『東京行進曲』と『東京ラプソディ』で見る、戦前の東京の盛り場・繁華街

また、昔の本になりますが、多田道太郎の本に『風俗学』(昭和53年・筑摩書房発行)があります。
そこに「盛り場低佪」という章があり、東京の盛り場はどこか考察されています。
戦前の盛り場としては、浅草、銀座、新宿があげられています。
戦後はそれに、六本木、原宿、渋谷、下北沢、吉祥寺が加わるということです。
浅草は、「活気」で現され、門前のにぎわいの自然延長であるとされます。
銀座は、「計画」。西洋文化の計画的輸入であったと。
新宿は、交通の要衝で、ターミナル文化の先駆と記されています。
「宿場町ということで、自然と色気がともない、内藤新宿の賑わいとなった。色とターミナル、これが新宿の性格をきめる」
浅草、銀座、新宿が、戦前の盛り場として、賑わいがあり、その性格がどうであったか、よく解る分析だと思っています。
これも、「東京行進曲」と「東京ラプソディ」という歌で、探ってみたいと思います。

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『東京行進曲』 作詞:西條八十、作曲:中山晋平、唄:佐藤千夜子

まず、昭和4年(1929)の「東京行進曲」。
作詞:西條八十、作曲:中山晋平、唄:佐藤千夜子
1 昔恋しい 銀座の柳
  仇(あだ)な年増(としま)を 誰が知ろ
  ジャズで踊って リキュルで更けて
  明けりゃ ダンサーの涙雨
2 恋の丸ビル あの窓あたり
  泣いて文(ふみ)書く 人もある
  ラッシュアワーに 拾った薔薇を
  せめてあの娘(こ)の 思い出に
3 ひろい東京 恋ゆえ狭い
  粋な浅草 忍び逢い
  あなた地下鉄 わたしはバスよ
  恋のストップ ままならぬ
4 シネマ見ましょか お茶のみましょか
  いっそ小田急で 逃げましょか
  かわる新宿 あの武蔵野の
  月もデパートの 屋根に出る

「東京行進曲」は、昭和4年(1929)制作の日活映画『東京行進曲』の主題歌でした。
この歌がわが国における映画主題歌の第一号とということになっています。
映画は菊池寛の小説が原作で、若き日の溝口健二が監督し、夏川静江・小杉勇が主演しました。
1番は銀座、2番はビジネスの中心地・丸の内にが出て来ています・3番は浅草、4番は当時まだ新開地の新宿が舞台です
「繁華街」ということで、昭和初期の東京のようすがよくわかる構成になっています。
先に述べた「盛り場」ということで言えば、丸の内は入らないでしょう。
1番の銀座に、♪昔恋しい銀座の柳♪とあります。銀座の並木は、当初柳がありましたが、イチョウに切り替えられ、この歌より6年前の関東大震災で壊滅状態となり、この歌の当時はプラタナスになっていました。
しかし、この曲の大ヒットで<銀座に柳を復活させよう>の気運が盛り上がり、銀座に柳が復活しました。

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昭和の初めの銀座。柳があります。向こう見えるのは、和光の時計台。

後に作詞作曲も同じメンバーで「銀座の柳」が作られてもいます。
銀座の柳も東京大空襲などで壊滅し、少し残っているだけになっています。
2番は丸の内です。丸の内は江戸時代には、譜代大名上屋敷がありましたが、明治に、陸軍用地などが設けられました。
陸軍用地は、明治23年(1890)に三菱に払い下げられ、三菱はそこに21棟に及ぶ赤煉瓦のビジネスビルを建てました。

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丸の内 一丁ロンドンの街並

以来、丸の内は、ビジネス界の中心地であり続けています。
「丸の内ビルヂング」通称「丸ビル」ができたのは、大正12年(1923)のことでした。
3番は大衆娯楽のセンター・浅草です。昭和2年(1927)の12月30日に、上野-浅草間に、現在の東京メトロ銀座線の一部となる日本初の地下鉄が完成しています。

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浅草地下鉄ビル

4番の「いっそ小田急(おだきゅ)で逃げましょか」
もうこの頃では、東京では小田急以外にも東急、西武鉄道が私鉄近郊線として走っていましたが、この「東京行進曲」がヒットしたことで、この歌詞から「小田急(おだきゅ)る」という言葉が当時流行ったそうです。
ところがこの歌が発表された時、「小田原急行鉄道」の重役がレコード会社に「『東京行進曲』の製作責任者を出せ!」と怒鳴り込んできたそうです。
当時小田急はまだ通称で、小田原急行鉄道」が社名であったため、略された上に「駆け落ち電車」とは何事だ、ということです。
その後、社名は「小田急電鉄」に改称されます。それは、「東京行進曲」が<会社の宣伝になった>ということで、西條八十小田急電鉄から終身有効の「優待乗車証」が支給されたそうです。
なお、このフレーズ、当初は「長い髪してマルクスボーイ今日も抱える『赤い恋』」だったそうですが、当局を刺激してはまずいと言う配慮から、小田急に変更したという経緯があったのだそうです。

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小田急線の路線図

新宿駅は、近郊と結びつく私鉄の小田急西武、京王、小田急などのターミナルになり、乗降客集、世界1の駅になります。

そして、歌詞には、「シネマ」「お茶」「デパート」なども出ています。

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新宿に最初にできた百貨店「ほていや」とその隣りに建設される「伊勢丹


新宿の賑わいは、この歌のおかげだったとも言われています。

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『東京ラプソディ』 作詞:門田ゆたか、作曲:古賀政男、唄:藤山一郎

次は、昭和11年(1936)のヒット曲「東京ラプソディ」
作詞:門田ゆたか、作曲:古賀政男、唄:藤山一郎
1 花咲き 花散る宵も
  銀座の柳の下で
  待つは君ひとり 君ひとり
  逢えば行く ティールーム
  楽し都 恋の都
  夢のパラダイスよ 花の東京
2 現(うつつ)に夢見る君の
  神田は想い出の街
  いまもこの胸に この胸に
  ニコライの 鐘も鳴る
  楽し都 恋の都
  夢のパラダイスよ 花の東京
3 明けても暮れても歌う
  ジャズの浅草行けば
  恋の踊り子の 踊り子の
  ほくろさえ 忘られぬ
  楽し都 恋の都
  夢のパラダイスよ 花の東京
4 夜更けにひととき寄せて
  なまめく新宿駅
  あの娘(こ)はダンサーか ダンサーか
  気にかかる あの指輪
  楽し都 恋の都
  夢のパラダイスよ 花の東京
5 花咲く都に住んで
  変わらぬ誓いを交わす
  変わる東京の 屋根の下
  咲く花も 赤い薔薇
  楽し都 恋の都
  夢のパラダイスよ 花の東京
  楽し都 恋の都
  夢のパラダイスよ 花の東京

歌詞では、銀座、神田、浅草、新宿が取り上げられています。
1番の歌詞では、「銀座の柳の下で…逢えば行く喫茶店ティールーム)」と歌われている。同曲が発表された1936年(昭和11年)当時、喫茶店の形態としては、飲食と共にウェイトレスの接待サービスを主体にした「カフェー」と、あくまでコーヒーや軽食を主体とした「純喫茶」の二つが存在していた。『東京ラプソディ』の歌詞にある「喫茶店」は、この後者の純喫茶の方です。
2番は、神田ですね。思い出の街は、学校でしょうか。ニコライ堂が出てきます。
3番の歌詞では、「明けても 暮れても 歌う ジャズの浅草行けば」と歌われています。浅草は、東京におけるジャズ発展に大きな役割を果たしてきました。

戦前の日本におけるジャズの歴史としては、すでに大正時代の横浜や神戸を中心に、ジャズ演奏が行われていましたが、大正天皇崩御をきっかけに一部のバンドが東京へ移って行きました。
昭和初期に、浅草電気館でジャズ演奏が行われたのが、東京ジャズ史の始まりと言われます。以後、ジャズと浅草は深く結びつき、ジャズコンテストなどが開催されるなど、ジャズの街として広く親しまれていました。
そして「東京ラプソディ」は、5番「楽しい都 恋の都 夢の楽園よ 華の東京」と締めくくられています。
「ラプソディ」とは、「狂詩曲(きょうしきょく)」とも訳される音楽スタイルの一つです。特にクラシック音楽などで、自由な楽想で民族的・叙事的な内容を表現した楽曲を意味しています。
昭和の初め、東京の賑わい、は今よりかなり東にあり、銀座や浅草、神田が繁華街の代表格で、新宿が新興の盛り場として活況を呈し始めたところでした。渋谷や池袋は、まだほとんど郊外といった感じで、流行歌の対象にならず、ようやく歌に歌われるようになったのは、昭和30年代に入ってからです。昭和31年に出た、作詞:佐伯 孝夫 作曲:吉田正 の「東京の人」には、「銀座」、「日比谷」「墨田川」「新宿」「浅草」と「渋谷」「池袋」の名前が出てきます。