新宿で歌碑になった、藤圭子の歌。『新宿の女』『圭子の夢は夜開く』

新宿を舞台にした歌謡曲はどんな曲があるだろうと、気にしていたら、昨年(2020年)10月、「武田鉄矢昭和は輝いていた 街を彩った歌謡曲~魅惑の新宿」という番組がありました。
その番組で取り上げられた曲を列挙してみます。
松山まさる(五木ひろし)「新宿駅から」、美空ひばり「新宿波止場」、佐藤千夜子「東京行進曲」、八代亜紀「なみだ恋」、津山洋子・大木英夫「新宿そだち」、扇ひろ子「新宿ブルース」、森進一「新宿・みなと町」、扇ひろ子「新宿ゴールデン街」、
そして、藤圭子「新宿の女」でした。
夜の酒場で働く女性の歌が多いです。
新宿と言えばすぐ歌舞伎町が思い浮かぶように、「新宿」のイメージは夜の飲み屋になるのでしょうか。
今回は、新宿の歌謡曲の碑を取り上げてみます。
新宿には、藤圭子の歌碑が2基あります。『新宿の女』と『圭子の夢は夜開く』です。
どちらも、石坂まさを作詞・作曲で藤圭子が唄った歌です。
どちらも、平成11年(1999)に石坂まさを作詞・作曲30周年を記念して建立されていています。
藤圭子のデビュー曲の『新宿の女』は、西向天神(新宿6-21-1 東大久保村の鎮守)にあります。平成11年(1999)9月に建てられました。

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▼『圭子の夢は夜開く』は、花園神社(新宿5-17-3 新宿の総鎮守)の境内摂社「芸能浅間神社」にあります。3ヶ月後の9月に建てられました。

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▼西向天神社の歌碑『新宿の女』は、藤圭子のデビュー曲です。
なぜ西向天神社にあるかと言えば、デビュー時に『新宿の女』発売キャンペーンの出陣式を行った場所だったからということです。
歌碑の背面には建立の由来として「昭和44年(1969)9月25日『新宿の女』でこの西向天神社より2人の若者が旅立って行き、石坂まさを藤圭子の名は時代を刻み伝説として語られるようになった。心生舎」と記されています。
1970年に入って、藤圭子の大ブームが起こります。昭和45年(1970)年1月になってオリコン・チャートのトップ10に初登場します。
また、この年の藤圭子は2枚目のシングル「女のブルース」から5枚目「女は恋に生きてゆく」まで計4枚のシングルで、42週間連続のトップ10入りを記録しています。
『圭子の夢は夜開く』は昭和44年(1970)4月に発売され、前作の「女のブルース」の後を受けて10週間連続オリコン1位にランクされました。
花園神社の中の芸能浅間神社敷地内に建立されました。
芸能浅間神社は、花園神社内に富士塚があり、そこに祀られた浅間神社です。
1970年に入って、藤圭子の大ブームが起こります。昭和45年(1970)年1月になってオリコン・チャートのトップ10に初登場します。
また、この年の藤圭子は2枚目のシングル「女のブルース」から5枚目「女は恋に生きてゆく」まで計4枚のシングルで、42週間連続のトップ10入りを記録しています。
▼『圭子の夢は夜開く』は昭和44年(1970)4月に発売され、前作の「女のブルース」の後を受けて10週間連続オリコン1位にランクされました。
歌碑は花園神社の中の芸能浅間神社敷地内に建立されました。
芸能浅間神社は、花園神社内に富士塚が造られ、そこに祀られた神社です。
(そういえば、西向天神社にも富士塚があります)。
ご祭神は木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤヒメ)です。
花園神社は、もともと江戸の昔から芝居や舞踊の興行に縁が深かったため、演劇や歌曲など芸能関係の奉納が多いことで、芸能に特化して、芸能をかぶって「芸能浅間神社」としたのではないかと思います。そいうことでもあり『圭子の夢は夜開く』は、芸能浅間神社にふさわしいと考えられたのではないでしょうか。
歌碑の背面には発起人として石坂みき、榎本襄、海老名香葉子大下英治なかにし礼星野哲郎船村徹山上路夫等18人の氏名と協賛会社、協賛者が記載され、小田天界代表世話人と3人の幹事名が記されています。
前の東京オリンピックが終わり、60年代後半から70年代にかけて世情は、学園闘争、ベトナム戦争反対など若者を中心に騒然としていました。
当時学生だった私はノンポリでしたが、それでも心情的には全学共闘会議全共闘)に肩入れをしていました。
そんな時代の後半時に、藤圭子が登場したのです。
そのころ(今もですが)人気作家だった五木寛之が、藤圭子の歌は「演歌でもない、艶歌でもない、怨歌だ」と言いました。いよいよ藤圭子の歌に火がつきます。
♪バカだな、バカだな、だまされちゃって
♪15・16・17と、私の人生暗かった・・・・  ♪18・19・20と、私の人生暗かった・・・・歳を変えてよく口ずさみました。
花園神社では、60年代の最後のころ、この花園神社の境内で、唐十郎の状況劇団が紅テントを張って、芝居をしていました。それも見に行きました。近くの東映の映画館にやくざ映画を見によく行きました。オールナイト興業もありました。
そういう時代の中でしっかりと人の心をつかんで流れた歌でした。藤圭子のあの歌声は当時の若者の心根に深く響いたのです。
『圭子の夢は夜開く』には「新宿」は出てきません。ご当地ソングではないですが、当時の新宿の空気を十分感じさせます。新宿の歌だと思います。
<補記>
「平成25年(2013)8月22日午前7時頃、西新宿6丁目のマンション前の路上で、藤圭子が血を流して倒れているのを通行人が発見した。
頭部を強く打っており、心肺停止状態で病院に搬送され、間もなく死亡が確認された。新宿警察署によって飛び降り自殺と断定された。
「近年は表舞台から遠ざかっていた藤さん。平成25年(2013)3月、恩師の作詞家・石坂まさをが亡くなった際にも通夜・告別式には出席していなかった。8月23日には石坂まさをのお別れ会が行われる予定になっていたが、くしくもその前日に旅立った。」(当時の新聞記事などから)
まさに藤圭子は新宿の女(人)でした。