童謡『赤蜻蛉(あかとんぼ)』は三木露風の幼年期の思い出

 

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赤とんぼの碑

童謡『赤蜻蛉(あかとんぼ)』は三木露風作詩。山田耕作作曲です。
作曲の山田耕作をたたえての「赤とんぼ」の碑は、「からたちの花」の碑とともに秋川の西多摩霊園にあります。
作詩の三木露風をたたえての「赤とんぼ」の碑は、三鷹駅の南口を出て駅前の通りを150mほど進んだところにあります。
三木露風は、晩年を三鷹村牟礼、現在の三鷹市牟礼4丁目で過ごしています。
昭和39年(1964)三鷹市内で、交通事故にあい75歳で亡くなりました。

その死を追悼して「赤とんぼの碑」が建てられました。
(赤とんぼの碑は、露風の古里、兵庫県の龍野市にもあります)
三木露風は、播州龍野に生まれ、13歳ごろには『少国民』という雑誌に詩や散文を投句しており、俳句も作っています。
「あかとんぼとまってゐるよ竿の先」という俳句はそのころの作だということです。
16歳で上京。歌人で書家の尾上柴舟の結社にはいります。
18歳の時、早稲田大学に入学、21歳の時、慶応大学に転入学しますが、翌年退学しています。
そのころは、すでに詩人としての評価が高く、北原白秋とならび称されました。
26歳、函館の修道院を訪ね、30歳にはその修道院で講師もつとめました。
39歳で三鷹に住居を構え、以後生涯、三鷹で過ごしています。
「赤蜻蛉」は、大正10年(1921)8月号の『樫の実』に載せたものです。山田耕作によって作曲されたのは、昭和2年(1927)のことです。
「赤蜻蛉」は、じっくり味わうと悲しい詩です。
露風の父親は身持ちが悪く、母親は露風6歳の時、一人で鳥取の実家に帰ってしまいます。
「赤蜻蛉」の書き出しは、そのお母さんを偲ばせます。
茜色の夕焼けに染まった播州龍野の平野に、放蕩に身を持ち崩し帰ってこない夫を思いつつ幼い露風を背にした母の姿があります。
♪夕焼け、小焼けの、あかとんぼ、負われて見たのは、いつの日か
16歳の露風に短歌に、「われ七つ因幡に去ぬのおん母を又帰り来る母と思いし」
母がいなくなった露風のところに、龍野の近くの宍粟郡から姐(ねえ)やが来ました。
母が去った後、女姉妹もいない露風をかわいがってくれました。
しかし、その姐やも15歳で嫁に行って、たよりもなくなります。
♪15で、姐やは、嫁に行き、お里のたよりも、たえはてた。
そして、最後、昔作った自分の俳句で締めくくっています。
♪夕やけ、小やけの、赤とんぼ。とまってゐるよ、竿の先。
幼少年期のつらい思い出を、山田耕作は暖かなメロディーで包んでいます。

赤とんぼの碑の下方にある三木露風自筆の歌詞のレリーフです。

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赤とんぼの碑の下にある三木露風自筆の歌詞のレリーフ

*背負っているのはお母さんか、子守りの姐やか。文学者や童謡研究家などを巻き込んで長く論争が続いていましたが、「歌は受け取る人の心の問題。日本人の多くは母の背中で赤とんぼを見たとイメージしており、その心地よさが愛唱歌になったと考えたい」ということで、お母さんで落ち着いています。