「有楽町」と「数寄屋橋」と「南町奉行所跡」

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織田有楽斎画像ー正伝永源院所蔵)

■「有楽町」という町名は、戦国武将の織田有楽斎(おだうらくさい)に由来するとされます。
織田有楽斎は、織田信長の弟で本名は織田長益です。
信長が本能寺の変で倒れてからは秀吉に仕え,関ヶ原の戦いでは東軍につきました。また大坂冬の陣では豊臣方の盟主に推されたが,夏の陣には参加しませんだした。
そうした武将でしたが、後年は茶人として過ごしました。有楽斎は号で,単に有楽とも言います。
茶人としても名をはせた有楽斎は、関ヶ原の戦いのあと徳川方に属し数寄屋橋御門の周辺に屋敷を拝領し、その屋敷跡が有楽原(うらくがはら)と呼ばれていました。明治時代にその「有楽原」から「有楽町」の名前が付けられました。
ただ、江戸初期に有楽斎の屋敷がはたしてそこにあったかなど、はっきりした記録は残っていません。
ただ、江戸切り絵図に「有楽原」という名前は出ています。(下の切り絵図参照)

その「有楽原」から、「有楽町」は誕生したのです。
▼「数寄屋橋」という地名もあります。これも織田有楽斎に因むという説があります。
数寄屋橋は、寛永6年(1629)に江戸城外堀に架けられた橋です。
小規模(多くは四畳半以下)な茶座敷を「数寄屋」と呼んでいました。「数寄屋」は「茶室」を意味します。
数寄屋橋あたりに「有楽斎の茶室」があった所からその名称が来ているという説です。

しかし、別の説に、このあたりには、「御数寄屋坊主」の屋敷があり、「御数寄屋坊主」は、茶礼や茶器を司る坊主で、参勤する大名や高禄の武士にお茶を出していました。御数寄屋坊主と言っても、宗教的な坊主ではなく名流派筋の茶道の坊主で世襲でした。

この数寄屋坊主衆に由来して「数寄屋町」から「数寄屋橋」さらに「数寄屋橋御門」と名付けられたというものです。下の写真の後ろ側にある案内には、「御数寄屋坊主」に由来すると説明が書かれています。(次回紹介予定)

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菊田一夫の「数寄屋橋此処にありき」

数寄屋橋」は現在の銀座5、3丁目付近になり、数寄屋橋交差点や数寄屋橋公園など、周辺にその名前が残っています。
また「数寄屋橋」という地名が、いまでも多くの人に親しまれているのは、1950年代に放送されたラジオドラマ『君の名は』で、“待ち合わせ場所”になっていたからです。

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戸切り絵図

安政の江戸切り絵図を見ると、数寄屋橋御門のそばに「奉行所(南)、池田播磨守」の記載があります。ここが南町奉行所です。
池田播磨守頼方は、嘉永5(1852)~安政4(1857)と安政5(1858)~文久1(1861)に南町奉行所に奉行として就任しています。
この切り絵図は、安政年間のものです。

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■JR「有楽町」の駅前広場に「南町奉行所跡」の碑があります。「大岡越前守忠相」も町奉行を務めたところです。
平成17年の発掘調査で見つかった下水溝の一部が再現され、地下に、江戸時代中期に掘られた穴蔵(地下室)が展示されています。
南町奉行所は、宝永4年(1707)に常盤橋門内から数寄屋橋門内に移転し、幕末までこの地にありました。その範囲は、有楽町駅および東側街区一帯にあたりです。
平成17年(2005)の発掘調査では、奉行所表門に面した下水溝や役所内に設けられた井戸、土偶などが発見されました。

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南町奉行所跡」の碑のそばには、発掘した石を使った石垣が飾ってあります。

エスカレーターを下りると、穴蔵の板枠が壁に立てて展示されています。

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穴蔵は厚い板材を舟釘で留め、隠し釘となるように端材を埋め、板材の間に槇肌(木の皮)を詰めて防水処理をしており、壁板の一辺に開けた水抜き穴から竹管がのびて桶に水が溜まる構造です。
この穴蔵の中から伊勢神宮の神官が大岡忠相の家臣に宛てた木札が出土しています。

左右にに置かれたベンチは、木樋(もくひ・江戸時代の水道管)です。

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江戸町奉行は、寺社奉行勘定奉行とともに、徳川幕府の三奉行のひとつでした。その職掌は、江戸府内の行政・司法・警察など多方面に及び、定員2名で南北両奉行に分かれ月番で交代に執務していました。
大岡越前守忠相は、享保2年(1717)~元文元年(1736)にかけて南町奉行としてここで執務をしていました。
また、遠山の金さんでお馴染みの遠山金四郎天保11年(1840)~天保14年(1843)まで北町奉行を務め、その後、弘化2年(1845)~嘉永5年(1852)までは南町奉行も務めています。両町奉行を務めたのは遠山金四郎だけです。
大岡越前守忠相の上屋敷跡が霞が関にあります。現在は「弁護士会館」です。
 大岡越前守忠相屋敷跡 千代田区霞が関1-1-3
 弁護士会館の植栽の中に案内板があります。
「名奉行として知られる大岡忠相(1667-1751)は、徳川吉宗が八代将軍に就任した翌年(享保2年・1717)に江戸奉行に起用され、以後20年間その要職にあった。
宝暦元年(1751)12月、半年前に没した吉宗の後を追うようにして亡くなった。
この地は晩年に忠相の上屋敷がおかれた場所である。」(案内板より)

霞が関の屋敷から有楽町の南町奉行所まで江戸切り絵図で大岡越前守忠相の通勤路を示してもらいましょう。

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大岡越前守の南町奉行所までの通勤路(予測)