2代目高尾太夫の墓がある、西巣鴨の西方寺

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西方寺の門を入ると、

西方寺は白山通り、都営三田線西巣鴨駅の近くに(豊島区西巣鴨4-8-43)あります。
浄土宗のお寺で、元和8年(1622)浅草聖天町に建立されました。吉原の近くで、三ノ輪の浄閑寺ともに遊女の投込み寺でもありました。
関東大震災で焼け、昭和2年(1927)現豊島区巣鴨に移転して来ました。
門を入ると、静か雰囲気で、すてきな石造物も飾られ、茶室もあります。
墓地に入り奥に進むと、2代目高尾太夫(万治高尾とも仙台高尾とも呼ばれる)の墓があります。

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2代目高尾太夫の墓 全景

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銅製のの灯籠

●銅製の灯籠
墓の手前に立つ銅製の灯篭に「投げ込み寺」とあります。元は浅草日本堤にあって、三ノ輪の浄閑寺と共に遊女の投込み寺として知られていたことを現しています。灯籠には「待乳山」、「土手道哲」、「山谷堀」、「今戸橋」、「土手八丁」などの文字も見られます。それぞれかつて日本堤にあった頃の名残です。

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           切り絵図「日本堤」右中央に西方寺も出ています。

「山谷堀」は暗渠になってしまいました。「土手八丁」とは吉原大門前の吉原土手の別称でその道を土手通りといい、土手がなくなった今でもその名称は残っています。「土手道哲」は、その土手で念仏を唱えながら見送っていた和尚「道哲道心」のことです。道哲は、西方寺の開基だったと言われます。

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        土手の道哲庵図 延宝6年(1678)板菱川絵本の図より
灯籠の後ろは「高尾太夫」の墓です。
●2代目高尾太夫仙台藩主・伊達綱宗
2代目高尾太夫は、仙台藩主・伊達綱宗の意に従わなかったため、隅田川三つ又の船中で逆さ吊りに惨殺されたと伝わります。

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綱宗は、三浦屋の高尾太夫に入れ込みますが、高尾は西方寺の開基といわれる僧道哲と恋に落ちていたことから、綱宗のどんな誘いにも靡きませんでした。激怒した綱宗は高尾を隅田川で斬り殺したとか。(綱宗は、21歳にして隠居させられ、その後を継いだのが2歳の長男綱村で、これを切っ掛けに「伊達騒動」が幕を開けます)。
しかし、高尾太夫が「きみはいま駒形あたり時鳥」という句を作っていて、この句は、綱宗のことで、2人の仲はむつまじかったという説もああります。ほかにも、旗本の島田利直と、伊達とが争い、高雄太夫は島田を選んだとか、尼となってこの西方寺に庵を結んで念仏三昧に過ごして、「道哲道心」と恋仲になったとか、諸説あります。
*なお、高尾太夫は吉原の三浦屋に伝わる大名跡で、6代説・7代説・9代説・11代説があります。
伊達綱宗のことが気になるので、三田村鳶魚伊達綱宗について書いたものを引用しておきます。
「仙台侯伊達綱宗が、伽羅の下駄を履いて吉原へ通ったとか、落籍した高尾を中州の三叉で堤げ切りにしたとか、盛んに訛伝(かでん)されたので、大名の傾城狂いの第一人者のように言われているが、延宝(1673-81)度に、遊女の腹から出た大名が23人ある(「長崎土産」)、といわれたのでも、大名の太夫買い、廓通いが仙台侯だけでないのが知れよう。陸奥守綱宗が、御茶の水開鑿の幕命によって工事を始めたのは、万治3年2月10日からで、牛込から和泉橋までの間を疎通するために、毎日6200人の人夫を使用した。在国であった綱宗が出府して自身で現場へ監督に出かけたのは6月1日からで、隠居させられたのは7月18日なのだ。綱宗は御茶の水への往復に吉原で遊んだ。この時は新吉原で、現在の場所なのに、仙台家の江戸屋敷は、今の新橋停車場のところにあったのだから、この間を往復されるのには、道寄りとか通りがかりとかでないのは明白である。年の若い仙台様は多数な人夫で盛んに工事を運ぶ、その景気に浮かれたのであろう。三浦屋の高尾を敵娼(あいかた)にしたと云うのは間違いで、京町高島屋のかおるを買い、それを落籍したと伝えたほうが事実らしい。」(江戸の花街  鳶魚江戸文庫13)
伊達綱宗は、お茶の水あたりの外濠を造っていたのです。

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2代目高尾太夫の墓です。

●2代目高尾太夫の墓
ここの墓は、万治3年(1660)に高尾太夫が死んだと伝えられ、吉原三浦屋の傾城2代目高尾(万治3年没)の墓の表示があります。
元の浅草聖天町高尾の墓でしょうが、目印に紅葉が植えられていたそうで、高尾は紅葉とよばれていたようです。(江戸砂子)

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2代目高尾太夫 お地蔵様の墓標

お地蔵さんの墓標があります。剥落が激しいです。顔もよくわかりません。

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高尾太夫の墓標の顔の部分

「碑面に地蔵を彫る。上に紅葉の紋あり。右に転誉妙身信女。万治三庚子年十二月二十五。左に辞世の句、「寒風にもろくもつくる紅葉哉」とあり、墓の後ろに紅葉の木あり。高尾の紅葉と云う。今のは若木なり。」とあります。
今はまったくこうした文字は見えません。紅葉もないです(たぶん)。

明治の浮世絵ですが、月岡芳年のきれいな高尾太夫の姿の絵をお借りします。

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月岡芳年『月百姿』「君は今駒かたあたりほとゝきす」

▼東浅草の春慶院(台東区東浅草2丁目14番1)にも2代高尾の墓とされるものがあります。
▼また、隅田川の三つ又で吊り斬りにされた高尾の死体は北新堀河岸に漂着したということで、神霊高尾大明神として祀り高尾稲荷社(中央区日本橋箱崎町10-7)があります。こちらも元の場所から移動はしているようです。
「江戸鹿子」、「江戸砂子」などはこの西方寺にある墓が真実の墓だとし、太田南畝・山東京伝などは山谷の春慶寺が正しいと言っています。

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高尾太夫に左に道哲の墓標。並んでいます。

●「道哲道心」
道哲の父は彦根藩江戸詰の硬骨の士でした。家老の悪事を殿に注進したのが仇になり、切腹させられました。息子の道哲は浪人して再起の機会を狙っていましたが、彦根藩主が高尾太夫に惚れて日参していることを聞き、三浦屋に忍び込み、殿に直諫したとも言われます。その後、道哲は武士であることがいやになり、僧となって日本堤に草庵を営なみました。
西方寺の開山にいては、「小塚原の刑場に引かれていく囚人を日本堤の土手で念仏を唱えながら見送っていた和尚“道哲道心”が開基したとお寺」という説があります。
道哲は信心深く、人情に厚く、ことに遊女が死んだあとで浄閑寺などに投げ込まれることを哀れみ、発見しだい、ねんごろに埋葬してやったと言われます。
高尾太夫は道哲の人情の厚いことに感激し、やがては恋に落ちたとも伝えられています。
そして、「死んだら道哲さまのおそばに埋めてほしい」と息を引き取ったという話が伝わっていました。

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端正な道哲の墓標の地蔵像

西方寺が巣鴨に移されるとき、道哲の墓を掘ってみると、墓穴から2つの骨壷が発見されました。1壺は道哲道心、もう1壺は2代目高尾の遺骨であろうと言われました。
▼墓の前の猫の石像については別稿にします。