与謝野鉄幹・晶子 麹町区の暮らしから。

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与謝野鉄幹 晶子 居住跡」の碑です。
大正4年(1915)与謝野鉄幹・晶子は、麹町区中六番町から麹町区富士見町へ転居しています。その前後のことを年表で拾ってみます。
明治32年(1899)(鉄幹26)11月~明治34年(1901)4月 麹町区上六番町45番地(千代田区三番町22付近)
明治33年(1900)与謝野鉄幹が『明星』を創刊。北原白秋吉井勇石川啄木などを見い出し、ロマン主義運動の中心的な役割を果たしました。しかし、当時無名の若手歌人であった鳳晶子(のち鉄幹夫人)との不倫が問題視されます。
明治34年(1991)(鉄幹28・晶子23)晶子は6月に実家を飛び出し、鉄幹を追いかけて上京。
結婚後、与謝野晶子は現在の渋谷の道玄坂あたりに住まいを移しています。
明治41年(1908)『明星』は第100号をもって廃刊になります。
明治43年(1910)8月~明治44年(1911)11月(鉄幹37・晶子32)麹町区中六番町3番地(千代田区四番町11付近)
明治44年(1911)11月~大正4年(1915)8月(鉄幹38・晶子33)麹町区中六番町7番地(千代田区四番町9付近)
『明星』廃刊後の鉄幹は極度の不振に陥っていました。明治44年(1911)鉄幹は、晶子の計らいでパリへ行きます。そして晶子も渡仏します。フランス国内からロンドン、ウィーン、ベルリンを歴訪しました。
しかし、創作活動が盛んとなったのは晶子の方で、鉄幹は依然不振を極めていました。
しだいに栄光に包まれて行くる妻の陰で苦悩に喘いでいたと言えます。
大正4年(1915)3月、鉄幹が第12回総選挙に故郷の京都府郡部選挙区から無所属で出馬して、落選します。
大正4年(1915)8月~昭和2年(1927)9月 (鉄幹42・晶子37)麹町区富士見町5丁目9番地(千代田区富士見町2-10)
大正8年(1919)鉄幹は、慶應義塾大学文学部教授に就任、昭和7年(1932)まで在任します。
大正10年(1921)建築家の西村伊作と、画家の石井柏亭そして鉄幹・晶子らとともにお茶の水駿河台に文化学院を創設します。男女平等教育を唱え、日本で最初の男女共学を成立させました。晶子はのち文化学院女学部長に就任します。

▼鉄幹と晶子は、結婚して6男6女と子だくさんに恵まれましたが、鉄幹の詩の売れ行きは悪くなる一方で、
鉄幹が大学教授の職につくまで夫の収入がまったくあてにならず、昌子は、孤軍奮闘しでした。
来る仕事はすべて引き受けなければ家計が成り立たず、歌集の原稿料を前払いしてもらったりしていました。
しかし、晶子は、そうした多忙なやりくりの間も、即興短歌の会を女たちとともに開いたりし、残した歌は5万首にも及びます。
源氏物語』の現代語訳『新新源氏』、詩作、評論活動とエネルギッシュな人生を送り、女性解放思想家としても巨大な足跡を残しました。
麹町区富士見町5丁目9番地へ
大正4年(1915) 8月 鉄幹と晶子は麹町区中六番町7番地から麹町区富士見町5丁目9番地に転居 しました。
転居の理由はわかりませんが、鉄幹が衆議院議員に立候補して落選し、また無口となり、見あたるような仕事もなく、家へ籠もりがちになっていたことが原因の一つであったことは確かだと思います。
晶子の方は、童話を書き、小説を書き、帰国後ぐっと増えた評論と、仕事の枠が広がっているのに比べて、鉄幹は大正8年に慶応義塾大学教授に就任するまで、表だったことが年譜に残されていません。
▼鉄幹・晶子が住んだ頃は、まだ飯田橋駅はなく 甲武線の「牛込停車場」でした。
甲武鉄道は新宿から都心へ向かう線路を徐々に延ばして行きました。
明治27年には牛込駅まで、28年に飯田町駅、37年にお茶の水駅、41年には昌平橋(現在の秋葉原付近)まで、
外濠・神田川沿いを走る鉄道線が延長されていったのです。
関東大震災の翌年の大正13年(1924)
関東大震災による東京の壊滅状態を目の前にして鉄幹と晶子は子供らの成長に合わせた住宅を整えるため、郊外への転居を決めました。
大正13年(1924)に子どもたち、昭和2年(1927)に鉄幹と晶子は、富士見町から井荻村(杉並区南荻窪)へ転居しました。そのころの「井荻村下荻窪」は、畑ばかりの土地でした。そこに晶子自らの設計した家を新築し、晩年を過ごしました。