~昭和20年)の後、東京大空襲を経て終戦を迎えた日本において、 占領軍は有楽町の第一生命をGHQ(総司令部)とし、周辺の焼け残ったビルを接収しました。
日本人立ち入り禁止のクラブ、キャバレーなどが軒を連ね、 闇物資横行や闇酒もガード下の飲み屋でひそかに飲み交わされていました。その結果、東京の中でも開発が遅れた地域となりました。 また、占領軍相手の娼婦の存在や、すし屋横丁も当時を象徴する土地柄として、戦後の話としてよく取り上げられます。
■昭和27年(1952)の占領政策終了後は、昭和39年(1964)の東京オリンピック開催に向け高速道路の建設や、地下鉄丸の内線、東海道新幹線が開通し有楽町駅前は整備。 1965年(昭和40年)には大型ビルの東京交通会館が落成し、すし屋横丁も撤去。数寄屋橋も外濠が埋め立てられた後取り払われ、有楽町は大きく変貌を遂げて行きます。