六番町を東西に伸びる番町文人通り

f:id:ktuyama:20210316172150j:plain

番町文人通り

六番町を東西に伸びる番町文人通りは島崎藤村泉鏡花有島武郎菊池寛藤田嗣治など多くの文化人が住んだ歴史ある通りです。
現在では閑静な高級住宅街で、瀟洒な低層マンションがいくつも並び、その道沿いにはかつての文人たちに想いを馳せるパネルが貼ってあります。まず全体の案内板から。

f:id:ktuyama:20210316172253j:plain

番町文人通りの案内板より

その中のいくつかのパネルを見て行きます。

f:id:ktuyama:20210316172756j:plain

f:id:ktuyama:20210316172841j:plain

島崎藤村旧居跡

島崎藤村  明治5年(1872)ー昭和18年(1943)
明治学院を卒業した藤村は、明治24年(1891)に「女学雑誌」の翻訳の仕事をしたことをきっかけに、翌年秋から明治学院の教壇に立ち英語と英文学を教えるようになります。藤村20歳の時です。
そして、明治26年(1893)教え子の佐藤輔子に失恋し(輔子にはすでに婚約者がいました)、藤村は失意のうちに一時女学校を辞職します。翌年には再び教壇に復帰しますが、その熱の入らぬ授業は、生徒の相馬黒光をして「ああもう先生は燃え殻なのだもの」(相馬黒光「黙移」)といわしめました。想いを寄せた輔子を、藤村は『春』で勝子として登場させています。
時は移り、藤村は国際ペンクラブ大会に出席のためアルゼンチンへ渡り、帰路アメリカ、フランスをまわって、昭和12年(1937)1月に帰国すると、新居を六番町に移します。ペンクラブ大会に同行した有島生馬の熱心な誘いがあったのだろうと言われています。住まいから5分足らずのところにあった、かつての明治女学校跡を彼はどんな思いで歩いたのでしょうか。

f:id:ktuyama:20210316173000j:plain

有島邸のあった所の現在

<六番町の有島邸は、大正・昭和文学の梁山泊
有島武郎(作家) 有島生馬(画家) 里見弴(作家)

f:id:ktuyama:20210316173123j:plain

白樺派の作家として知られる有島武郎をはじめ、その弟の洋画家で作家でもあった有島生馬や作家・里見弴 などが育ったのが下六番町(現:六番町3)でした。
政府の役人から実業界に転じた彼らの父・有島武が明治29年(1896)に大きな長屋門がある広大な旗本屋敷を買い取ったのです。
有島武郎の死後は、有島兄弟たちが住む一方、広大な敷地の一部を作家・菊池寛が一時住み、文藝春秋社もここに置いていました。
画家の有島生馬、作家の は弟。妻安子は陸軍大将男爵神尾光臣の次女。長男は俳優の森雅之。指揮者で作曲家の山本直純は妹の孫です。
旗本屋敷の有島家の前には、泉鏡花の二軒長屋がありました。
『私が夏庭に出て、竜吐水で水をまきながら、先生の玄関先にもと思って、ちゅうちゅうやっていると、奥さんが格子窓から首を出して、あなた、座敷の中へ水が飛び込みますよ、と怒鳴られる近さである。』(『大東京繁昌記』山手編)と、お向かいの家に住んでいた有島生馬は書いています。
有島武郎(ありしま たけお) 明治11年(1878) ー大正12年( 1923)
学習院中等科卒業後、農学者を志して北海道の札幌農学校に進学、キリスト教の洗礼を受けます。明治36年(1903)に渡米。ハバフォード大学大学院、その後、ハーバード大学で歴史・経済学を学ぶ。(ハーバード大学は1年足らずで退学)。
帰国後、志賀直哉武者小路実篤らとともに同人「白樺」に参加します。1923年、軽井沢の別荘(浄月荘)で波多野秋子と心中しました。
菊池寛 明治21年( 1888)ー昭和23年(1948)
小説家・劇作家として活躍する一方、雑誌「文藝春秋」を創刊して文壇に君臨。一高時代の同級生であった芥川龍之介久米正雄らとともに第三次「新新潮」の同人となる。小説「忠直卿行状記」「恩讐の彼方に」や戯曲「父帰る」などを発表して新進作家としての地位を固める。またジャーナリスト的な視点から文藝春秋社を設立し、一大出版社に育て上げました。大正15年(1926)、有島邸の一部を自宅兼文藝春秋社としました。

f:id:ktuyama:20210316173450j:plain

泉鏡花旧居跡の近く現在の様子

f:id:ktuyama:20210316173701j:plain

泉鏡花(いずみ きょうか) 明治6年(1873)-昭和14年( 1939)
明治6年金沢市に生まれました。明治24年(1891)牛込の紅葉宅を訪ね、快く入門を許されて、その日から尾崎家での書生生活を始めます。
独特の文体で幻想的・神秘的な文学世界を構成しました
鏡花は、明治43年(1910)にそれまで住んでいた土手三番町から、
元旗本屋敷だった広大な有島邸の向かいの下六番町11の二軒長屋に転居し死去まで神楽坂の元芸妓桃太郎のすずとここで暮らしました。
年齢で言えば、37歳から66歳で歿するまでの29年間。二軒長屋の左側で過ごしました。
この家から『夜叉ヶ池』『天守物語』などの名作が生みだされ、すでに「婦系図」で人気を博していた彼のもとには、多くの作家たちが集まってきました。

f:id:ktuyama:20210316173757j:plain

明治女学校跡の現在の建物

f:id:ktuyama:20210316173905j:plain

●先進的な女性を育んだ明治女学校
明治18年(1885)、木村熊二夫妻によって飯田町に創立された明治女学校は、当時「女学雑誌」の編集人で熱血の人でもあった巌本善治が引き継ぎ、明治23年(1890)に麹町区下六番町6番地(現:六番町3)に移転してきました。
羽仁もと子相馬黒光、大塚楠緒子、清水柴琴、野上弥生子など、明治・大正・昭和に活躍する数多くの女性たちを育てたことで有名です。
当時は寄宿舎制度で、教員・生徒がこの地に住んでいました。
講師として、若き島崎藤村、北村透谷、星野天知、平田禿木戸川秋骨馬場孤蝶といった「文学界」の同人たちが、明治女学校の教壇に立ちました。
島崎藤村が教え子の佐藤輔子に失恋したのもここにあった明治女学校です。
明治29年(1896)火事に遭い校舎は焼失してしまいます。その後は巣鴨庚申塚に移転し、明治41年(1908)には、その輝かしい歴史を閉じることになります。

与謝野晶子・寛の旧居跡は、別の機会に入れます。