新宿から移って来た芝公園の梅「銀世界」。

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芝公園の「銀世界」の梅

西新宿・超高層ビル群の初台寄りに、都庁と同じく丹下健三設計の新宿パークタワー(52階)が建っています。
江戸時代から明治にかけて、ここには『梅屋敷銀世界』と名付けられた梅園がありました。園内は広く、梅が林をなし「将軍御目留の梅」「御腰掛の松」などといわれる銘木もあったようです。
江戸時代、この地域は、江戸市内から日帰りで清遊するのに適当な距離でした。
江戸時代後期、日本橋本町御影堂が所有していて、屋敷守が手作りした「梅漬」が人気だったという話も伝わっています。
当時の様子を知るには、2代目歌川広重が、慶応3年(1867)に『梅屋敷銀世界』を描いた「絵本江戸土産第10編 『四谷新町』があります。

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絵には、天保3年(1833)琉球人棟応昌が書いた「銀世界」の石碑が、大きく描かれています。(山は何なのかなと思います)。

梅園の持ち主はいといろ変わりましたが、明治にかけて、多くの人が梅見に訪れていたようです。
明治の30年代に、この梅園のすぐ近くに「淀橋浄水場」が建設されます。
作家、田山花袋は青年時代、現在のワシントンホテルから都庁にかけてあった旧館林藩角筈抱屋敷の屋敷守をしていた義兄を頻繁に訪れていて、その浄水場が建設される様子を『時は過ぎ行く』に書いていますが、梅のことも出ています。
「梅が白く垣根に咲く時分には、近くにある名高い郊外の梅園に大勢東京から人が尋ねて来た。瓢箪などを持って来て、日当たりの好い芝生で、酒を酌んだりなどする人達もあった。梅の多い奥の邸に間違えて入って来て、『や、ここは銀世界じゃないのか。それでも梅が沢山あるじゃないか』など言って、門の中から引き返して行くものなどもあった。」
明治30年代も、この地域の梅園は人気があったようです。
しかし、明治44年(1911)、この土地が、東京ガス株式会社淀橋供給所の所有となり、その場所にガスタンクが建設されることが決まります。
そのため『梅屋敷銀世界』は、明治44年(1911)に芝公園の16号地グランドの西側に移植されます。
梅屋敷内にあった琉球の棟応昌の筆の「銀世界」の石碑も一緒に移動しています。
さらに、道路拡張にともない、再び、昭和41年(1961)に 現在の芝公園1号地に移されました。

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淀橋浄水場とガスタンク

新宿のガスタンクについては、住民の反対運動もありましたが、明治45年(1912)5月、容積約300万立方尺のガスタンクが竣工しています。
戦後、昭和40年(1965)に浄水場は廃止され、高層ビルの立ち並ぶ都心と大変貌を遂げます。併せてガスタンクも取り壊され、その跡に52階の超高層ビル新宿パークタワー」が建設されたのです。

その一角に「銀世界稲荷神社」があります。その参道に、芝公園から梅の木が里帰りで移植されています。

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銀世界稲荷の梅の花

以下は、芝公園の「銀世界」の梅林です。東京タワーをバックに梅の花が綺麗です。

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銀世界の梅と東京タワー

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新宿から梅と共に移った<「銀世界」の石碑>

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水仙も咲いていた

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「銀世界」は白い花からのイメージ

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東照宮への階段にある「銀世界」の案内板