文京区小日向 「切支丹屋敷跡」

深光寺で、曲亭馬琴のお墓にお参りし、丸の内線の高架か宗四郎稲荷大明神のところ道なりに行くとそこが、蛙坂です。この蛙坂は、この坂で、蛙の合戦があったからという、面白い名前の坂です。

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その先に行くと、左側に長い道があります。新道(別名 七軒屋敷新道)と呼ばれています。(かつて、ここが「切支丹坂」と呼ばれていました)。

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キリシタン屋敷のあった場所について、この図が一番解りやすいので、借りて来ました。俗にキリシタン屋敷と呼ばれる場所は、井上筑後守政重の下屋敷でした。

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明治初年の地図に、蛙坂、新道、キリシタン屋敷を示した地図

 

このあたりに、かつて宗門改役の井上筑後守政重の下屋敷があり、そこに七軒屋敷と呼ばれる長屋があったことで、七軒屋敷新道と、名付けられています。
その道を進むと。キリシタン屋敷跡の碑があります。

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キリシタン屋敷跡の碑

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現在の解説をアップ

キリシタン屋敷跡の碑」は、以前はたしか下記のようでした。
島原の乱(1637~1638)の5年後、イタリアの宣教師ペトロ・マルクエズら10人が筑前に漂着、すぐに江戸送りとなり伝馬町の牢に入れられました。その後、この地、宗門改役の井上筑後守政重の下屋敷内に牢や番所などを建て収容したのが切支丹屋敷の起こりです。寛政4年(1792)の宗門改役の廃止まで続きました。
宝永5年(1708)イタリアの宣教師ヨハン・シドッチが屋久島に渡来し、切支丹屋敷に入れられました。徳川6代将軍家宣に仕えた新井白石はシドッチを尋問し、『西洋紀聞』にまとめられました。平成26年(2014)に実施した埋蔵文化財発掘調査で、3基の墓と人骨が出土しました。そのうち1体についてはシドッチである可能性が高いことが判明しています。>

屋敷は、寛政4年(1792)に廃止されていますが、七軒屋敷新道とか、キリシタン坂とか、その当時のゆかりものが名前で残っています。
また、解説ではシドッティの名が挙げられてますが、もう一人、ジョゼフ・カウロ(1601~1685)という人がいます。
イタリア人でイエズス会の宣教師。寛永20年(1643)、筑前国大島で捕えられ、長崎から江戸へと送られて、切支丹屋敷最初の入牢者となりました。拷問によって転宗、岡本三右衛門の名と妻を与えられ貞享2年、84歳で没するまで切支丹屋敷に監禁されました。
この人が、遠藤周作の『沈黙』の主人公、司祭ロドリゴのモデルとなった人物です
『沈黙』はキリスト教における「神の沈黙」を主題にした歴史小説です。昭和41年(1966)新潮社刊。
江戸時代初期に行われたキリシタン弾圧の中、キリスト教の布教活動のため、日本にやってきたポルトガル人の2人の司祭と日本人の姿を描き、日本の風土におけるキリスト教の本質を描き出した戦後日本文学の代表作として、現在も高い評価を受けている作品です。
遠藤周作の『沈黙』は世界中の13ヵ国語に翻訳されています。
遠藤周作の『沈黙』を原作として、マーティン・スコセッシ監督が、アメリカ映画『沈黙 -サイレンス-』制作しました。

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この映画が公開されたのは、平成28年(2016)です。原作刊行から50年、遠藤没後20年にあたります。マーティン・スコセッシ監督が数々の紆余曲折を経て、やっとの思いで、作った作品でした。
遠藤周作の『沈黙』はすごく気になっていたのですが、読めませんでした。
『沈黙 -サイレンス-』を観ました。
拷問の場面は、ほとんど目をそむけていました。すごく怖かったです。
この映画には、このキリシタン屋敷は出てきません。
井上筑後守は出て来ます。
幕府は、キリシタン信者を、見せしめとして、往来の多い札ノ辻(江戸芝口)で数多く処刑しましたが、それは逆効果で、殉教の喜びを与えただけであり、殉教者が出ると海外から宣教師が潜入し、これが繰り返されていました。
このため、幕府は厳罰のみの方針を転換し、転び(棄教)を仕掛けます。九州に潜入した宣教師などを長崎から江戸送りとし、小伝馬町の牢屋で調べ、穴の中へ逆さ吊りにするという虐待により転ばせてから、切支丹屋敷に収容しましました。
この任に当たったのが、本人もかつては信者であった、井上筑後守政重でした。
寛永10年(1633年)、ポルトガルイエズス会司祭クリストヴァン・フェレイラは、長崎で捕らえられ、穴吊りの拷問を受けて3日後に棄教、最初の転びバテレンとなっていました。
この知らせを聞いてキアラを含む10名のイエズス会士が日本へ向かいます。一行はマニラを経由し、寛永20年(1643年)1643年6月27日に筑前国に上陸したが、すぐ捕らえられて長崎へ送られ、同年8月27日には江戸へ移送されます。
宗門改奉行・井上政重の邸で詮議が行われました。キアラはフェレイラと同じく穴吊りの拷問を受けて、3日後に棄教します。
正保3年(1646年)、この切支丹屋敷に移され、同じく入国を企てた仲間とともに収容されます。
そして、幕命により岡本三右衛門という殉教した下級武士の後家を妻として娶り、そのまま岡本三右衛門の名を受け継ぎます。
幕府からは十人扶持を与えられましたが、切支丹屋敷から出ることは許されませんでした。その後もたびたびキリシタンおよび宣教師についての情報を幕府に提出し、宗門改方の業務も行いました。

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伝通院にジョゼフ岡本三右衛門神父の供養碑があります。

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切支丹屋敷


切支丹屋敷は、現在の小日向一丁目14,16,23~25番地にかけてあったと言います。屋敷創立当時は7700余坪といわれています。