心の底まで しびれるような デュエット曲の定番2つ。

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西銀座デパートと「銀恋」の碑

西銀座デパート、チャンスセンターの並びの茂みに「銀恋の碑」があります。
「銀恋」は「銀座の恋の物語」です石原裕次郎と牧村旬子のデュエットで、昭和36年(1961)にテイチクより発売されました。。
作詞は大高ひさを、作曲は鏑木創
「銀座の恋の物語」
  (女)心の底まで しびれるような
 (男)吐息が切ない ささやきだから
  (女)泪が思わず わいてきて
 (男)泣きたくなるのさ この俺も
 (男女)東京で一つ 銀座で一つ
    若い二人が 初めて逢った
     真実(ほんと)の恋の 物語

 (女)誰にも内緒で しまっておいた
 (男)大事な女の真心だけど
 (女)貴男(あなた)のためなら 何もかも
  (男)くれると言う娘の いじらしさ
(男女)東京で一つ 銀座で一つ
    若い二人の 命をかけた
    真実の恋の 物語

 (女)やさしく抱かれて 瞼をとじて
 (男)サックスの嘆きを 聴こうじゃないか
 (女)灯りが消えても このままで
 (男)嵐が来たって 離さない
 (男女)東京で一つ 銀座で一つ
     若い二人が 誓った夜の
     真実の恋の 物語

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「銀座の恋の物語」、最初の登場は、昭和36年(1961)1月に公開された石原裕次郎主演の映画『街から街へつむじ風』の挿入歌でした。
この映画のヒロインは芦川いづみです。
そして、この歌の人気の先行で、翌昭和37年(1962)3月に、映画『銀座の恋の物語』が造られました。

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映画「銀座の恋の物語」のポスター

もちろん主演は、石原裕次郎です。相手役は浅丘ルリ子です。江利チエミジェリー藤尾も競演しています。
歌はこの映画のテーマにも主題歌にもなりました。
実は、その当時、デュエットソングフランクとして、大ヒットしていた曲がありました。

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東京ナイトクラブ ジャケット

フランク永井松尾和子が歌たった「東京ナイト・クラブ」です。
「銀座の恋の物語」が作られた背景には「東京ナイト・クラブ」の存在がありました。

「東京ナイト・クラブ」 作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田 正、歌:フランク永井松尾和子
(男)なぜ泣くの 睫毛(まつげ)がぬれてる
(女)好きになったの もっと抱いて
(男)泣かずに踊ろよ もう夜もおそい
(女)わたしが好きだと 好きだといって
(男)フロアは青く 仄(ほの)暗い
(女)とても素敵な 
(男女)東京ナイトクラブ

(女)もうわたし 欲しくはないのね
(男)とても可愛い 逢いたかった
(女)男は気まぐれ そのときだけね
(男)うるさい男と 言われたくない
(女)どなたの好み このタイは
(男)やくのはおよしよ
(男女)東京ナイトクラブ
        (間奏)
(男)泣くのに弱いぜ そろそろ帰ろう
(女)そんなのいやよ ラストまで踊っていたいの
(男女)東京ナイトクラブ

「東京ナイト・クラブ」は、「有楽町で逢いましょう」「西銀座駅前」と同じ作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正のコンビです。
ナイトクラブという夜の大人の世界を人気のフランク永井と新人の松尾和子と組ませて、大人の少し妖しいムードただようデュエット曲をつくりあげました。今では考えられないことですが「好きになったの もっと抱いて」がいやらしいとして、この歌の放送を自粛することまであったということです。
テイチクはこの「東京ナイト・クラブ」のヒットを見て、「東京ナイトクラブ」のような歌を作ろうと考えました。
「『東京ナイトクラブ』とそっくりな歌を作ってくれ」と関係者に指示したそうです。
それでできたのが、「銀座の恋の物語」でした。
大人の男女がかけあいで歌うというデュエットの歌唱法を採用したこととか、2人の声質の良さを引き出したメロディーとか、
そして、「貴男のためなら 何もかもくれると言う娘の いじらしさ」(ナイトクラブ)、「好きになったの もっと抱いて」(銀恋)など、当時としてはかなりきわどい詞が盛り込まれています。
この⑵つの曲は、以後のデュエット曲の定番となる、型を作ったと言えます。
「銀座の恋の物語」は、当時の石原裕次郎は忙しすぎて、わずか数時間の目通しだけで、歌を吹き込んだと言われます。
「銀恋」つまり「銀座の恋の物語」は、公称300万枚を超える大ヒット曲となりました。
カラオケ・ブームの到来とともに、「東京ナイト・クラブ」も「銀座の恋の物語」も好んで歌われるようになり、
今でもとともに。デュエット曲の人気の1位、2位を争っています。

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「銀恋」の碑

「銀恋の碑」は、平成2年(1990)7月、「銀座の恋の物語」の作詞家・大高ひさを氏の依頼で、西銀座通会、銀座通連合会、テイチク(株)によって建立されましたた。碑には歌詞と楽譜が刻まれています。
どこに碑を建てるか、場所の選考に苦慮したようですが、4丁目の数寄屋橋公園がノミネートされ、中央区の内諾を得て、場所が決定しました。

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4丁目の数寄屋橋公園

碑のデザインは、2人分の座席、西洋風に言うと「ラブ・シート」の形に決まりました。碑を挟んでカップルで記念写真が撮れるよう左右に座席が設けられています。

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「ラブ・シート」の形の「銀恋」の碑

平成2年(1990)7月、石原まきこさん、牧村美枝子さんなどを招いて、数寄屋橋公園の碑の前で除幕式が行われました。

 

▼この「銀恋の碑」を造った西銀座通会、銀座通連合会の方が除幕式のことなど書かれているものの中に。「新しい銀座名所が一丁上がり、とほくそ笑んでいましたら、案に相違の素通りの碑。」とありました。
近くの「有楽町で逢いましょう」の歌碑も残念ながら「素通りの碑」のようです。
碑の前で、足を止めて、ゆっくりと、これらの歌にまつわる、自分の思い出などに浸ってみるのも悪くないと思います。
ただ、こういう碑になった歌をまるで知らないという世代の時代が、もうそこまで来ているのも、ちょっと気になります。