駒形堂 、浅草寺のご本尊・聖観世音菩薩が、はじめて奉安された地に建つお堂。

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浅草寺の縁起絵巻のひとこまです。檜前浜成(ひのくまのはまなり)、竹成(たけなり)兄弟が、ご本尊を感得するの場面です。
推古天皇36年(628)の)3月18日のことです。
宮戸川(今の隅田川)のほとりに住む檜前浜成、竹成兄弟が、朝早くから漁をしていると、投網の中に一躰の像がかかりました。
仏像のことはよく知らなかった檜前兄弟は、像を水中に投じ、場所を変えて何度か網を打ちました。しかしそのたびにその像が網にかかるばかりで、魚は捕れませんでした。檜前兄弟はこの像を持ち帰りました。
▼江戸名所図会の絵です。

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檜前兄弟は、その像を土師中知((はじのなかとも)という土地の長に見てもらいました。すると、聖観世音菩薩の尊像であるとわかりました。
翌19日の朝、里の童子たちが草でつくったお堂に、この観音さまをお祀りしました。このお堂が駒形堂の原形です。
▼「江戸名所図会」の絵です。

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そして、土師中知は「御名を称えて一心に願い事をすれば、必ず功徳をお授けくださる仏さまである」と、人びとに語り聞かせました。
やがて私宅を寺に改め、観音さまの礼拝供養に生涯を捧げることになります。この私邸が、現在の浅草寺になるわけです。
浅草寺に伝わる縁起には、「観音さま示現の日、一夜にして辺りに千株ほどの松が生じ、3日を過ぎると天から金の鱗をもつ龍が松林の中にくだったと記されています。この瑞祥が、後につけられた浅草寺山号「金龍山」の由来です。現在、浅草寺寺舞として奉演されている「金龍の舞」も、これに因みます」。

きちんとした駒形堂のお堂は天慶5年(942)平安中期の武将、平公雅(たいらのきんまさ)によって建立され、円仁作の馬頭観音を祀るために建てられたのが起こりであると伝わります。
なお土地の人々によれば、駒形の読み方はコマカタと清く発音してコマガタとは濁らないということです。
ここは古来交通の要地で、駒形の渡しのあったところで、船宿もあり大変な賑わいをみせ、船で浅草寺参詣に訪れた人々は、まずこの地に上陸して駒形堂をお参りして、観音堂へと向かいました。
▼「江戸名所図会」の駒形堂の出ている場面です。

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浮世絵で、江戸時代の駒形の様子をみてみましょう。

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歌川広重『名所江戸百景 駒形堂吾妻橋

『名所江戸百景』(めいしょえどひゃっけい)は、浮世絵師・歌川広重が幕末の1856(安政3)年〜1858(安政5)年にかけて制作した連作浮世絵名所絵です。当時駒形堂一帯には材木屋が並び、材木町と呼ばれていました。絵の右隅には、立てかけて貯木された木材が描かれています。
赤い旗は、吉原の遊女の土産でも人気だった紅や白粉を売る店です。
左下に描かれたのが駒形堂です。
この時代は、まだ駒形橋はなく、吉原通いの人はここから舟で隅田川(大川)を上流へと遡りました。
絵の上方で飛んでるのはホトトギスです。高尾太夫伊達綱宗宛ての手紙に書いた高尾太夫の句「君はいま 駒形あたり ほととぎす」にちなんでいます。

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一勇斎国芳歌川国芳)『駒形の朝霧』

1843(天保14)~1847(弘化4)年頃の様子です。
近辺の料理屋の女将たちが浅草寺に朝参りに向かうところです。女将を先頭に、子供を背負った奉公人、娘と続きます。
背後の駕籠(かご)の列は、吉原(遊郭)からの朝帰りの客をのせていると推測できます。駒形堂がシルエットで描かれています。

駒形(こまかた)の地名の由来は、「駒形堂に由来する」と言われますが、その説として次のようなものがあります。
馬頭観音菩薩を納めた駒形堂があることに由来する。
浅草寺の門前に駒形堂というお堂があったことに由来する。駒形の「駒」とは「将棋の駒」のこと。
・同じく、駒形堂があったことに由来する。駒形の駒は馬のこと。
隅田川を走る船からみると、白駒が駆けているように見えたことから「駒駆け」といいいい、「駒形」となったという。
・堂に絵馬をかけたので、「駒掛け」と称し、それが「駒形」になったという説もある。ということです。

現在の駒形堂

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現在の駒形堂

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お隣の「浅草むぎとろ」のお店から見た駒形堂。駒形橋が見える。

現在のお堂は平成15年(2003)に再建されました。
堂宇の正面ははじめ川側に向いていましたが、時代とともに現在のように川を背にするようになりました。
縁日は毎月19日で、ご本尊が開扉されて法要が営まれます。

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左が「戒殺碑」

境内に付近の魚類の殺生を禁じた「戒殺碑(かいさつひ)」があります。
元禄5年(1692)生類憐みの令で知られる五代将軍綱吉の時代に、浅草寺本尊が現れた霊地を禁漁にしました。
駒形堂を中心に、南は諏訪町(台東区駒形)から北は聖天岸(同区浅草7丁目)までの十町ほどの川筋です
駒形堂はたびたび火災にもあっていて、「戒殺碑」はかなり痛んでいます。

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駒形橋と隅田川