大きな都市開発の中、しっかり残った「淀橋咳止地蔵尊」

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10年少し前ごろです、大きく開発された北新宿に残った「淀橋咳止地蔵尊」のお堂が中央に見えています。
新宿駅西口は、淀橋浄水場跡地が、昭和46年(1971)年の地上47階建て、高さ147メートルの「京王プラザホテル本館」を皮切りに新宿副都心として開発され、高層ビル街となりました。それでも、神田川沿いの淀橋がかかるあたりは、21世紀になるころまでは、まだ「昭和」の雰囲気が残っていました。その淀橋に近い一角に、「淀橋咳止め地蔵尊」のお堂があったことをかすかに思い出します。
しかし、平成6年(1994)に始まった再開発計画は、道幅も広くなり、高層ビルも建ち、西口の「新宿副都心」と繋がって行きました。
そして、「淀橋咳止め地蔵尊」のお堂も平成18年(2006)に現在地に移されました。
場所もよくなり、お堂も立派で、目立ちます。こうして、お地蔵さんが消えてしまわないで残るのは、良いなと思うし、不思議でもあります。

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「昭和廿六年七月廿三日」と記された、淀橋地蔵講による大きな石碑があります。
読みづらいですが、次にように記されています。
「咳止地蔵尊
傳ヘ聞ク寳永五年十月廿四日當柏木二丁目二百番地東北隅ニ地蔵尊ヲ建立セラル 爾来二百四十有余年星移リ物変リタルモ霊験特ニ顕タカナリ 昭和十二年十一月道路改正ニ依リ現在ノ地ニ遷座シ崇敬常ニ厚シ 戦災ノ疫ニ遭ヒ焼失セルヲ遺憾トシ我等相企リ新ニ尊像ヲ建立堂宇ヲ復興セシハ是他ナシ 功徳ニ依ッテ一切衆生延命息災ニ町内ノ繁栄安全ヲ楽シミ未来ニ於テモ幸アレカシト念ズルニ在ル而已
                  昭和廿六年七月廿三日 淀橋地蔵講」
昭和26年(1951)に建てられたこの碑文によれば、この地蔵尊は宝永5年(1708)に建てられ、昭和12年(1937)に道路造りのために、前の場所(北新宿2丁目201番地2)に遷座したが、戦災で消失してしまい、その後、尊像を建立し、お堂を復興した、ということです。

戦後の再建されたお地蔵さんなのですね。

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昔から、咳止めにご利益のあるお地蔵様として、地元の信仰を集めていたのでしょう。
最初にこの「咳止地蔵尊」が造立された宝永5年(1708)の前年には、富士山大爆発による大量の降灰でのどを痛める人が続出したようです。
そのため、咳止めを御利益とする地蔵の造立は村の総意でした。
今は咳止めだけの信仰ではないでしょう。
お堂の中に、現地へ移設したことを記した板碑がありました。

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「淀橋咳止地蔵尊落慶
淀橋咳止地蔵尊は、宝永5年(1708)10月24日に建立されたときく。以前は、北新宿2丁目201番地2にあった。
平成18年の東京都市街地再開発事業道路拡幅工事に伴い、土地所有者の寄進をえて、地蔵講がこの地に移築した。
移築にあたって、土地は巴会館と共に柏木総鎮守鎧神社境内とし、ご尊像とお堂をそのまま移した。
この大事業に、ご厚情をお寄せくださった鎧神社とご尽力された方々に深甚なる謝意を表し落慶法要を営む。」
巴会館にはたしか、鎧神社の神輿などが納められていたと思います。

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「淀橋咳止地蔵尊」は、宝永年間の建立され、地元の人たちから信仰を集めていましたが、震災での消失など幾たびかの変遷を経て、北新宿の再開発に合わせてこの場所に落ち着いたのですね。
大きなお地蔵さんと隣に小さなお地蔵さんもあります。
赤い衣装をまとっていますが、衣装は何種類もあるようです。来るたびに違った色の衣装をまとっています。
今はコロナ禍なので、マスクもしています。(よくお地蔵さんがマスクをしてますが、どうかなとちょっと考えます。身近ではありますが)
祠には、いつも花が飾ってあり、地域の人に大事にされていることが分かります
お堂の向こう側には「新宿村スタジオ」があります。
そこには、新宿村スタジオ稲荷神社がありました。大久保の鎧神社からの勧請だそうです。この地域、鎧神社との結びつきも大きいです。