西條八十の童謡 ♪ 唄を忘れた金絲雀(かなりや)は 

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不忍池のほとり、弁天堂の近くにある「かなりや」の詩碑

上野公園の不忍池弁天堂の参道近くに西條 八十作詞の童謡「かなりや」の詩碑があります。
西條 八十は、明治25年(1892)牛込区牛込払方町(現在の新宿区払方町)で生まれました。実家は大久保周辺に土地を持つ大地主で、父は設計技師で石鹸の製造販売業で財を成なしますが、父親の死後家は没落して行きました。
八十(やそ)の名前は、本名で、両親は、苦しいことがないようにと、「苦」に通じる「九」を抜いた「八」と「十」を用いて命名したということです。
戦前から戦中・戦後・高度成長期まで約50年に渡り、童謡から流行歌まで幅広く作詞を手がけています。「東京行進曲」「東京音頭」「蘇州夜曲」「青い山脈」「越後獅子の歌」「この世の花」「王将」「絶唱」など、少し年輩ならだれでも知っている歌です。
早稲田大学仏文科教授を務め、批判もあったようですが、己の道を貫く「詩に貴賎はない」との信念で、大衆の心を癒やす詞を書き続けました。

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『赤い鳥』第1号

西條 八十の童謡「かなりあ」は、大正7年(1918)11月号の『赤い鳥』に掲載されました。それまで『赤い鳥』載っていた読むための童謡でなく、曲をつけて歌われるようになった最初の童謡です。「かなりや」は西條 八十の代表作のひとつに数えられています。(大正7年、最初に『赤い鳥』に掲載されたときは「かなりあ」でしたが、大正10年(1921)に赤い鳥社発行の西条八十童謡集『鸚鵡と時計』では「かなりや」に訂正されています。)
「かなりあ」が『赤い鳥』に掲載されることになったいきさつは、昭和23年(1948)刊行の西條八十の『あの夢この歌―唄の自叙伝』(小山書店)に書かれています。
兜町通いをやめて、出版屋の二階で雑誌「英語之日本」の編輯をやりながら、また好きな詩をノートに書き込んでいるわたしのところへ、或る朝、意外な客が訪れた。
その朝はちょうど店の小僧が出かけたあとで、わたしが代りにワイシャツにズボンという姿で店頭で註文の書籍の荷造りをしていた。そこへ色の黒い眼のするどい、髭のある小男が和服姿ではいって来て、「西條八十さんはおりますか」といって、小さな名刺を出した。それには鈴木三重吉と書いてあったので、わたしはびっくりした。
今では鈴木三重吉の名も小部分の人にしか記憶されていない。だが、当時漱石門下で、所謂ネオロマンティシズムの構想と、独得の粘りのある文体とをもって一世を風靡した小説家三重吉の名を知らない者はほとんどなかった。その有名人が無名の一青年を訪ねてきたのである。
わたしは店頭の椅子に招じて、用向きを訊ねた。
『新しい童謡をあなたに書いて頂きたいのです』
こういって三重吉氏は、今度自分が新しい童話童謡の雑誌『赤い鳥』を創刊したことから、童謡についての概念など熱心に説明された。わたしが、『とにかく書いてみましょう』 と、答えると、満足して帰っていかれた。」
西條 八十は、雑誌『赤い鳥』のために、まず『薔薇』という童謡を書き、次に「かなりや」を書きました。
「かなりや」のモティーフについても、西條 八十いろいろなところに書いています。

だいたいこんな感じです。
西條八十が12・3歳のころ、クリスマスには麹町にあった番町教会へ連れて行ってもらっていました。
「教会内にはクリスマスツリーが飾られ、堂内の電燈が残らず華やかにともされていた。ところが、天井のいちばんてっぺんのくぼみにあった電燈が、どういうわけかひとつだけ消えていた。翌年のクリスマスにきたときも、同じ電燈がひとつだけ消えていた。西條八十は、
『その球だけが楽しげなみんなの中で独り 継児(ままこ)扱いされているような、また多くの禽(とり)が賑やかに歌ひ交わしてゐ る間に、自分だけがふと歌ふべき唄を忘れた小鳥を見るやうな淋しい気持ちがしたのであっ た。」>
麹町のある教会というのは、明治19年(1886)に麹町中六番町(現四番町)に建設された「番町教会」だと思います。
関東大震災や大空襲などにより2度会堂と牧師館を失いましたが、平成30年(2018)に六番町に移転し、新しい建物が建っています。
写真は、現在の建物です。

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平成30年(2018)に移転して出来た六番町の「番町教会」

大正6年(1917)西條 八十は、神田神保町の建文館という出版社の2階に住むようになっていました。株で儲けた資金を以前から親しくしていた建文館に出資していたことから、月に25円の手当てをもらい、家賃はタダという条件で、重役になっていました。仕事は「英語の日本」という雑誌を編集することが中心でした。
大正7年(1918)5月からは、上野不忍池の側にあったアパート上野倶楽部の4階を仕事場にしていました。
『かなりや』はこのアパートで執筆されたことになっています。
その仕事場から、よく上野の山へ散歩にでかけていたようです。
東照宮の境内を歩いて、私はゆくりなく幼い日のさうしたデリカな記憶を呼び起 した。さうしてあの幅のひろい石階を下って上野倶楽部の自分の室へ戻るまでに、あの 『かなりや』の唄は半ば心のなかにまとまりかけてゐた。」と記しています。
昔の子どもころのクリスマスを思い出し、そこから「かなりや」の着想を得たのです。
「おもへばその頃の私自身こそ、実に『唄を忘れた金糸雀』でなくて何であったらう! 永い間私は自分の真実に生き行くべき途を外れ、徒らに岐路のみさまよひ歩いてゐた。商売の群に入り、挨ふかい巷に錙銖(ししゅ)の利を争ってゐた当時の自分にも、折には得意の時が無いでは無かったけれど、その心の底にふと自身が歌を忘れた詩人であることを思ひ出すと、いつもたまらず寂しかった。」
そうした縁で、不忍池のほとり、弁天堂のそばに詩碑が建設されました。(上野の山で着想を得たという説には、反対意見があります。)

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碑文は、西條八十の希望によって童謡の出だしの部分ではなく、最後の一聯が西條八十自身によるひらがなの字で記されています。
♪うたをわすれた かなりやは  ぞうげのふねに ぎんのかい  つきよのうみに うかべれば  わすれたうたを おもひだす 西條八十
と刻まれています。昭和35年(1960)4月3日に建立されました。
唄を忘れた自分自身の思い出を記念に残しておきたいという八十の気持ちが込められているということです。
ちなみに、作曲は成田為三です。成田為三の曲で、現在唄われる歌として「かなりや」と「赤い鳥小鳥」ぐらいしかないそうですが、日本における芸術的童謡作曲の始祖と言われています。

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西條八十は昭和45年(1970)8月12日、78歳で永眠しました。喉頭ガンでした。
8月15日の新聞に次のような死亡広告が出されました。
「私は今朝、永眠いたしました。長い間の皆様のご好誼に対し厚く御礼 申し上げます。 西條八十
詩人芸術院会員西條八十はこのようなご挨拶を遺して8月12日午前 4時30分自宅にて急性心不全のため逝去いたしました。
謹んで辱知 の皆様に御通知申し上げます。
               葬儀委員長 安藤 更生
               喪主    西條 八束
               女     三井 嫩子
西條八十は、生前「僕が死んだら絶対に告別式をしてくれるな。告別式くらいみんなに迷 惑をかけて、形式的なつまらないものはない。詩人は人生の香水であり、煙であり、霧で あるのだ。存在を明確にしては意味がない。」と言っていたとのことです。