歌が作った銀座の象徴「銀座の柳」

f:id:ktuyama:20211006115404j:plain

風にそよぐ「銀座の柳」

 

『東京行進曲』は、昭和4年(1929)映画の主題歌として、発表されました。
1番に ♪昔恋しい 銀座の柳  ♪仇(あだ)な年増(としま)を 誰が知ろ(作詞:西條八十)と歌われます。
昭和11年(1936)にヒットした『東京ラプソディ』にも「銀座の柳」が歌われています。
♪花咲き 花散る宵も ♪銀座の柳の下で ♪待つは君ひとり 君ひとり

『東京行進曲』も『東京ラプソディ』も、どちらも「柳」が歌われています。

「銀座」と言えば柳。江戸時代から柳並木があったのだろうと思ってしまいますが、そうではありません。
銀座通りに、日本初の街路樹が整備されたのは、明治7年(1874)のことでした。
最初は松、カエデ、桜が植えられましたが、すぐに立ち枯れてしまいました。
銀座は四方を堀川に囲まれた湿地帯でした。水が多すぎると普通の木々は育ちません。そこで、水や湿気に強い柳に植え替えました。
柳は、枯れませんでした。明治10年代半ばでしたが、銀座に柳を植えました。
それが「銀座の柳」の始まりです。しかも、その柳も、銀座の街の開発や関東大震災等でなくなってゆきます。
『東京行進曲』の冒頭に、♪昔恋しい銀座の柳♪、とあるように、、昭和4年当時は「昔恋しい柳」で、銀座には柳はありませんでした。
『東京行進曲』はレコード売上記録を更新する空前の大ヒットになります。
そして、歌が流行るほどに、柳並木を懐かしむ声は大きくなり。その声に押されて、地元商店会や新聞社から900本の柳を寄贈され、
京橋・新橋間と日比谷・築地間の歩道に植えられました。
昭和7年(1932)3月には、銀座柳復活祭が催されます。この時に『東京行進曲』と同じ西條八十作詞と中山晋平のコンビで『銀座の柳』も発表されました。
こちらも映画の主題歌でしたが「♪植えてうれしい銀座の柳 ♪江戸の名残のうすみどり・・・・」
何度も書きますが、これ間違っています。銀座の柳は江戸時代にはないです。
しかし、みんな「銀座の柳」は江戸の昔からあったという深い歴史のイメージも持って「銀座の柳」は銀座の象徴的存在になって行きました。
いわば、「銀座の柳」は、歌が作った「象徴」でした。
しかし、この「銀座の柳」も昭和43年(1968)には銀座通りの改修工事などによって、街路樹としては撤去されてしまいます。
そこには、柳を懐かしむ唄が流行ることもありませんでした。
街路樹は排気ガスに強いポプラやイチイや成長が早く見栄えが良いカツラへの植え替えられました。

f:id:ktuyama:20211006115737j:plain

銀座の柳の並木道


そうした何度かの植えられ伐られの変遷を経て、昭和62年(1987)3月には、中央区政40周年を記念して、中央区の木に「柳」が制定されます。
そして平成~令和の時野中で、西銀座通り、柳通り、松屋通り、御門通りに柳並木が蘇っていきました。

f:id:ktuyama:20211006115548j:plain

現在、新橋駅に近い御門通りには、枝剪定で根付いた若木を昭和60年(1985)に植えて育て、銀座の柳の復活を遂げたと伝わる柳四世が風に揺れています。
柳を見ながら、新橋から御門通りを歩いてみました。

恋するふたりに、雨がよく似合う。

台風16号の影響で雨が降っています。風も少し出てきたようです。
今日は「有楽町」の散策をするつもりでしたが、台風来襲ということで、中止になりました。

   ♪あなたを待てば雨が降る♪
「有楽町」を歩く当たって、フランク永井の「有楽町で逢いましょう」は一つのテーマでした。
むかしむかしまだ若かりし頃のことですが、その「有楽町で逢いましょう」をきっかけにして、歌謡曲における「恋愛と雨」といった話し合いをしたこと思い出しました。

その時雨の歌謡曲を集めました。「雨の歌」はとても多いです。それもほとんどが「恋愛」の歌です。
雨が降っています。自分にとって昔なつかしい「雨の歌謡曲」を思い出してみることにします。
▼まず、有楽町で逢いましょう昭和32年(1957)の歌です。
作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正、唄:フランク永井
♪あなたを待てば雨が降る ♪濡れて来ぬかと気にかかる
雨がムードを盛り上げます。

▼昭和34年(1957)の水原弘が歌った「黄昏のビギン」

この歌は、ちあきなおみのカバーでさらに有名になりました。
作詞:永 六輔、作曲:中村八大、唄:水原 弘
いきなり「雨」が出て来ます。
♪雨に濡れてた たそがれの街 ♪あなたと逢った 初めての夜 ♪ふたりの肩に 銀色の雨
昭和35年(1960)に、「アカシアの雨がやむとき」
作詞:水木かおる、作曲:藤原秀行、唄:西田佐知子
♪アカシアの雨にうたれて ♪このまま死んでしまいたい ♪夜が明ける 日がのぼる 

♪朝の光りのその中で   ♪冷たくなったわたしを見つけて ♪あの人は 

♪涙を流してくれるでしょうか

発表年を調べていて、wikipediaを見ると、次の文章がありました。
「アカシアの雨がやむとき」が支持された背景として、「日米安保闘争」と関連付けて語られることが多くある。
その中身とは、1960年1月の『日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約』調印を発端とした安保闘争後、反対運動の成果ゼロという結果に疲れた若者たちが西田佐知子の乾いたボーカルと廃頽的な詞に共鳴し、歌われたことで広まっていった、というものである」
1960年代はそういう時代でした。
▼昭和41年(1966)「夢は夜ひらく」
作詞:中村泰士、富田清吾、作曲:曾根幸明 唄:園まり
♪雨が降るから 逢えないの ♪来ないあなたは 野暮な人 ♪ぬれてみたいわ 二人なら ♪夢は夜ひらく
(昭和45年(1970)の藤圭子の「夢は夜ひらく」には雨は降っていません)
▼昭和41年(1966)橋幸夫「雨の中の二人 」があります。
作詞:宮川哲夫 作曲:利根一郎 唄:橋幸夫
♪雨が小粒の真珠なら 恋はピンクのバラの花 ♪肩を寄せ合う小さな傘が 若いこころを燃えさせる ♪別れたくないふたりなら 濡れてゆこうよ 何処までも
橋幸夫とは同年輩です。先日2年後に引退の宣言をしました。)
▼昭和46年(1971)「雨の御堂筋」
作詞:林春生、作曲:The Ventures  唄:欧陽菲菲 
♪小ぬか雨降る 御堂筋  ♪こころ変りな  夜の雨  ♪あなた あなたは何処よ ♪あなたをたずねて 南へ歩く
(この唄が流行っているころ、大阪にいました)
▼昭和55年(1980)「雨の慕情」
作詞:阿久悠、作曲:浜圭介、唄:八代亜紀
♪心が忘れた あのひとも ♪膝が重さを 覚えてる ♪煙草プカリと ふかしてた♪憎い 恋しい 憎い 恋しい♪めぐりめぐって 今は恋しい ♪雨雨ふれふれ もっとふれ  ♪私のいいひと つれて来い
イイですね。阿久悠の作詞の曲はとても好きでした。
謡曲への興味も、このあたりからしだいに薄らいで行ったように思います。

日比谷公園

f:id:ktuyama:20210927120727j:plain

ミッドタウン日比谷9階から見た日比谷公園

 

徳川家康が江戸入府したころ、現在の日比谷公園から有楽町駅の西側あたりまでは、日比谷入り江という深い入り江でした。家康は大工事をしてこの入江を陸地に変え、のちにその埋立地の上に大名屋敷が建てられました。現在の「日比谷」交差点の辺りに、日比谷御門がありました。

f:id:ktuyama:20210927115931j:plain

日比谷入江の図

明治になって陸軍練兵場として使われた後、公園として造成することになります。

f:id:ktuyama:20210927120246j:plain

明治17年(1884) 日比谷陸軍練兵場の地図

 

明治26年(1893)に東京市が軍から払下げを受けその跡地に、造ることになり、日比谷公園命名されました。
(ここに建物を建てるのを避けたのは、入り江の埋め立て地で地盤が弱かったからだとも言われています)。

しかし、日本の公園は、明治6年(1873)の上野公園・芝公園など寺社境内の公園化が中心で、日本人が一から新しく公園を造るのは全く初めての試みでした。なかなか人選が決まらず、東京駅を造った辰野金吾にも依頼しますが、辰野金吾は、本多静六が推挙しました。そこで、ドイツ留学を終えたばかりの本多静六を中心として立案することとなります。江戸城に連なっていた壕を埋め立てることにした明治34年(1901)のことでした。

f:id:ktuyama:20210927120427j:plain

久喜市菖蒲町「本多静六記念館」前の本多静六

本多静六は、留学経験を生かしてドイツ式庭園を目指します。江戸城に連なっていた壕を埋め立てる際に一部を心字池として埋め残し、日本的な要素も残しました。
本多 静六は、日本の「公園の父」といわれ、日本の各地で公園の設計・改良に携わっています。林学者、造園家ですが、株式投資家といも言われます。苦学して東大教授になり「月給4分の1天引き貯金」を元手に投資で巨万の富を築いています。すごいのは、大学定年退官と同時にその財産を寄付しています。
そういう、合理的な人だったので、文明開化で、捨てられかねなかった、江戸の遺物を日比谷公園に持ち込み飾っています。
その一部を紹介してみます。

日比谷公園の門は9箇所ありますが、
開園時の門は、日比谷門、有楽門、桜門、霞門、西幸門、幸門 の6箇所の門でした。
その門には、江戸城見附門の石が使われています.
●四谷見附、赤坂見附門から門柱 日比谷門

合計4本の門柱(左の小さい門柱は、台座だけ残る)があります。 照明あり。
 柱には「以赤阪門及四谷門舊礎建設之」と刻まれています。「赤阪門及四谷門、の旧い礎石を以って建造」の意です。
赤坂門と四谷門の旧礎の再利用だそうです。

○市ヶ谷見附門から石 烏帽子石 

明治時代、道路拡張に伴い石塁が取り壊された際、永く保存するためこの日比谷公園に移されました。中央下に几号水準点が刻印されています。

この石は、江戸時代、江戸城外郭市ヶ谷御門の石垣の中にあったもので、形が烏帽子(えぼし)(昔、元服した男子のかぶりものの一種)に似ていたため、 人々から烏帽子石と呼ばれて珍重されていたものです。
○牛込見附門から 亀石
心字池蕎麦にあります。
この石にも「不」の文字、几号水準点が刻まれています。
文字は地面に垂直にたっているのが本来であり、富士見町の牛込門の枡形石垣からここに持ち込まれた時に石は寝かされたものと言われています。

馬の水飲み場
馬の水飲み場日比谷公園が開設された明治36年頃馬が貴重な交通機関だった時代に馬が楽に水を飲めるように水飲み場があったようです。
 交通機関を牛馬が担っていたことが偲ばれます。新宿駅東口広場にもあります。
馬が重要な運搬手段であった頃は、各所に、馬の水飲み場が造られていました。
▼馬水槽(JR新宿駅東口広場)
東京の水道の“育ての親”である中島鋭司博士が、明治34年ごろに欧米諸国を視察した際、ロンドン水槽協会から東京市に寄贈されたもの。
赤大理石で造られた水槽で、前面の上部が馬用、下部が犬猫用の水飲み場、その裏面が人間の水飲み場になっています。世界でも数少なく貴重な史跡として、新宿区指定文化財に選ばれています。

玉川上水の石枡
江戸時代、木管上水道の樋と樋をつなぐのが石枡で、水位を上げたり、流れを方向転換しました。
日比谷門入ってすぐのところの「石枡」の所に説明板があります。
「江戸時代の上水道木管の石桝で、園内の数ヶ所にこれと同じものがあります。巨石を四角にくり抜くいた豪荘なつくりで、内側にその所在地を刻んだものもあります。この桝は、江戸市内大通りのところどころに設けられ、ここから大名邸などに導水されていました。」石枡は、日比谷公園に3カ所あります。

 

人形町通りの「からくり櫓」

人形町に来て、賑やかな人形町通りを歩くと、いつも気になるのが、「からくり櫓」です。
2基あります。

▼水天宮の近くにあるのが「からくり櫓 ― 江戸落語」です。

f:id:ktuyama:20210918114426j:plain

「からくり櫓 ― 江戸落語

f:id:ktuyama:20210918114655j:plain

「からくり櫓 ― 江戸落語」横

f:id:ktuyama:20210918114730j:plain

「からくり櫓 ― 江戸落語

高さは6m50㎝。江戸の賑わいを表現している絵などが飾られています。
「からくり櫓」ということで、からくりで動くようです。
残念ながら、まだ見たことがりません。
「11時から19時までの1時間おきに動き出します。」ということです。演じる時間は「約2~3分」とのこと。
きちんと時間合わせて見ないといけないですね。
どんな動きだろうと、ネットで探してみました。

f:id:ktuyama:20210918114829j:plain

「からくり櫓 ― 江戸落語」幕のところ

f:id:ktuyama:20210918115006j:plain

「からくり櫓 ― 江戸落語」江戸に賑わいの絵

時間が来ると、落語の出囃子が流れ、幕がからりと開いて噺家さんが現れます。
もちろん人形なおでしょうね。落語を一席するのかと思いましたが、時間がないですね。
人形町の由来」が語られるようです。
そして、それに合わせて、上段の絵がくるりと回り、
下からは、天秤棒の魚屋、道具箱を担いだ大工のお兄さん、華やかな芸者さん、大店の旦那さんなど、江戸の活気を支えた人々が登場するようです。

▼道を渡って、交差点の方に少し行くと、「からくり櫓 ― 町火消し」があります。
高さは7m55㎝。

f:id:ktuyama:20210918115300j:plain

「からくり櫓 ― 町火消し

f:id:ktuyama:20210918120626j:plain

からくり櫓――火消し 横面

f:id:ktuyama:20210918115513j:plain

「からくり櫓 ― 町火消し


こちらは、火消し衆が回り出し木遣りが流れると、上段の絵が回転し、纏持ちが「は組」の纏を振り込むようです。
江戸時代に人形町界隈は、町火消しいろは四十八組中の「は組」が受け持っていたので、「は組」の纏です。

f:id:ktuyama:20210918115625j:plain

町火消しの人形

そして、屋根がせり上がると、登場するのは・・・梯子乗り、だそうです。
時間は短いですが、どちらも、ぜひ一度しっかり見たいものです。

人形町の大観音寺、御本尊「鉄造菩薩頭」の御開帳

毎月17日は、「鉄造菩薩頭」の御開帳があるということで、人形町駅の近くにある「大観音寺」へ行ってみました。「大観音寺」の読み方は「だいかんのんじ」ではなく「おおかんのんじ」ということです。

f:id:ktuyama:20210918111308j:plain

人形町「大観音寺」

 

本堂は石段を上がった2階です。
 その石段の横に、案内があります。
「大観音寺には、本尊である鋳鉄製の菩薩頭(総高170cm、面幅54cm)が安置されています。頭頂部のみは後に補修され鋳銅製。頭上には高さ53cmの高髻(こうけい)があり、後補である鋳銅製蓮華座の台座上に祀られています。
この菩薩頭の由来については、かつての鎌倉の新清水寺に祀られていた鋳鉄製の観音菩薩像でしたが、廃寺となった後、江戸時代に頭部のみが鶴岡八幡宮前の鉄井(くろがねのい)から掘り出されたと伝わっています。
その後、明治初年の神仏分離の令に際して鎌倉から移され、大観音寺に安置されました。以後、本尊として今日に至っています。本尊は、毎月11日・17日のみ開帳され、信仰を集めています。
この菩薩頭は、中世造立になる関東特有の鉄仏のうちでも、鎌倉時代製作の優秀な作品であることから、
昭和47年4月、東京都指定有形文化財に指定されています。
  平成30年3月                 中央区教育委員会

鎌倉の「新清水寺」は、北条政子が、京都清水観音に帰依することで、鎌倉に「新清水寺」を創建したのだそうで、「哲造観世音菩薩」はその御本尊だったということです。その後、火災にあったりして「新清水寺」は廃寺になり、この像も行方が解らなくなっていたようです。
明治の廃仏毀釈 で、由比ヶ浜に捨てられる所を、人形町の住人が持ち帰ったということです。それが明治9年のことです。「鉄造菩薩頭」と呼ばれています。
「鉄造菩薩頭」が安置されている大観音寺は明治13年に建立されました。

f:id:ktuyama:20210918111609j:plain

本堂に上がらせてもらいました。
これは本堂の中の写真ですが、御前立観音像のその奥に「鉄造菩薩頭」は、祀られています。

f:id:ktuyama:20210918111711j:plain

暗いし、ほとんどわかりません。
鋳鉄製の像で、高さ170センチ、面幅54センチ。つまり、巨大な頭部の像ですが、鎮座されています。
意識して観ると、少しその存在が見られるように思えます。
本堂前には、「願いの地蔵尊」とか、「韋駄天」などが鎮座されています。

f:id:ktuyama:20210918111801j:plain

「願いの地蔵尊

 

f:id:ktuyama:20210918111955j:plain

「韋駄天」

 

市民マラソンが盛んで、「韋駄天」お参拝は多いようです。
東京マラソンの出発地点、新宿の都庁の近く、新宿ワシントンホテルビル正面玄関近くに韋駄天を祭った「新宿韋駄天尊」があります。
仏教における増長天八将の一神である韋駄天は、仏舎利を奪った鬼を得意の脚力で追いかけて瞬時に取り返したといわれることから、戦いや勝負事、また足と健康の神として尊ばれています。

文京区小日向 「切支丹屋敷跡」

深光寺で、曲亭馬琴のお墓にお参りし、丸の内線の高架か宗四郎稲荷大明神のところ道なりに行くとそこが、蛙坂です。この蛙坂は、この坂で、蛙の合戦があったからという、面白い名前の坂です。

f:id:ktuyama:20210915210856j:plain

その先に行くと、左側に長い道があります。新道(別名 七軒屋敷新道)と呼ばれています。(かつて、ここが「切支丹坂」と呼ばれていました)。

f:id:ktuyama:20210915210931j:plain

キリシタン屋敷のあった場所について、この図が一番解りやすいので、借りて来ました。俗にキリシタン屋敷と呼ばれる場所は、井上筑後守政重の下屋敷でした。

f:id:ktuyama:20210915211036j:plain

明治初年の地図に、蛙坂、新道、キリシタン屋敷を示した地図

 

このあたりに、かつて宗門改役の井上筑後守政重の下屋敷があり、そこに七軒屋敷と呼ばれる長屋があったことで、七軒屋敷新道と、名付けられています。
その道を進むと。キリシタン屋敷跡の碑があります。

f:id:ktuyama:20210915211356j:plain

キリシタン屋敷跡の碑

f:id:ktuyama:20210915211438j:plain

現在の解説をアップ

キリシタン屋敷跡の碑」は、以前はたしか下記のようでした。
島原の乱(1637~1638)の5年後、イタリアの宣教師ペトロ・マルクエズら10人が筑前に漂着、すぐに江戸送りとなり伝馬町の牢に入れられました。その後、この地、宗門改役の井上筑後守政重の下屋敷内に牢や番所などを建て収容したのが切支丹屋敷の起こりです。寛政4年(1792)の宗門改役の廃止まで続きました。
宝永5年(1708)イタリアの宣教師ヨハン・シドッチが屋久島に渡来し、切支丹屋敷に入れられました。徳川6代将軍家宣に仕えた新井白石はシドッチを尋問し、『西洋紀聞』にまとめられました。平成26年(2014)に実施した埋蔵文化財発掘調査で、3基の墓と人骨が出土しました。そのうち1体についてはシドッチである可能性が高いことが判明しています。>

屋敷は、寛政4年(1792)に廃止されていますが、七軒屋敷新道とか、キリシタン坂とか、その当時のゆかりものが名前で残っています。
また、解説ではシドッティの名が挙げられてますが、もう一人、ジョゼフ・カウロ(1601~1685)という人がいます。
イタリア人でイエズス会の宣教師。寛永20年(1643)、筑前国大島で捕えられ、長崎から江戸へと送られて、切支丹屋敷最初の入牢者となりました。拷問によって転宗、岡本三右衛門の名と妻を与えられ貞享2年、84歳で没するまで切支丹屋敷に監禁されました。
この人が、遠藤周作の『沈黙』の主人公、司祭ロドリゴのモデルとなった人物です
『沈黙』はキリスト教における「神の沈黙」を主題にした歴史小説です。昭和41年(1966)新潮社刊。
江戸時代初期に行われたキリシタン弾圧の中、キリスト教の布教活動のため、日本にやってきたポルトガル人の2人の司祭と日本人の姿を描き、日本の風土におけるキリスト教の本質を描き出した戦後日本文学の代表作として、現在も高い評価を受けている作品です。
遠藤周作の『沈黙』は世界中の13ヵ国語に翻訳されています。
遠藤周作の『沈黙』を原作として、マーティン・スコセッシ監督が、アメリカ映画『沈黙 -サイレンス-』制作しました。

f:id:ktuyama:20210915214110j:plain

この映画が公開されたのは、平成28年(2016)です。原作刊行から50年、遠藤没後20年にあたります。マーティン・スコセッシ監督が数々の紆余曲折を経て、やっとの思いで、作った作品でした。
遠藤周作の『沈黙』はすごく気になっていたのですが、読めませんでした。
『沈黙 -サイレンス-』を観ました。
拷問の場面は、ほとんど目をそむけていました。すごく怖かったです。
この映画には、このキリシタン屋敷は出てきません。
井上筑後守は出て来ます。
幕府は、キリシタン信者を、見せしめとして、往来の多い札ノ辻(江戸芝口)で数多く処刑しましたが、それは逆効果で、殉教の喜びを与えただけであり、殉教者が出ると海外から宣教師が潜入し、これが繰り返されていました。
このため、幕府は厳罰のみの方針を転換し、転び(棄教)を仕掛けます。九州に潜入した宣教師などを長崎から江戸送りとし、小伝馬町の牢屋で調べ、穴の中へ逆さ吊りにするという虐待により転ばせてから、切支丹屋敷に収容しましました。
この任に当たったのが、本人もかつては信者であった、井上筑後守政重でした。
寛永10年(1633年)、ポルトガルイエズス会司祭クリストヴァン・フェレイラは、長崎で捕らえられ、穴吊りの拷問を受けて3日後に棄教、最初の転びバテレンとなっていました。
この知らせを聞いてキアラを含む10名のイエズス会士が日本へ向かいます。一行はマニラを経由し、寛永20年(1643年)1643年6月27日に筑前国に上陸したが、すぐ捕らえられて長崎へ送られ、同年8月27日には江戸へ移送されます。
宗門改奉行・井上政重の邸で詮議が行われました。キアラはフェレイラと同じく穴吊りの拷問を受けて、3日後に棄教します。
正保3年(1646年)、この切支丹屋敷に移され、同じく入国を企てた仲間とともに収容されます。
そして、幕命により岡本三右衛門という殉教した下級武士の後家を妻として娶り、そのまま岡本三右衛門の名を受け継ぎます。
幕府からは十人扶持を与えられましたが、切支丹屋敷から出ることは許されませんでした。その後もたびたびキリシタンおよび宣教師についての情報を幕府に提出し、宗門改方の業務も行いました。

f:id:ktuyama:20210915213930j:plain

伝通院にジョゼフ岡本三右衛門神父の供養碑があります。

f:id:ktuyama:20210915215409j:plain

切支丹屋敷


切支丹屋敷は、現在の小日向一丁目14,16,23~25番地にかけてあったと言います。屋敷創立当時は7700余坪といわれています。

 

朝倉響子作 「フィオーナとアリアン」

 

f:id:ktuyama:20210915144054j:plain

教育の森公園

教育の森公園は、文京区大塚3丁目にある旧東京教育大学(現在の筑波大学)の跡地に開園した公園です。その中にある令和元年(2019)にリニューアルされた文京スポーツセンターの近くに、2人の女性が座るベンチの彫刻があります。
朝倉響子作 「フィオーナとアリアン」です。平成4年(1992)の作品です。
もうすっかり、まわりの風景に溶け込んでいます。

f:id:ktuyama:20210915144147j:plain

公園のベンチに、座っている2人の像、とても親しみを覚えます。
ただ鑑賞する人もいますが、眺めるだけでなく、
隣りに座っても良いのだそうです。肩に手をかけて座り写真を撮っている人もいるそうです。
今はコロン禍ですから、鑑賞だけにしました。
とても気に入ってあちらこちらから写真を撮ってみました。「フィオーナとアリアン」

f:id:ktuyama:20210915144245j:plain

f:id:ktuyama:20210915144316j:plain


この名前はどこから来ているのだろうと思います。
調べてみると、生前取材して人の文章が出ていました。実際は、取材できず、「事前にお送りした質問に、口述で回答をご準備していただき、そのメモ」ということですが。
「像はすべてイメージで制作したもので特定のモデルはいません。二人の関係は友達です。名前は言葉の響きで決めました。」
そして、「堅苦しくなく、開放的で自然にリラックスして観てください。」

f:id:ktuyama:20210915144352j:plain

また、こんな哲学的な話も載っていました。
ふたりの女性が座るベンチ。その間に腰かけると、ふたりがこちらを向いています。どちらが「フィオーナ」で、どちらが「アリアン」なのでしょう?実は、どちらも「フィオーナ」であり、「アリアン」です。人は、「自分の知っている自分」と、「自分の知らない自分」の二人が存在するのです>

f:id:ktuyama:20210915144435j:plain

ま、いいでしょう。
「散歩の途中、公園でちょっと休憩しながら談笑をしているような、ゆったりとした雰囲気を出したかったのです。」

f:id:ktuyama:20210915144507j:plain

とてもすがすがすがしい気分になります。
ちなみに、朝倉響子の父上・朝倉文夫制作の嘉納治五郎像が、教育の森公園と繋がっている隣の占春園にあります。

f:id:ktuyama:20210915144539j:plain

朝倉文夫作「嘉納治五郎像」