滝廉太郎旧居跡と「荒城の月」

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新宿通り麹町一丁目の交差点を靖国神社方面に向かうと「滝廉太郎の居住跡」という柱の横に、廉太郎のレリーフと、御影石に「荒城の月」の楽譜が描かれた碑が建っています。袖摺坂と五味坂が交差する地点です。
ただ、滝廉太郎実際の家は、碑が立つ交差点から西に100m程の所(1番町6番地ライオンズマンション1番町第二)にあったようです。

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明治27年(1894)から明治34年(1901)までこの地に居住していました。
そして、その家で「花」・「荒城の月」・「箱根八里」・「お正月」・「鳩ぽっぽ」などの名曲が作ら れました。
滝廉太郎明治12年(1879)年東京に生まれ、幼少期より音楽に対する才能を示し、
東京高等師範学校付属音楽学校専修科(後の東京音楽学校)を優秀な成績で卒業して、母校の助教受として後進の指導にあたるなどしました。
明治34年(1901)、文部省の留学生としてドイツへ渡り、ライプチヒ国立音楽学校に学んでいましたが、病を得て帰国します。大分の父母のもとに帰り療養しましたが、家族の手厚い看護もむなしく、明治36年(1903)年6月29日、23歳の若さで死去しました。
日本の芸術歌曲の創始者といわれています。

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「荒城の月」は、滝廉太郎の住んだ大分県竹田市の「岡城」だとよく言われます。廉太郎にの父は、豊後国(現大分県)日出藩の家老職を務めた上級武士でした。住んだこともあり、納得がいくのですが、たしかに作曲は滝廉太郎ですが、「荒城の月」の作詞は土井晩翠です。
土井晩翠が昭和21年(1946)に会津女子高の音楽会に出席したときに「荒城の月は旧制二校のとき会津を訪れ、荒れた若松城鶴ヶ城)の印象を素材とした。」と、話したことがあり、その縁で若松城鶴ヶ城)の月見櫓の下には「荒城の月」の碑があります。
また、土井晩翠は、仙台出身なので、仙台の青葉城もイメージされています。
「荒城の月」は、土井晩翠の故郷である仙台市の荒れた「青葉城」、そして戊辰戦争で荒れ果てた「鶴ヶ城」を見て作られ、それに滝廉太郎の住んだ大分県竹田市の「岡城」がイメージされて、曲になったのかもしれません。
滝廉太郎と言えば「荒城の月」とだれもが思い浮かび、今でも多くの人に愛される名曲です。それぞれがそれぞれのお城のイメージをかぶせて思い浮かべれば良いのだと思います。日本各地に存在した荒れた城跡を脳裏に刻み込まれた世代の人たちが、この名曲を育んできたのだと言えるでしょう。
こうして、土井晩翠の詩が出来上がり、作曲者に滝廉太郎が選ばれ、名曲が誕生しました。「荒城の月」は、滝廉太郎21歳の作です。麹町一番町の滝廉太郎居住地跡の碑に刻まれた「荒城の月」の譜面は、残念ですが摩滅していてよく見られません。

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東京での滝廉太郎に関する歌碑は、浅草・浅草寺の「鳩ぽっぽ」と隅田川言問橋のたもとの隅田公園内に「花」があるので、

その時にまた、登場してもらいたいと思います。