「日比谷」の話。

日比谷公園や、皇居の堀である日比谷堀などにその名を残す「日比谷」、地名の由来は諸説ありますが、江戸時代初期の地形と関連しています。
日比谷あたりは、家康の江戸入府以前は、漁民がすむ村落でした。漁民が海苔をとり、魚をとらえるために海の中に立てる竹の小枝のことを「ひび」と言います。「ひび」がたつ入江(谷)であったことから日比谷という地名に転じたということです。
なお、「江戸」についても。海水が入り込むところを示す『江』と、その入り口という『戸』から『江の戸口』というところから来ているとい言われます。
そのように、徳川家康が江戸に入府した天平18年(1590)、江戸城は、日比谷入江と呼ばれ、海が入り込む場所でした。

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日比谷入江の東側は、江戸前島という半島が突き出していました。
日比谷入り江は、城下町をつくる障害になったので、家康は、埋め立をします。
まず、入り江に流入していた平川という河川の流路を付け替えました。続いて、和田倉橋の東から八重洲の北方にかけて江戸前島を横断する道三堀を設け、さらには縦断する堀を掘って外堀とし(いまの外堀通り沿い)、排水対策をしたうえで、高地を削った土や江戸城を造成した残土で、日比谷入江を埋めたのです。
このように日比谷一帯はかつて入江であり、その入江を埋めた軟弱地盤であるため、後々の都市計画にも影響を与えることにりました。
例えば、日比谷公園。日比谷ヶ原と呼ばれていたこの地は明治4年(1871)年から陸軍の練兵場として使われたのち、公園として整備され、明治36年(1903)年に開園しました。
官庁集中計画においては日比谷ヶ原にも官庁の建設が予定されましたが、元々入江だったため地盤が悪く、大掛かりな建物の建設には不向きと判断され、公園地としての利用が提案され、日比谷公園を造ったわけです。
このあたり、入り江の埋め立て地で、地盤が弱かったため、ビルの建設は難しかったのです。

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靖国通り日比谷の交差点近くに、ペニンシュラ東京がありますが、この場所には「日活国際会館(のち日比谷パークビル)」という建物がありました。
映画会社の日活によって昭和27年(1952)年4月1日に竣工しました。

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日活国際会館

この「日活国際会館」は、戦後としては初めての最大のビルでした。
このビルは、竹中工務店による画期的な潜函(=ケーソン)工法で、造られました。
「潜函工法」は、先に地上で、先に地上で地下4階分の建物を一体的な構造で建設し、建物下の土を掘削しながら地下に沈めるという、画期的な工法でした。地下に沈める作業は、昭和25(1950)年末に開始し、約半年で完了。その後、地上9階分の工事が進められ、昭和27(1952)年に竣工しました。当時は「沈むビル」として話題になりました。

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東京ミッドタウン日比谷」は2007年に閉館した三信ビルディングと2011年に閉館した日比谷三井ビルディングの跡地に建ちました。2つのビルの間にあった道路を廃止して区画整備したことで、広大な敷地が確保できたということです。
施設の高さは約192メートルで、高層ビルが少ない銀座・有楽町方面から来ると、まずその高さに圧倒されます。地盤の対策などどうしたのでしょうか。
この「東京ミッドタウン日比谷」については、何度か行って、またの機会に書きたいと思っています。
今回は、「東京ミッドタウン日比谷」から望んだ日比谷公園の姿を載せます。

▼「東京ミッドタウン日比谷」<6階パークビューガーデン>
周囲に高い建物がないので見晴らしがよいです。

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「テラスには日比谷公園と同種の樹木を採用し、日比谷公園との一体化を図った」とのことです。

▼<9階スカイロビー>」より広い視界。6階のパークビューガーデンも望めます。

(写真が載りませんでした)