亀戸天神社の北東にあった、梅の名所「亀戸梅屋敷」。

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歌川広重の描いた「東都名所亀戸梅屋舗全図」です。

江戸時代、亀戸天神社の北東に3000坪の広さの「亀戸梅屋敷」と呼ばれた梅の名所がありました。
残念なことに、明治43年の洪水により廃園となり、今は梅の木も何も残っていません。

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亀戸梅屋敷跡の案内

浅草通りに面して、前は北十間川が流れ、その向こうには花王のビルがあるあたりに「亀戸梅屋敷跡」の案内板と石碑があります.

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亀戸天神社から、どのあたりにあったのか、文久3年(1863)尾張屋板「本所絵図」を見てみましょう。右上部に「梅屋敷」があります。

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江戸時代、本所呉服商の伊勢屋彦右衛門の別荘で「清香庵(せいきょうあん)」と呼ばれる屋敷の庭に見事な梅の木々があって「梅屋敷」と呼ばれ、立春の頃になると江戸中から人々が北十間川や堅川を船でやってきては、たいそう賑わったようです。
文政10年(1826)に刊行された『江戸名所花暦』には、江戸の梅の名所として、梅屋敷・亀戸天満宮境内・御嶽社・百花園・駒込鰻縄手・茅野天神境内・宇米茶屋・麻布竜土組屋舗・蒲田村などが紹介されています。
この名所で、最初に記されている「梅屋敷」が「亀戸梅屋敷」です。
江戸時代から明治の初めにかけて、亀戸梅屋敷は梅の名所として知られていて、浮世絵や書物に多く登場しています。
『江戸名所花暦』は、その梅の中の「臥龍梅」について次のように書いています。
「本所亀戸天満宮より三丁ほど東方にある、清香庵喜右衛門の庭中に、臥龍梅と唱える名木がある。実に龍が横たわっている如くした形で、枝は垂れて地中に入ってまた地を離れ、いずれを幹とも枝とも定めがたいものである。匂いは蘭麝(らんじゃ)に負けずと張り合うほどで、花は薄紅色である。園中には梅の木が多いと言えども、この臥竜梅は殊に勝れた樹木である」四月の頃に至れば、実梅(みうめ)と号(な)づけて、人々はその詠め(ながめ)を楽しむ。」(訳文は棚橋正博著 『江戸の道楽』)
当時も「梅干は吐逆(とぎゃく)をとめて痰を切る、のどの痛むに含みてぞよき」と言われ、薬としても求められていたようです。
また、『新編武蔵風土記稿』によれば、徳川光圀が梅屋舗を訪ねた時に、一株の梅がまるで龍が地を這うように見事に咲いていたため、「臥龍梅」と命名したとされています。さらに、享保9年(1724)には8代将軍吉宗も遊猟の際に立ち寄り、この梅を「代継梅」と名付けたとされています。
「亀戸梅屋敷」は、江戸近郊の行楽地として、花の季節にはたくさんの人々で賑わっていて、その様子は、歌川広重の描いた「東都名所亀戸梅屋」や『江戸名所図会』の挿絵などで見ることができます。

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歌川広重の描いた「東都名所亀戸梅屋」

『江戸名所図会』で見てみましょう。

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『江戸名所図会』「梅屋敷」

挿絵の注記には、「『梅屋敷 白雲の龍をつつむや梅の花 嵐雪』
「如月(きさらぎ・陰暦二月)の花盛りには容色残(のこ)んの雪を欺き、余香は芬々(ふんぷん)として四方(よも)に馥(かんば)し。また花の後、実をむすぶを採り収めて、日に乾かし塩漬けとしてつねにこれを賈(あきな)ふ。味はひ殊に甘美なれば、ここに遊賞する人かならず沽(こ)ふて家土産(いえづと)とす。」とあります。
清香庵喜右衛門は床几(しょうぎ)を用意したり、茶を出したりして、農閑期の商売にしました。また、梅屋敷内で売られていた梅干しは、梅見の際のお土産として人気があったようです。
左面の屋敷が「清香庵」でしょう。玄関先では梅干しを売っているようです。
挿絵左面の、清香庵玄関前左に扇子を打ち振る男と、繭玉をつけた小枝を持った男性がいます。さらに挿絵左面、左下には手まりをして遊ぶ少女がいます。挿絵右面上部には、小広場に床几が多く置かれ、観梅者が一休みしています。右端には茶店があります。
『江戸名所図会』の本文「臥竜梅」の項には、「清香庵にあり。俗間、梅屋敷と称す。その花一品にして重(ちよう)弁(べん)潔白なり。薫香至つて深く、形状あたかも竜の蟠(わだかま)り臥(ふ)すがごとし。園中四方数十丈が間に蔓(はびこ)りて、梢(こずえ)高からず。枝ごとに半ばは地中に入り地中を出でて枝茎(しけい)を生じ、いづれを幹ともわきてしりがたし。しかも屈曲ありておのづからその勢ひを彰(あらわ)す。よつて臥竜の号(な)ありといへり。」と記されています。
残念ですが『江戸名所図会』の挿絵では「臥竜梅」を特定できません。
しかし、歌川広重(1797~1858)が亀戸梅屋敷の「臥龍梅」を『名所江戸百景』で描いて、日本だけでなく、世界に有名にしました。
歌川広重はこの亀戸梅屋敷だけで十数種の版画を描いていますが、特に『名所江戸百景』の中の太い梅の古木を手前にあしらった錦絵は傑作のひとつにあげられます。

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『名所江戸百景』第30景 『亀戸梅屋舗』 安政4年(1857)11月 

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フィンセント・ファン・ゴッホ『日本趣味:梅の花』(1887年)

フィンセント・ファン・ゴッホ(1853~90)は広重の『亀戸梅屋舗』を模写して『日本趣味:梅の花』(1887年)という作品を残しました。
より日本的にと考えたのか、作品の左右に「大黒屋錦木江戸町一丁目」「新吉原筆大丁目屋木」と装飾的に書き入れています。
広重の『亀戸梅屋舗』は、ゴッホが数多く所持していた日本の浮世絵の中の1点です。
19世紀に度々パリで開催された万国博覧会以来、日本の美術様式は『日本趣味(ジャポニズム)』として欧州各地を席巻するほど流行し、その異国情緒を感じさせる雰囲気、斬新な構図、平面的構成による鮮やかな色彩などに、ゴッホを初めにして印象派の作家は、強く魅了されていたようです。
しかし、亀戸梅屋敷も、明治43年(1910)の水害で大きな被害を受けて廃園になり、ゴッホが模した広重の 「臥龍梅」とともに、今や伝説の名園となってしましました。。

▼ちなみに『江戸名所花暦』の梅の名所に出てくる「百花園」は、現在の向島百花園のことです。
文化元年(1804)、日本橋の骨董屋・佐原鞠塢(さはら きくう)が寺島村(現墨田区西部)に多賀屋敷と呼ばれていた土地を得て、開園しました。開いた時は「新梅屋敷」と呼ばれていました。亀戸梅屋敷を意識して開設したので「新梅屋敷」でした。
後に、年中花が絶えることがないように万葉植物など日本古来の草木を集めて『百花園』としました。
幸いなことに向島百花園は今も庭園として残り梅を始め沢山の草花を楽しむことができます。