無残な事件で建てられた、常圓寺の「淀橋七地蔵」。

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常圓寺

日蓮宗寺院の常圓寺は、新宿の高層ビル群から道一つ隔たったところにある日蓮宗のお寺です。

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本堂を右に回りこむと墓地入り口に「淀橋七地蔵」の石柱が立っています。線彫りの子供が7人何やら話し合っているような図です。
子安地蔵の供養碑を挟んで石板に浮き彫りされた七地蔵像が並んでいます。

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昭和5年(1930)6月に発覚した大久保町の「七乳児絞殺トランク詰め死体事件」がありました。
新宿駅の手荷物係に預けられたトランクが異臭を放ち、開けてみたら子供の絞殺死体が7体詰め込んであった。預け主は偽名を使ったが、警察の調べで判明。不義の子供を養育してやるといって養育費をもらい、嬰児は絞殺するという極悪非道の夫婦だった。」そういうむごい事件です。
当時の常円寺の住職が施主となって葬り無縁仏と共に供養したそうです。
説明板には『淀橋七地蔵は、昭和の初め惨酷を極めた大久保町の貰子殺し夫婦の手により哀れな死を遂げた男女七児の霊を弔うため、後年、此の事を伝え聞いた青山の石勝さんが地蔵尊七体を刻んで寄附した』と記されていました。
石工の石勝から寄進された地蔵尊七体を通称「淀橋七地蔵」と言います。
今日では無縁行路死亡者および水子霊をあわせて供養する法要が、区の医師会や助産婦会、それに町会の人々によっていとなまれています。

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隣りの常泉院(じょうせんいん)本堂の脇に浄行菩薩様(じょうぎょうぼさつさま)がありました。「お水をかえて手でかるくあてながらお参りすると六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)を清める」と書いてありました。

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お隣、常泉寺浄行菩薩

 

超高層ビル街に、しっかり地に足をつけて残る「成子子育地蔵尊」。

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「成子坂下」先は神田川の淀橋。開発はまだ続いています。

再開発によって街がすっかり変わっても、それによって所在の位置は異動しても「淀橋咳止地蔵尊」のように残るお地蔵さんがあります。また、周りはすっかり変わって行っても、ほぼ同じ場所に止まっていらっしゃるお地蔵さんもあります。
「成子子育て地蔵尊」は、そんな昔とほぼ同じ場所で存続しているお地蔵さまです。
かつて「柏木」という地名でしたが、今は西新宿という住所になっている青梅街道の成子坂の途中にあります。
成子坂の「成子」の由来は、源左衛門という酒屋さんが、往来に筵(むしろ)を張り、にごり酒などを置いて商いをしていました。お酒を買う合図に「鳴子」を鳴らしたことから「鳴子」というついたという説があります。
もともとは「成子」は「鳴子」と書かれていたようです。
新宿駅から青梅街道のその成子坂を西に進むと右側には富士塚もある「成子天神社」の鳥居が建っています。
その先の信号で道を渡ると高層ビルの下にお堂があります。

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新宿観光振興協会の案内では、「『成子地蔵』は、享保12年(1727)勝厭という道心者が、回国巡礼を終えた帰路に建てたもの」と書かれています。あわせて、由来については、子煩悩な父親がわが子を誤って殺してしまった末、自殺を遂げたという伝説が残っていることも記されています。
その伝説は次のようなお話です。
青梅街道筋ではありましたが、江戸時代は、この成子坂あたりは追い剥ぎが出るほど淋しい場所でした。農家の父親が、藪入りで久しぶりに一人息子が家に帰ってくるというので、なんとか歓待してやりたいと考えていました。
しかし、先立つものがありません。
ふと、悪心を起こして、夕まぐれにまぎれて、旅人を襲い財布を奪いました。その旅人は死んでしました。
家に帰り、奪った財布を見ると、なんとその財布は、奉公に出るとき、息子に持たせてやった財布ではありませんか。
父親は驚き、あれは、息子だったのかと、悔やみますが、死んだ息子はもう帰って来ません。深く悔やみ、思い悩んで、とうとう自死してしまいました。
その話を聞いて、勝厭が、ここに地蔵尊を建てられということになります。
また、一説では、この父親が、贖罪の意味で地蔵を造り、その堂守となってお地蔵さんをお守りしたという話もあります。
どちらにしても、子煩悩な父親がわが子を誤って殺してしまったことから、この「成子子育て地蔵尊」は誕生したということになります。
成子坂に北面して、お堂とともに建立されました。地蔵尊は四尺九寸(約148.5cm)の像でした。
その後、天保年間に再建され、以来200数十年、霊験あらたかに近隣の崇敬を集めていましたが、昭和20年(1945)、第二次世界大戦の戦災に遭遇し、損壊してしまいました。現在の地蔵尊は昭和26年(1951)に地蔵堂を再建して、新たに造られたお地蔵さんです。

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地蔵堂の前の2体の石仏はその再建の時、地面を掘っていたら出てきた石仏だそうです。

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現在のお堂は、平成14年(2002)に耐火構造で新築されました。

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ここのお地蔵様も、赤い衣装に包まれています。「子育地蔵」、子どもの頭がかろうじて見えます。

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近くにある「淀橋咳止地蔵」同様、新宿西口からこの地域ほど激変した街はありません。その街にお堂とともにしっかりとお地蔵さまが残されていることに、一つの奇跡を感ぜざるを得ません。

大きな都市開発の中、しっかり残った「淀橋咳止地蔵尊」

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10年少し前ごろです、大きく開発された北新宿に残った「淀橋咳止地蔵尊」のお堂が中央に見えています。
新宿駅西口は、淀橋浄水場跡地が、昭和46年(1971)年の地上47階建て、高さ147メートルの「京王プラザホテル本館」を皮切りに新宿副都心として開発され、高層ビル街となりました。それでも、神田川沿いの淀橋がかかるあたりは、21世紀になるころまでは、まだ「昭和」の雰囲気が残っていました。その淀橋に近い一角に、「淀橋咳止め地蔵尊」のお堂があったことをかすかに思い出します。
しかし、平成6年(1994)に始まった再開発計画は、道幅も広くなり、高層ビルも建ち、西口の「新宿副都心」と繋がって行きました。
そして、「淀橋咳止め地蔵尊」のお堂も平成18年(2006)に現在地に移されました。
場所もよくなり、お堂も立派で、目立ちます。こうして、お地蔵さんが消えてしまわないで残るのは、良いなと思うし、不思議でもあります。

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「昭和廿六年七月廿三日」と記された、淀橋地蔵講による大きな石碑があります。
読みづらいですが、次にように記されています。
「咳止地蔵尊
傳ヘ聞ク寳永五年十月廿四日當柏木二丁目二百番地東北隅ニ地蔵尊ヲ建立セラル 爾来二百四十有余年星移リ物変リタルモ霊験特ニ顕タカナリ 昭和十二年十一月道路改正ニ依リ現在ノ地ニ遷座シ崇敬常ニ厚シ 戦災ノ疫ニ遭ヒ焼失セルヲ遺憾トシ我等相企リ新ニ尊像ヲ建立堂宇ヲ復興セシハ是他ナシ 功徳ニ依ッテ一切衆生延命息災ニ町内ノ繁栄安全ヲ楽シミ未来ニ於テモ幸アレカシト念ズルニ在ル而已
                  昭和廿六年七月廿三日 淀橋地蔵講」
昭和26年(1951)に建てられたこの碑文によれば、この地蔵尊は宝永5年(1708)に建てられ、昭和12年(1937)に道路造りのために、前の場所(北新宿2丁目201番地2)に遷座したが、戦災で消失してしまい、その後、尊像を建立し、お堂を復興した、ということです。

戦後の再建されたお地蔵さんなのですね。

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昔から、咳止めにご利益のあるお地蔵様として、地元の信仰を集めていたのでしょう。
最初にこの「咳止地蔵尊」が造立された宝永5年(1708)の前年には、富士山大爆発による大量の降灰でのどを痛める人が続出したようです。
そのため、咳止めを御利益とする地蔵の造立は村の総意でした。
今は咳止めだけの信仰ではないでしょう。
お堂の中に、現地へ移設したことを記した板碑がありました。

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「淀橋咳止地蔵尊落慶
淀橋咳止地蔵尊は、宝永5年(1708)10月24日に建立されたときく。以前は、北新宿2丁目201番地2にあった。
平成18年の東京都市街地再開発事業道路拡幅工事に伴い、土地所有者の寄進をえて、地蔵講がこの地に移築した。
移築にあたって、土地は巴会館と共に柏木総鎮守鎧神社境内とし、ご尊像とお堂をそのまま移した。
この大事業に、ご厚情をお寄せくださった鎧神社とご尽力された方々に深甚なる謝意を表し落慶法要を営む。」
巴会館にはたしか、鎧神社の神輿などが納められていたと思います。

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「淀橋咳止地蔵尊」は、宝永年間の建立され、地元の人たちから信仰を集めていましたが、震災での消失など幾たびかの変遷を経て、北新宿の再開発に合わせてこの場所に落ち着いたのですね。
大きなお地蔵さんと隣に小さなお地蔵さんもあります。
赤い衣装をまとっていますが、衣装は何種類もあるようです。来るたびに違った色の衣装をまとっています。
今はコロナ禍なので、マスクもしています。(よくお地蔵さんがマスクをしてますが、どうかなとちょっと考えます。身近ではありますが)
祠には、いつも花が飾ってあり、地域の人に大事にされていることが分かります
お堂の向こう側には「新宿村スタジオ」があります。
そこには、新宿村スタジオ稲荷神社がありました。大久保の鎧神社からの勧請だそうです。この地域、鎧神社との結びつきも大きいです。

 

伊藤左千夫のお墓と伊藤左千夫牧舎兼住居跡

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亀戸三丁目にある「普門院」の入り口。左に「伊藤左千夫の墓」の石柱があります。

亀戸天神社の近く、亀戸3丁目に、大きな自然体の「普門院」があります。自然体というのは、住職もだれもいなくなったお寺のように、樹木が生い茂っているという意味です。でも、よく見ると、剪定された枝が積んであるので、廃墟になっているのではありません。しかも亀戸七福神で、毘沙門天を祀りしている寺です。
歴史を見ると、普門院は、元和2年(1616)に豊島郡石浜三股城内(いまの荒川区南千住3丁目)から移転してきたと伝えられています。その移転の際に誤って梵鐘を隅田川に落としてしまいました。そこが鐘ヶ淵(墨田区)の地名の由来となった言われています。それほど由緒のあるお寺です。

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伊藤左千夫の墓

ここに明治時代の歌人で小説家としても活躍した伊藤左千夫(元治元年・1864~大正2年・1913)の墓があります。
少しひびが入っていますが、このあたりは、戦災で焼けたので、その時の傷ではないかと言われています。
伊藤左千夫について、新潮社のプロフィールを引用します。
「千葉県生れ。歌人、小説家。1885(明治18)年上京し牛乳牧舎で働いたのち、牛乳搾取業を開業する。30歳の頃から『万葉集』に親しみ、歌会などに出席。
1900年正岡子規を訪ねその門人となる。子規の没後、歌誌「馬酔木」を創刊。
編集、作歌、『万葉集』研究に全力を尽くす一方、斎藤茂吉など優れた門下生を養成した。また、子規の写生文の影響を受け、1906年小説『野菊の墓』、1908年『春の潮』等を発表した。」
「牛乳搾取業を開業する」とありますが、その場所が、現在の錦糸町駅の南口あたりでした。

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「歌碑」と「伊藤左千夫牧舎兼住居跡」の案内板

錦糸町駅、南口バスターミナルのある辺りに伊藤左千夫の歌碑と案内板があります。
案内には、少し長くなりますが、引用します。

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「この地には、明治時代の歌人で小説家としても活躍した伊藤左千夫の牧舎と住居がありました。左千夫、本名幸次郎は、元治元年(1864)8月18日に上総国武射郡殿台村(現在の千葉県山武市)の農家の4男として生まれました.
明治18年(1885)から、東京や神奈川の七か所の牧場に勤めて酪農の知識を深めました。明治22年25歳のとき本所茅場町三丁目18番地(現在地・錦糸町駅南口)の牧舎と乳牛3頭を購入し、四畳半一間と土間のついた仮小屋を建て。乳牛改良社(茅の舎、デポン舎とも称した)を開業しました。
随想「家庭小言」には開業当時の様子について。毎日18時間の労働をしたことや、同業者の中で第一の勤勉家という評を得たことなどが書かれています。
 左千夫が歌の世界に入ったのは、明治26年ごろ同業の伊藤並根から茶道や和歌を学んだことがきっかけでした。明治33年37歳のころには正岡子規の門下生となり、根岸派の有力な歌人として多くの作品を発表しました。
また、子規没後の明治36年には、機関誌「馬酔木」を創刊。
明治41年には後継誌「阿羅々木」(のちに『アララギ』と改題)を創刊して根岸派、アララギ派の中心となり、島木赤彦、斎藤茂吉など多くの歌人を輩出しました。小説では処女作でもある『野菊の墓』が知られています。この作品は政夫と民子の青春、悲運を描き、近代文学の名作と言われます。」
野菊の墓』が世に知られるのに大きく貢献したのが、夏目漱石でした。
漱石は、左千夫が明治39年(1906)に雑誌「ホトトギス」に発表した『野菊の墓』について、左千夫に手紙を送っています。

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千葉県立中央博物館-収蔵資料として掲載されていました

「拝啓 只今ホトトギスを読みました。野菊の花ハ名品です。自然で淡泊で可哀想で、美しくて野趣があって結構です。あんな小説なだ何百編よんてもよろしい。……」
と賞賛しています。手紙の送り主の「金」とは、漱石の本名、金之助のことです。
ただ「野菊の「墓」でなく、野菊の「花」と記しています。
野菊の墓』は、『伊豆の踊子』や『潮騒』と同じように、松田聖子山口百恵といった若手の人気のアイドルによって映画化され、テレビドラマになりました。
木下恵介は『野菊の如き君なりき』という作品を撮っています。
(余談ですが『野菊の墓』限らず、こうしたこと定番だった展開はこれからもあるのでしょうか)
伊藤左千夫は、この地で、明治43年(1910)の大洪水で壊滅的な打撃を受けています。
牧場も20頭の牛を避難させました。この時の様子を『水害雑録』に書いています。
(ネットで読めるので、ぜひ読んでみてください)
そこに「天神川」と出てきますが、これは亀戸との間を流れる「横十間川」のことです。地元の人は、「横十間川」と書いても「てんじんばし」と読んでいました。、天神は亀戸天神社のことです。その裏側に伊藤左千夫のお墓のある「普門院」はあります。

案内の続きです。

「経営の問題から、明治45年に南葛飾郡大島町(現在の江東区大島)に牧舎を移し、程なくして茶室「唯真閣」(現在は千葉県山武市に移設)を残して家族とともに転居しました。大正2年(1913)7月30日50歳で没しました。
隣に建つ「よき日には」の碑は、昭和58年(1983)に「伊藤左千夫記念会」が建てたものです。刻まれている歌は明治41年10月「阿羅々木第一巻第一號」の「心の動き二」に掲載した一首で、家で遊ぶ子供たちの様子を詠んだ作品です。親として子供に寄せる左千夫の思いがうかがわれます。
平成二十四年三月  墨田区教育委員会

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「よき日には 庭にゆさぶり 雨の日は 家とよもして 児等が遊ぶも 左千夫」


 

 

 

 

錦糸町北口 錦糸公園・千種稲荷神社

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錦糸町駅界隈 広い公園・錦糸公園

錦糸町駅に下りてみました。
昔、映画を見に何度か来たことがありますが、そのころは、いわゆる下町風のごたごたした、賑やかさがあった。
今は、すっきりとした都会になっています。亀戸周辺と共に東京都により「東京副都心」に定められているようです。
錦糸町駅の北口から少し歩くと、錦糸公園があります。
行った日は、コロナ感染で、3回目の緊急事態宣言が出た日でしたが、たくさんに人がくつろんでいました。

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錦糸公園は、元々は帝国陸軍の陸軍糧秣厰(兵員の食糧や軍馬の餌などを備蓄する所)でした。
大正12年(1923)に発生した関東大震災によって壊滅的な被害を受けた東京の復興事業の一環として、隅田公園、浜町公園と並んで災害時の避難場所を兼ねた3大公園として開設された公園です。
昭和3年(1928)7月に開園されました。
戦時中は空襲からの避難所として、また、戦災で命を落とした人たちの仮埋葬所としても利用されていました。昭和20年(1945)の東京大空襲では1万余の遺体が当公園に仮埋葬されています。
昭和20年(1945)3月13日、囚人141人で組織された「刑政憤激挺身隊」が錦糸公園付近の累積死体処理に初出動し、1穴200体収容の大穴10個をつくり、トラックで搬入された約13,000体の遺体が仮埋葬されたのです。
仮埋葬は都内の主な公園、寺院、学校などを使って行われましたがこの、錦糸公園の13,000体という数は、仮埋葬地の中でも最大級の数字です。
昭和23年(1948)から約3年かけて、仮埋葬された遺体を再び掘り起こし東京都慰霊堂に納骨する作業が行われています。
戦後は人々の憩いの場として使われるようになり、次第に体育館や噴水池などが整備されて行き、園内には体育館のほか、野球場やテニスコートまであり、現在のような大きな憩いの公園になってゆきました。

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また、公園の北側には精工舎(SEIKO)の工場があったのですが、再開発によりショッピングモールやシネマコンプレックスオフィスビルやマンションから成る複合商業施設「オリナス」があります。

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千種稲荷神社

錦糸公園の駅側にお稲荷さんがあります。千種稲荷神社です。
丁寧な、由緒書きが貼ってあります。概略記してみます。
「かつて、横十間川の西側に位置するこの地域は、柳島村と呼ばれ、湿地帯であり荒廃のままになっていましたが、寛文から延宝の20年間(徳川4代将軍家綱の時)、治水を目的として土木工事が行われました。さらにその後、武家下屋敷の敷地として整地を行い、当時舟運の盛んな横十間川のあたりは、武家屋敷が川の両側に軒を連ねてるようになります。あわせて、商家の営業も地域内に許可されて行きました。
そして、千種稲荷神社はこの地域(柳島村)の守護神として祭られていたものと伝えられて居ります。
その後、明治時代になって武家下屋敷も解体されてしまいますが、この稲荷神社は、郷土の守護神として残されました。
その後陸軍糧秣廠本所倉庫がこの地に建設された際、敷地整地に際し、この稲荷神社を取り払ったところ、再三火災が発生しました。

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そこで稲荷社を旧位置に再建して祀りました。すると不思議にも、その後火災はまったくなくなりました。
大正⒓年(1923)の震災でも稲荷神社は少しの被害も受けませんでした。
昭和20年(1925)3月10日の空襲にもこの稲荷社は少しの被害もなく多くの人が境内に避難し戦火を免れました。

昭和29年(1954)千種講世話人の人たちによって、戦後荒廃した稲荷社の整備計画が建てられ、その年より、玉垣、鳥居、参道、水屋、石燈籠、本殿の増改築工事を行いました。昭和30年(1955)5月18日、建物一切を東京都の申し出により、都に寄贈し、保存と管理を千種講が委任されました。
昭和40年(1965)4月から墨田区の公園の一部となりました。」
千種稲荷神社については、その名前の由来もわかりません。

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手水舎 小さなお狐さまがいらっしゃる。

昭和29年(1954)千種講世話人の人たちによって、戦後荒廃した稲荷社の整備計画が建てられ、その年より、玉垣、鳥居、参道、水屋、石燈籠、本殿の増改築工事を行いました。昭和30年(1955)5月18日、建物一切を東京都の申し出により、都に寄贈し、保存と管理を千種講が委任されました。
昭和40年(1965)4月から墨田区の公園の一部となりました。」
千種稲荷神社については、その名前の由来もわかりません。
ただ、手水舎の狐が可愛かったです。

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右のお狐さまには、おっぱいがありました。

境内の狐さまは、金網に込められていて、少しかわいそうでした。

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常盤橋門跡・渋沢栄一の銅像

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重要文化財江戸城写真帖「常盤橋門」東京国立博物館

常盤橋門は、江戸五口のひとつ奥州道の出口で、江戸時代を通して江戸城の正門である大手門へ向かう外郭正門でした。寛永6年(1629)に設置され、江戸城外郭の正門として重要な役割を果たしていました。高麗門と渡櫓門からなる枡形門で、門の前には木橋が架かっていました。
明治時代になると、東京の近代化の象徴として、城門に架かる木橋は石橋に架け替えられていきました。
その中で明治10 年(1877)に小石川門の石垣石材を使って、二連アーチ石橋の常磐橋が架けられました。
西洋近代的な意匠を取り入れた最初の石橋として、当時は珍しい歩車道分離で、白い大理石の親柱や花崗岩による路面、洒落たデザインの高欄手摺柵など、文明開化の面影を残した橋でした。架橋当時から錦絵や絵葉書などに登場する東京の名所となっていました。
そして、平成23年(2011)、東日本大震災により大きなダメージを受け、アーチ輪石の変形や、路面の陥没などがあり、落橋の危険が生じていました。そこで復旧工事開始。
解体修理を行い、様々な資料をもとに常盤橋門の形や創建当時の石橋の面影を取り戻す工事を行ってきました。今年、2021年3月31日までの復旧工事でした。

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続いて現在、その復旧工事の資材仮置場などに利用されていた常盤橋公園の整備が行われています。すべて完了するのは今年の夏以降になるということです。
常盤橋公園は、江戸城の城門の一つ常盤橋門があったところです。

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常盤橋公園 渋沢栄一銅像があります。銅像は見ることができます。

昭和8年(1933)に財団法人渋沢青淵翁記念会(現在の渋沢栄一記念財団)によって復旧整備が行われ、旧東京市の公園(現在は千代田区立公園)となりました。残された城門の石垣は国の史跡に指定されています。
この公園の中で、ひときわ目をひくのが渋沢栄一銅像です。

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像は日本で初めての銀行、第一国立銀行の方向を向いて立っています。銀行は栄一により1873(明治6)年、海運橋のたもと日本橋兜町東京証券取引所の隣接地に設立されましたた。
銅像が建てられたのは栄一の三回忌にあたる昭和8年(1933)ですが、計画は昭和3年(1928)渋沢栄一の米寿祝賀会で提起されました。
銅像隣に書かれた碑文を読むと、戦争中に金属供出のため撤去され、戦後再建の声が上がり、昭和30年(1955)に各界有志により建てられて東京都に寄付した、とあります。
台座は残っていて、銅像朝倉文夫による原型によって改鋳され、昭和30年(1955)に再建されたようです。
台座前面の題字「青淵澁澤榮一」は、渋沢栄一ご本人の筆蹟です。

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左のビルの方向に、2027年には地下4階・地上63階建て高さ約390mのタワーが建ちます。

 

亀戸天神社の「藤」風景

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太鼓橋(男橋)と藤棚の藤と見学の人たちと

亀戸天神社では、2021年も、4月17日の土曜日から5月5日まで「藤まつり」が開催されます。例年だと夜間にライトアップされるようですが、コロナ禍でそれは中止のようです。ただ、今年は藤の開花が、例年より2週間も早かったので、すでに咲いています。(5月まで持つのかな)
15日行って見ました。満開も近のではと思わせる輝きでした。人出も多かったです。

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藤は、万葉集に21首載っています。
平安時代は、紫という上品で高貴な色と、藤原家との結びつきで、大いに愛好されたようです。
清少納言は『枕草子』に、「あて(上品な)もの、水晶の数珠 藤の花…・・」と称えています。
かなりの昔から、紫色の花房を愛でる風習は庶民の間でもあったようです。

藤の花の名所として江戸で随一の人気を誇ったのが「亀戸宰府天満宮」でした。
亀戸宰府天満宮は、寛文3年(1663)に太宰府天満宮を分祠したのが始まりで、学問の神様として江戸庶民の信仰を集めていました。
祀られている菅原道真が愛した梅の名所でもあったのですが、藤も同じくらい名高く「亀戸の五尺藤」「亀戸の藤浪」として広く親しまれていました。

歌川広重は境内に咲く藤を多くの作品に残しており、代表作の『名所江戸百景』では太鼓橋と藤の花を描いています。

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歌川広重『名所江戸百景 亀戸天神境内』

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太鼓橋(男橋)と藤棚

明治6年(1873)に東京府社となってから「亀戸神社」と号し、昭和11年(1936)に亀戸天神社となりました。

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小林清親『亀井戸藤』

最後の浮世絵師 小林清親も明治になってからの藤咲く亀戸天神を描いています。水面に映る藤と太鼓橋がすがすがしい印象です。

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太鼓橋(女橋)と藤と池と

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池と亀と藤棚と本殿と

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スカイツリーが見えるのが現在

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白っぽい紫もあり、色もいろいろ、たっぷり楽しめます。