四谷さめがばし(鮫ヶ橋・鮫河橋・鮫馬が橋・雨河端)とさめかわ(鮫川・佐目川・沙美津川・櫻川)

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 四谷駅から歩くと迎賓館の少し先にみなみもと町公園があり、そこに交番もあります。
その少し先を右に曲がると、みなみもと町公園一角とも言えるあたりに赤い鳥居が見えます。
▼ブロック塀に囲まれ、鳥居には「せきとめ神」とだけ表記されています。
鳥居の中にはの石碑と「四谷鮫河橋地名発祥之所」の石碑があります。

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「大願成就 鮫ヶ橋せきとめ神」

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「四谷鮫河橋地名発祥之所」

「四谷鮫河橋地名発祥之所」の石碑には下記の文字が記されていました。
 沙美津川 千どり来なける古の 里の名ごりを伝ふ石ぶみ
 昭和50年(1975)3月建立 長尾保二郎 登女 建碑
ここあたりには、須賀神社の下あたりにある日宗寺の湧水を源流として、現在の若葉町の低地を通り、途中、千日谷は千駄ヶ谷一行院境内の湧水を取り入れ、鮫谷橋を抜け、東宮御所に入り、さらに溜池から東京湾へと流れる川が流れていました。
その川を桜川(鮫河)といったようで、橋があります。この橋は、鮫河橋と呼ばれていました。
この橋名から、桜川沿いの地域を鮫河橋と呼ぶようになり、元禄9年(1696)には、橋周辺を元鮫河橋、北部を鮫河橋と称したということです。

さめがばしには、鮫ヶ橋・鮫河橋・鮫馬が橋・雨河端といった字が当てられます。桜川はさめかわとも言われ、鮫川・佐目川・沙美津川そして、櫻川と書かれます。
鮫河橋の名前の由来は、①「江戸名所図会」に、昔この地が海につづいており、鮫があがってきた、②「江戸砂子」には、牛込行元寺の僧がさめ馬(真っ白な馬)に乗っていて、橋から落ちていたのでさめ馬橋となり、それが転訛された。また、③雨後にだけ水量が増したので「雨が(降るときだけの)橋」といわれた。④これは本当にあったどうかわかりませんが、橋が『 かまぼこの板程あって鮫が橋 』と鮫が蒲鉾の材料であったことと、小さい橋という意味を掛けて生まれたシャレ説もあります。

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▼『江戸名所図会』を見てみましょう。
本文の「鮫河橋(さめがばし)」の項に、「紀州公御中館の後、西南の方、坂の下を流るゝ小溝に架(わた)すを云ふ。今この辺の惣名となれり。里諺(りげん)に、昔この地海につづきたりしかば、鮫のあがりしゆゑに名と」すといへども、証とするにたらず。或人云く、天和2年(1682)公家の御記録に、上一木村(かみひとつぎむら)鮫が橋とありと云々。然る時はこの辺りも一木の内なりとおぼし。又佐目河に作る。千駄ヶ谷寂光寺鐘の銘に鮫が村ともあり。『鳥の跡』さびしさや友なしちどり声せずば何に心をなぐさめがはし 茂睡」とあります。

『江戸名所図会』の鮫ヶ橋の挿絵を見てみましょう。
橋の上で人が、向こうから来た老人と何やら話をしています。橋の長さは4・5mということですから、小さな橋です。
しかし、堤は、石垣で固められていて、かなりしっかりとした造りになっています。
川に木の杭があるのは、ゴミを止めるためです。建物に何か書いて貼っています。読みにくいですが「御誂向染物所」と書かれているようです。格子越しに土間に見えるのは、かめです。おそらく染料が入っているのでしょう。そのような風景です。
後ろには大きな鯛を持ってる男がいます。
挿絵に描かれた鮫河橋は、現在の赤坂御用地・鮫河橋御門を御用地内に少し入った所であったようです。もともとは紀伊徳川家中屋敷の垣に沿った鮫河橋坂の一番の底部に位置していましたが、明治以降赤坂御用地となってからは、鮫河橋坂から安鎮坂への曲がりが急な逆九字形になり且つ窪地になっていたのを、鮫河橋付近を盛り土により嵩上げするとともに、曲がり部分を西方向にずらし、曲がり角度を小さくするなどの工事のため、鮫河橋御門内になってしまったということです。
今は、赤坂離宮の地の西南に当たる坂の下を流れる小溝に架けられた橋であるとされています。
▼安本直弘著の『四谷散歩』に、鮫河橋のこうした事情について書かれているのが、一番納得ゆきました。少し長くなりますが、引用させてもらいます。
「元南元町公園の南側、道路脇に『』鮫河橋せきとめ神』という祠がある。明治になり紀州中屋敷(現赤坂御苑一帯)は皇室御用地になったが、明治6年、皇居が焼失した時、明治天皇はここを仮御所として住むことになった。
此の時仮御所周辺の風致と防火の観点から、今の南元町公園一帯の民家が取り壊され、植林がおこなわれた。明治中頃には学習院から権田原に向かう道路を整備するため、坂下の部分に盛土をした。この工事のため、御所内に流入していた鮫河は、道路の部分が暗渠になったので、道路西側に沈殿池(せき)を造ってゴミを取り除くようになった。
いつの頃からか、この付近の木の枝に、氏名・年齢を書いた紙を紅白の水引で結び、せき止めのまじないにする土俗信仰が発生した。
沈殿池の水を『せき止める』を『咳止める』になぞらえたものである。
その後、御所内の鮫河が全部暗渠になり、この沈殿池も撤去されたが、昭和5年、この付近に住む老婆が、信仰の念止めがたく、「大願成就・鮫河橋せきとめ神」という石塔を建てた。石塔は昭和25年、公立学校共済ビルの建築工事のとき、一時取り棄てられたが、その後、御所鮫河橋御門の向かい側に社殿を造って再建された。今の場所に移ったのは昭和46年で、『鮫河橋発祥の地』の石碑は郷土史研究家が建てたものである。」
▼せきとめ神の後ろ側にお堂があり、子育て地蔵尊がおいでになります。

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田の中子育て地蔵尊 (境内説明書きより)
昭和15年7月・千駄ヶ谷・加藤氏」と刻んであります。
子育地蔵尊 (同じく境内説明書きより)
「昭和46年吉日 遷座記念に故大関新次さんが自身で刻んで奉納したものである」と、あります。