「まねき猫」のモデルと言われた猫の石像がある西方寺
高尾太夫の墓の前の腕が欠けてしまっている猫は、高尾太夫でなく、同じ吉原の三浦屋の薄雲太夫ゆかりのものです。
薄雲太夫は「玉」と名付けた三毛猫をとっても可愛がっていて、いつも行動をともにしていました。
花魁道中にもその玉を連れて行くほどで、周りからは猫に取りつかれたのでは、とささやかれるほどでした。
ある日、薄雲太夫が厠に入ろうとすると玉が着物の裾を噛んで離しません。
楼主の治郎衛門がそれを見かねて、短刀を抜き、玉の首を切り落しました。
玉の首は厠の下溜めへと飛び、潜んでいた大蛇を噛んでいました。
玉は、薄雲太夫を蛇から守ろうとしていたのですね。
薄雲太夫は自分を守ろうとした猫を死なせてしまったことを悔い、深く悲しみ、西方寺に猫塚を祀りました。
また、長崎から取り寄せた伽羅の銘木で「玉」の姿を刻んだものを作ってもらいました。(これには、馴染み客が、玉の像を彫らせて贈ったという説もあります)。
木彫りの猫は大変評判になりました。
その姿が左手を挙げて、人を呼んでいるような格好だったことで、「まねき猫」の発祥だと言われるようになります。
薄雲太夫は木彫像をとても大切にし、太夫の死後は、西方寺に寄進しました。
しかし、西方寺寺は江戸時代末期に火災で全焼し、その像も焼失してしまっています。
いつごろからなのかわかりませんが、玉の像を石で造って、西方寺の右門の上に鎮座されていました。
そのこともあって、浅草の今戸焼き、世田谷の彦根藩井伊家の菩提樹・豪徳寺、新宿落合の自性院などと共に「まねき猫」の発祥として、西方寺もあがっていました。
これもいつ頃なのかはっきりしませんが、その猫の像は、門の上にいなくなり、そっと高尾太夫の墓の前に置かれていました。
傷みが激しく、大事な左手は欠けています。頭も、陥没したようですが、かろうじて修復されています。
高尾の墓を守るように鎮座しています。
もともとは、薄雲太夫がかわいがっていた猫、玉の像なのです。