2021-08-01から1ヶ月間の記事一覧

『東京行進曲』と『東京ラプソディ』で見る、戦前の東京の盛り場・繁華街

また、昔の本になりますが、多田道太郎の本に『風俗学』(昭和53年・筑摩書房発行)があります。そこに「盛り場低佪」という章があり、東京の盛り場はどこか考察されています。戦前の盛り場としては、浅草、銀座、新宿があげられています。戦後はそれに、六…

心の底まで しびれるような デュエット曲の定番2つ。

西銀座デパートと「銀恋」の碑 西銀座デパート、チャンスセンターの並びの茂みに「銀恋の碑」があります。「銀恋」は「銀座の恋の物語」です石原裕次郎と牧村旬子のデュエットで、昭和36年(1961)にテイチクより発売されました。。作詞は大高ひさを、作曲は…

♪ イカすじゃないか 西銀座駅前

昭和32年(1957)百貨店そごうが開業して、集客効果を狙ったフランク永井の『有楽町で逢いましょう』が大ヒット。その翌年、5月には、フランク永井の歌う『西銀座駅前』がリリースされ、こちらも大ヒットします。7月には日活で同名タイトルの映画が公開され…

♪あなたと私の合言葉「有楽町で逢いましょう」♪

山本夏彦・久世光彦 『昭和恋々』(清流出版 平成10年(1998)発行)という本に、2人の対談が載っています。山本夏彦「昭和50年代までの歌には、歌詞のわからないものは一つもない。ほとんど覚えていて歌えるんです。いまの歌はみんなわからないでしょう。」…

明治から終戦のころまでの有楽町界隈の変貌をたどる。

明治に入り「東京」が誕生。西洋文明を積極的に吸収し、急速に西洋化・近代化が進み、丸の内・有楽町・銀座周辺は、 銀座煉瓦街の完成や市内電車の発達を通して、ハイカラな街へと変貌して行きました。明治27年(1894)丸の内(現在の有楽町駅近く)に「東京…

「数寄屋橋」の話

高速道路の高架。その下は「銀座ファイブ」です。銀座ファイブは、「数寄屋橋ショッピングセンター」より平成12年4月17日に名称変更しています。「銀座ファイブ」の向こう側に「数寄屋橋公園」があり、そこに「数寄屋橋の碑」があります。裏面に次のように…

「有楽町」と「数寄屋橋」と「南町奉行所跡」

織田有楽斎画像ー正伝永源院所蔵) ■「有楽町」という町名は、戦国武将の織田有楽斎(おだうらくさい)に由来するとされます。織田有楽斎は、織田信長の弟で本名は織田長益です。信長が本能寺の変で倒れてからは秀吉に仕え,関ヶ原の戦いでは東軍につきまし…

「日比谷」の話。

日比谷公園や、皇居の堀である日比谷堀などにその名を残す「日比谷」、地名の由来は諸説ありますが、江戸時代初期の地形と関連しています。日比谷あたりは、家康の江戸入府以前は、漁民がすむ村落でした。漁民が海苔をとり、魚をとらえるために海の中に立て…

今戸人形「福助」にまつわる話。

今戸神社(台東区今戸1-5-22) 後冷泉天皇康平6年(1063)、源頼義・義家父子が、奥州討伐の折、鎌倉の鶴ヶ丘と浅草今之津(現在の今戸)とに京都の石清水八幡を勧請したと伝わり、その浅草今之津の「今戸八幡」が「今戸神社」の創建となっています。 今戸神…