麹町の藤田嗣治(旧居)と佐伯祐三(墓)

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麹町六丁目 安政3年(1856)の古地図

江戸時代の古地図で言えば、四谷見附から麹町に入るとすぐ左に、成瀬隼人正の上屋敷があります。
現在で言えば、四ッ谷駅の麹町口を出て、道を渡るとすぐ、ということになります。
成瀬隼人正は、代々尾張徳川家の付家老職で、犬山藩の藩主でした。
付家老(つけがろう)とは大名級の徳川譜代の家臣を徳川御三家だけに家老として配した役職です。
心法寺との間の道は、古地図には出ていませんが、成瀬横丁と呼ばれていました。
その成瀬横丁から麹町七丁目横丁にかけて、明治から大正、昭和にかけて多くの文人が住んでいたので、
千代田区は「六番町文人通り」と名付けています。

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藤田嗣治旧居跡の碑

▼旧成瀬横丁の成瀬家の屋敷跡の所に藤田嗣治旧居跡の碑があります。
藤田嗣治(ふじたつぐはる、1886年11月27日 – 1968年1月29日)は東京市牛込区に4人兄弟の末っ子として誕生しました。
藤田嗣治は、フランスで活躍し、油彩画に日本画の技法を取り入れた独自の「乳白色の肌」を用いた裸婦像を描き、西洋画壇に脚光を浴びていました。昭和14年(1939)第二次世界大戦が勃発したため日本に帰国しました。そして、昭和15年(1939)から昭和19年(1944)、この六番町13に住んでいました。

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「六番町文人通り」「心法寺」の屋根の右側、樹木があるあたりが藤田嗣治旧居跡です。

なお、藤田嗣治は、昭和10年(1935)に25歳年下の君代と出会い、一目惚れして翌年5度目の結婚をして、終生連れ添っています。
ここの屋敷から従軍画家として戦地へ行き、戦争記録画を精力的に描きましました。
そのため、終戦後、日本美術界は画家としての戦争責任を藤田一人に負わせようとしました。
昭和24年(1949)、藤田は責任をとるかのようにアメリカ経由でフランスへ移住し、二度と日本へ戻ることはありませんでした。

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藤田嗣治の『私の画室』

藤田嗣治は、麹町区下六番町に建てたアトリエ兼住居の室内を描いた作品があるということなのですが、この作品『私の画室』かなと思います。
今は、藤田嗣治旧居跡の碑がたつばかりです。
▼その藤田嗣治が暮らした六番町の家の前は、塀を隔てて「心法寺」という浄土宗のお寺があります。

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「常栄山心法寺」本堂

「心法寺」は、三河国の秦宝寺から天正18年(1590)に徳川家康といっしょに江戸に来た然翁聖山和尚が創始者ということです。
そして、寛永年間に江戸城拡張工事のため、麹町の数多くの神社仏閣が、外堀の外に移転した中において、心法寺は、麹町に留まり、現在に至っています。したがって、千代田区内で最も古い寺で、かつ唯一墓地があるお寺なのです
実は、その心法寺に、佐伯祐三家の墓があります。墓石には佐伯祐三、米子、彌智子の名前が刻まれています。

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佐伯祐三一家の墓

佐伯祐三は、昭和3年(1928)8月16日の死亡しました。娘の彌智子は後を追うようにその8月30日病死します。
祐三と彌智子の遺骨を抱いた米子未亡人は、昭和3年(1928)10月31日朝、郵船・北野丸で神戸港に帰ってきました。
そして、11月5日、祐三と彌智子の本葬は、佐伯祐三の大阪の生家、浄土真宗本願寺派名刹「光徳寺」で営まれます。
祐三の法名は巌精院釈祐三で、彌智子は明星院釈尼祐智でした。
麹町のお寺にどうして佐伯祐三の家族の墓があるのか、理由はわかりませんが、ここにお墓があることは、あまり知られていないと思います。
墓のある案内もありませんし、墓地まで入るのも気が引けます。
一度、お参りしたことがあり、写真はその時のものです。
フランスで活躍し、日本でも人気の高い藤田嗣治佐伯祐三がこのような近くで縁があるとは不思議です。

亀戸天神社の「おいぬさま」

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亀戸天神社にある「おいぬさま」

亀戸天神社御嶽神社の裏、亀ヶ井の碑があるところの右に、塩にまみれた「おいぬさま」を祀る小祠があります。案内はないですが、この「おいぬさま」に塩をかけて祈願すると祈願成就するということです。
塩をつけるのは、お地蔵さんによくあります。「塩地蔵」です。お地蔵さんの場合は、自分の痛いところをお地蔵さんの場所で、塩を付けたりします。また、お地蔵さんに供えられている塩をひとつまみいただいて、痛いところに塗って清め、痛みが取れたら、塩を倍返して供えたりします。また、治したい箇所を塩で清めるのではなく、お地蔵さんに紙つぶてのように塩を投げつけて、痛みは地蔵様が代わって病んでもらうとか、いろいろな対応があります。
この「おいぬさま」はどうなのかなと思います。人間の姿ではないので、痛い箇所に塗るのは難しいかもしれません。おそらく塩をお供えして「病気治癒」「商売繁盛」などをお祈りするのでしょう。
とにかく「塩おいぬさま」は珍しいです。
由緒については、はっきりしませんが、亀戸天神社境内摂末社「妙義社(御嶽社)」にあった狛犬が、大正12年(1923)の関東大震災か昭和20年(1945)の空襲で震災とか戦災にあって破損し、片方だけになって、境内の隅に置かれていて、それがいつのまにか「おいぬさま」信仰に結びついたのではないかと想像されています。

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天保9年(1838)発行の『東都歳時記』「卯の日・亀戸妙義参り」の妙義社(御嶽社)挿絵です。鳥居から石段を登ったところに、狛犬が描かれています。この狛犬が現在の「おいぬさま」なのかもしれません。

「亀戸」の地名由来と「亀ヶ井」

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嘉永四年(1851)刊行・近吾堂板「本所・猿江・亀戸村辺り絵図」(部分)

「亀戸」という地名を「かめいど」と読むのは、はじめての人だと難しいかもしれません。この地名の由来には諸説ありますが、基本的なものは下記の説です。
1)昔はこのあたりは海に浮かぶ島で、その島の形が亀に似ていたことに由来するというものです。すなわち、この地域は島で形が亀に似ていたので「亀島」あるいは「亀津島」といい、のちに陸続きになったので「亀村」に転じ、その後、亀村から亀居処(亀のいる所)に転じ、さらに「亀戸」になったというものです。
2)もう一つは、昔、「亀ケ井」という古井戸があり、それに由来するというものです。その亀ケ井は、亀形の井桁がある井戸、あるいは、亀の背の甲羅のような形の所から水が湧き出る井戸、とか言われます。
その「亀ヶ井」が「亀井」になり、「亀井のある処」で「亀戸」となったという説です。
3)基本的には、「亀島」と「亀ヶ井」が根拠になっています。そうすると、その2つが合体した由来説もあります。
「昔、この地に亀ヶ井という井戸があった。また、昔はこのあたりは海で、亀の甲羅のような砂州があり、それを<亀島>と読んでいた。それが、後に陸続きになり<亀村>と呼ぶようになった。それが<亀ヶ井>と混同され、<亀井戸>となり<亀戸>となった」という説です。(『お江戸の地名の意外な由来』PHP研究所 中江克己 より )
「亀ヶ井」には遺構があります。
亀戸の地名のゆかりの「亀ケ井」を訪ねてみました。

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亀戸天神社の 亀と「亀ヶ井」

「亀戸天満宮(現亀戸天神社)の社地内に妙義社があり、ここに亀甲形に井桁をくんだ井戸があり、水が湧き出ているので亀井戸と言った」
亀戸天神社の隅(御嶽神社の裏)に、亀の形の石と井桁のモニュメントがあります。亀井戸跡の碑も建っています。建立年代、建立者等は不詳です。

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亀戸香取神社の復元された「亀ヶ井」

そして、亀戸天神社に近い「亀戸香取神社」の境内には「亀が井」と呼ばれる井戸が復元されています。
こちらの説明によると、かつてこの地は臥龍梅庭内に入り、「亀ケ井」と呼ばれる井戸があったとしています。

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亀戸香取神社の「亀ヶ井」由来の碑

亀戸という地名は、この「亀ケ井」から来ているという説があることで、平成15年(2003)に「亀ケ井」をこの境内に復元をしたということです。
なお、ここの井戸の水は、汲み上げの井戸水で自然水だそうです。
「残念ながら飲用には適していませんが、引水・表流しておらず、また貯水もされていない湧出したばかりの水を手にすることができます」

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亀戸香取神社の大黒様と恵比寿様

それで、拝殿右手に大黒様と恵比寿様の尊像が立ち、その尊像に柄杓で亀ヶ井戸から汲みあげた水を、例えば身体で具合の悪い所にかけるなどして参詣します。この大黒様と恵比寿様の尊像は、亀戸七福神めぐりで、亀戸香取神社がこの2尊を祀っていることから建てられています。
もともと、亀戸七福神は、亀戸香取神社の大国様・恵比寿様を中心として、周囲の寺社に残りの福神を配して成立したようです。

亀戸天神社の北東にあった、梅の名所「亀戸梅屋敷」。

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歌川広重の描いた「東都名所亀戸梅屋舗全図」です。

江戸時代、亀戸天神社の北東に3000坪の広さの「亀戸梅屋敷」と呼ばれた梅の名所がありました。
残念なことに、明治43年の洪水により廃園となり、今は梅の木も何も残っていません。

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亀戸梅屋敷跡の案内

浅草通りに面して、前は北十間川が流れ、その向こうには花王のビルがあるあたりに「亀戸梅屋敷跡」の案内板と石碑があります.

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亀戸天神社から、どのあたりにあったのか、文久3年(1863)尾張屋板「本所絵図」を見てみましょう。右上部に「梅屋敷」があります。

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江戸時代、本所呉服商の伊勢屋彦右衛門の別荘で「清香庵(せいきょうあん)」と呼ばれる屋敷の庭に見事な梅の木々があって「梅屋敷」と呼ばれ、立春の頃になると江戸中から人々が北十間川や堅川を船でやってきては、たいそう賑わったようです。
文政10年(1826)に刊行された『江戸名所花暦』には、江戸の梅の名所として、梅屋敷・亀戸天満宮境内・御嶽社・百花園・駒込鰻縄手・茅野天神境内・宇米茶屋・麻布竜土組屋舗・蒲田村などが紹介されています。
この名所で、最初に記されている「梅屋敷」が「亀戸梅屋敷」です。
江戸時代から明治の初めにかけて、亀戸梅屋敷は梅の名所として知られていて、浮世絵や書物に多く登場しています。
『江戸名所花暦』は、その梅の中の「臥龍梅」について次のように書いています。
「本所亀戸天満宮より三丁ほど東方にある、清香庵喜右衛門の庭中に、臥龍梅と唱える名木がある。実に龍が横たわっている如くした形で、枝は垂れて地中に入ってまた地を離れ、いずれを幹とも枝とも定めがたいものである。匂いは蘭麝(らんじゃ)に負けずと張り合うほどで、花は薄紅色である。園中には梅の木が多いと言えども、この臥竜梅は殊に勝れた樹木である」四月の頃に至れば、実梅(みうめ)と号(な)づけて、人々はその詠め(ながめ)を楽しむ。」(訳文は棚橋正博著 『江戸の道楽』)
当時も「梅干は吐逆(とぎゃく)をとめて痰を切る、のどの痛むに含みてぞよき」と言われ、薬としても求められていたようです。
また、『新編武蔵風土記稿』によれば、徳川光圀が梅屋舗を訪ねた時に、一株の梅がまるで龍が地を這うように見事に咲いていたため、「臥龍梅」と命名したとされています。さらに、享保9年(1724)には8代将軍吉宗も遊猟の際に立ち寄り、この梅を「代継梅」と名付けたとされています。
「亀戸梅屋敷」は、江戸近郊の行楽地として、花の季節にはたくさんの人々で賑わっていて、その様子は、歌川広重の描いた「東都名所亀戸梅屋」や『江戸名所図会』の挿絵などで見ることができます。

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歌川広重の描いた「東都名所亀戸梅屋」

『江戸名所図会』で見てみましょう。

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『江戸名所図会』「梅屋敷」

挿絵の注記には、「『梅屋敷 白雲の龍をつつむや梅の花 嵐雪』
「如月(きさらぎ・陰暦二月)の花盛りには容色残(のこ)んの雪を欺き、余香は芬々(ふんぷん)として四方(よも)に馥(かんば)し。また花の後、実をむすぶを採り収めて、日に乾かし塩漬けとしてつねにこれを賈(あきな)ふ。味はひ殊に甘美なれば、ここに遊賞する人かならず沽(こ)ふて家土産(いえづと)とす。」とあります。
清香庵喜右衛門は床几(しょうぎ)を用意したり、茶を出したりして、農閑期の商売にしました。また、梅屋敷内で売られていた梅干しは、梅見の際のお土産として人気があったようです。
左面の屋敷が「清香庵」でしょう。玄関先では梅干しを売っているようです。
挿絵左面の、清香庵玄関前左に扇子を打ち振る男と、繭玉をつけた小枝を持った男性がいます。さらに挿絵左面、左下には手まりをして遊ぶ少女がいます。挿絵右面上部には、小広場に床几が多く置かれ、観梅者が一休みしています。右端には茶店があります。
『江戸名所図会』の本文「臥竜梅」の項には、「清香庵にあり。俗間、梅屋敷と称す。その花一品にして重(ちよう)弁(べん)潔白なり。薫香至つて深く、形状あたかも竜の蟠(わだかま)り臥(ふ)すがごとし。園中四方数十丈が間に蔓(はびこ)りて、梢(こずえ)高からず。枝ごとに半ばは地中に入り地中を出でて枝茎(しけい)を生じ、いづれを幹ともわきてしりがたし。しかも屈曲ありておのづからその勢ひを彰(あらわ)す。よつて臥竜の号(な)ありといへり。」と記されています。
残念ですが『江戸名所図会』の挿絵では「臥竜梅」を特定できません。
しかし、歌川広重(1797~1858)が亀戸梅屋敷の「臥龍梅」を『名所江戸百景』で描いて、日本だけでなく、世界に有名にしました。
歌川広重はこの亀戸梅屋敷だけで十数種の版画を描いていますが、特に『名所江戸百景』の中の太い梅の古木を手前にあしらった錦絵は傑作のひとつにあげられます。

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『名所江戸百景』第30景 『亀戸梅屋舗』 安政4年(1857)11月 

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フィンセント・ファン・ゴッホ『日本趣味:梅の花』(1887年)

フィンセント・ファン・ゴッホ(1853~90)は広重の『亀戸梅屋舗』を模写して『日本趣味:梅の花』(1887年)という作品を残しました。
より日本的にと考えたのか、作品の左右に「大黒屋錦木江戸町一丁目」「新吉原筆大丁目屋木」と装飾的に書き入れています。
広重の『亀戸梅屋舗』は、ゴッホが数多く所持していた日本の浮世絵の中の1点です。
19世紀に度々パリで開催された万国博覧会以来、日本の美術様式は『日本趣味(ジャポニズム)』として欧州各地を席巻するほど流行し、その異国情緒を感じさせる雰囲気、斬新な構図、平面的構成による鮮やかな色彩などに、ゴッホを初めにして印象派の作家は、強く魅了されていたようです。
しかし、亀戸梅屋敷も、明治43年(1910)の水害で大きな被害を受けて廃園になり、ゴッホが模した広重の 「臥龍梅」とともに、今や伝説の名園となってしましました。。

▼ちなみに『江戸名所花暦』の梅の名所に出てくる「百花園」は、現在の向島百花園のことです。
文化元年(1804)、日本橋の骨董屋・佐原鞠塢(さはら きくう)が寺島村(現墨田区西部)に多賀屋敷と呼ばれていた土地を得て、開園しました。開いた時は「新梅屋敷」と呼ばれていました。亀戸梅屋敷を意識して開設したので「新梅屋敷」でした。
後に、年中花が絶えることがないように万葉植物など日本古来の草木を集めて『百花園』としました。
幸いなことに向島百花園は今も庭園として残り梅を始め沢山の草花を楽しむことができます。

亀戸天神社と梅。

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亀戸天神社本殿

亀戸天神社は、学問の神様として敬われる菅原道眞を奉祀する神社で、下町の天神さまとして広く知られ、一般には亀戸の天神さま、亀戸天満宮と呼ばれ親しまれています。本社の九州太宰府天満宮に対し、東宰府天満宮や亀戸宰府天満宮と称されていましたが、昭和11年(1936)に「亀戸天神社」を正称としています。
亀戸天神は、一般的には、藤の名所で知られていますが、梅(ウメ)の名所でもあります。

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太鼓橋(男橋)からの本殿風景

境内には、菅原道真が愛したと言われる梅が約300本も植栽され、紅白の華やかな景色を見せてくれます。

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境内が梅の並木道になっている。

菅原道真と梅の関係で言えば、菅原道真の和歌で誰もが知っている和歌があります。
「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」
(東からの風が吹いたら、匂いをよこしておくれ、梅の花。主がいないからといって、春を忘れるなよ)
太宰府天満宮飛梅伝説があります。
「東風吹かば」の歌はその「飛梅伝説」の始まりの歌としても有名です。
菅原道真が京都の自宅にある梅に向けて和歌を詠んだ後、残されていた梅の木がその返答として一晩で太宰府に飛来したといわれています。
これが飛梅伝説です。
菅原道真が、太宰府に左遷されていても、梅の和歌を詠むほど梅の花を愛していたのです。

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拝殿に太宰府の梅の鉢が飾られている。

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亀戸天神社の神紋

そうしたことで、天神様の神紋は梅です。

太鼓橋(男橋)と梅、そして藤棚です。

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太鼓橋・心字池
正面から入って心字池に最初に架かる太鼓橋が男橋、その奥に架かるのが女橋と名付けられている。
大宰府天満宮に倣って造られたものだといい、橋と池を過去・現在・未来という人間の一生い見立てた「三世一念の理」に基づいて造られています。つまり、男橋が過去、真ん中の平橋が現在、女橋が未来を表しています。
また池には多数の亀が棲息していますが、鷺もいました。

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琴柱灯篭。「琴柱灯篭」といえば兼六園ですが、亀戸天神社の方がずっと大きいです。

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滝のような垂れ梅です。

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本殿
元の本殿は昭和20年(1945)に空襲で焼け、戦後は前田家江戸屋敷にあった社を譲り受けて使っていましたが、現存する建物は昭和54年(1979の再建です。天満大神=菅原道真と天菩日命を祀っています。

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亀戸天神社本殿の白梅

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亀戸天神社本殿の紅梅

菅原道真(845-903年)は平安時代に活躍した学者・政治家で、天皇に重用され、出世を重ねましたが周囲の嫉妬を買い、左大臣藤原時平の陰謀により延喜元年(901)大宰府に流され、そのまま現地で亡くなりました。
道真の死後、藤原時平を始めとする関係者が相次いで怪死すると、祟りが噂され、これを鎮めるために建てられたのが天満宮の始まりです。
もう一方の祭神・天菩日命(アメノホヒ)は記紀神話に登場する神で、菅原家の祖神とされています。

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亀戸天神社本殿と東京スカイツリー

 

新宿から移って来た芝公園の梅「銀世界」。

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芝公園の「銀世界」の梅

西新宿・超高層ビル群の初台寄りに、都庁と同じく丹下健三設計の新宿パークタワー(52階)が建っています。
江戸時代から明治にかけて、ここには『梅屋敷銀世界』と名付けられた梅園がありました。園内は広く、梅が林をなし「将軍御目留の梅」「御腰掛の松」などといわれる銘木もあったようです。
江戸時代、この地域は、江戸市内から日帰りで清遊するのに適当な距離でした。
江戸時代後期、日本橋本町御影堂が所有していて、屋敷守が手作りした「梅漬」が人気だったという話も伝わっています。
当時の様子を知るには、2代目歌川広重が、慶応3年(1867)に『梅屋敷銀世界』を描いた「絵本江戸土産第10編 『四谷新町』があります。

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絵には、天保3年(1833)琉球人棟応昌が書いた「銀世界」の石碑が、大きく描かれています。(山は何なのかなと思います)。

梅園の持ち主はいといろ変わりましたが、明治にかけて、多くの人が梅見に訪れていたようです。
明治の30年代に、この梅園のすぐ近くに「淀橋浄水場」が建設されます。
作家、田山花袋は青年時代、現在のワシントンホテルから都庁にかけてあった旧館林藩角筈抱屋敷の屋敷守をしていた義兄を頻繁に訪れていて、その浄水場が建設される様子を『時は過ぎ行く』に書いていますが、梅のことも出ています。
「梅が白く垣根に咲く時分には、近くにある名高い郊外の梅園に大勢東京から人が尋ねて来た。瓢箪などを持って来て、日当たりの好い芝生で、酒を酌んだりなどする人達もあった。梅の多い奥の邸に間違えて入って来て、『や、ここは銀世界じゃないのか。それでも梅が沢山あるじゃないか』など言って、門の中から引き返して行くものなどもあった。」
明治30年代も、この地域の梅園は人気があったようです。
しかし、明治44年(1911)、この土地が、東京ガス株式会社淀橋供給所の所有となり、その場所にガスタンクが建設されることが決まります。
そのため『梅屋敷銀世界』は、明治44年(1911)に芝公園の16号地グランドの西側に移植されます。
梅屋敷内にあった琉球の棟応昌の筆の「銀世界」の石碑も一緒に移動しています。
さらに、道路拡張にともない、再び、昭和41年(1961)に 現在の芝公園1号地に移されました。

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淀橋浄水場とガスタンク

新宿のガスタンクについては、住民の反対運動もありましたが、明治45年(1912)5月、容積約300万立方尺のガスタンクが竣工しています。
戦後、昭和40年(1965)に浄水場は廃止され、高層ビルの立ち並ぶ都心と大変貌を遂げます。併せてガスタンクも取り壊され、その跡に52階の超高層ビル新宿パークタワー」が建設されたのです。

その一角に「銀世界稲荷神社」があります。その参道に、芝公園から梅の木が里帰りで移植されています。

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銀世界稲荷の梅の花

以下は、芝公園の「銀世界」の梅林です。東京タワーをバックに梅の花が綺麗です。

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銀世界の梅と東京タワー

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新宿から梅と共に移った<「銀世界」の石碑>

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水仙も咲いていた

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「銀世界」は白い花からのイメージ

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東照宮への階段にある「銀世界」の案内板

 

上野東照宮 の『ぼたん苑』で「冬ぼたん」鑑賞と「旧寛永寺五重塔」を望む。

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上野東照宮の鳥居

上野東照宮は、徳川家康を祀る神社として、寛永4年(1627)に建立され、現在の建物は慶安4年(1651)に徳川家光によって造営されたものです。戦災や震災にも耐え現在に至っています。その境内に、昭和55年(1980)日中友好を記念して開苑されたのがぼたん苑です。日本のぼたんと中国政府から友好記念として贈呈された希少なぼたんが植えられています。
"ぼたん"は中国原産で花の王として愛され、日本へは平安時代に入ってきた花です。
自然の状態では4~5月に豪華な姿を見せてくれます。
ところが、1~2月にかけて、満開のぼたんが見られるところがあります。それが、上野東照宮の「ぼたん苑」です。

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ぼたん苑 入り口

「第39回 上野東照宮  冬ぼたん」が1月1日から開かれています。
コロナ対策で、外出を控えていましたが、2月中旬、行ってみました。鑑賞の人も少なく、ゆっくり鑑賞するとこができました。

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苑内にある「冬ぼたんの案内」

「ぼたん」には二期咲き(早春と初冬)の性質を持つ品種があり、この内、冬咲きのものが「寒ぼたん」と呼ばれています。
寒ぼたんは、自然環境に大きく左右され、花を咲かせるのは非常に難しいそうです。
そこで、花の少ない冬に お正月の縁起花として抑制栽培の技術を駆使して開花させたものが「冬ぼたん」です。
春夏に寒冷地で開花を抑制し、秋に温度調整して冬に備えるという作業に丸2年を費やし、厳寒に楚々とした可憐な花を咲かせます。
簡単に言えば、「寒ぼたん」はもともと冬に咲くぼたんで、「冬ぼたん」は春に咲くぼたんを冬に咲かせたもので違うぼたんなのです。
上野東照宮の「ぼたん苑」では、冬ぼたん 約40品種 600本ほどの植えられています。
寒さ除けの藁囲い『わらぼっち(藁囲い)』に包まれて可憐に咲いていました。

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“わらぼっち”は地域によって形や結び方がいろいろあるようですが、上野東照宮ぼたん苑 では荒縄を用いた男結びや梅等のお花を模した飾り結びなどをほどこしています。

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また、苑内からは「旧寛永寺五重塔」や東照宮の参道に並ぶ石灯籠の頭などを見る事ができます。

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最後の場所では、枯山水の日本庭園があり、上野東照宮の屋根も望めます。

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