今戸人形「福助」にまつわる話。

f:id:ktuyama:20210801162616j:plain

今戸神社台東区今戸1-5-22)

後冷泉天皇康平6年(1063)、源頼義・義家父子が、奥州討伐の折、鎌倉の鶴ヶ丘と浅草今之津(現在の今戸)とに京都の石清水八幡を勧請したと伝わり、その浅草今之津の「今戸八幡」が「今戸神社」の創建となっています。

f:id:ktuyama:20210801162701j:plain

今戸神社の境内に「今戸焼き発祥の地」の石碑があります。

今戸と言えば今戸焼き。福助や狐など、独特な愛嬌のある顔立ちの人形陶器として広く知られていました。昔は、七輪、火鉢、植木鉢など素焼きの今戸焼きが日用品として生活の中にあり、たくさんの窯元が今戸から橋場にかけてあったようで、その余技として人形製作が始ままれ、人気を博しましていました。

f:id:ktuyama:20210801163135j:plain

「今戸焼」という落語があります。三笑亭可楽(8代目)が得意としていました。
『亭主が仕事から帰ってくると女房がいない。隣も前も長屋中の女が出かけているようだ。芝居見物に行ったらしい。
女房たちが帰ってきます。1人が遅くなったから亭主に謝ろうというと、「謝ると癖になる。亭主なんてものは月に5、6回はお仕置きをしなければだめだ」なんて言っている女房もいる。
家に入ると亭主は怒って口をきかない。女房は平気で、普段ぼぉーっとしている顔より怒っている顔の方がしまっていていいから一週間ほど怒っていっればいい、なんて調子だ。
亭主が「芝居へゆくなじゃねえが、帰ったあと元さんは吉右衛門に似ているとか、三吉さんは宗十郎に似ているとか言うたびに俺は肩身の狭い思いをしているんだ。よその亭主ばかりほめるな」と言うと、
女房が「お前さんも似ているよ」「だれに」「福助」「あの役者の福助にか」「なに、今戸焼の福助だよ」』
役者の福助は、成駒屋中村歌右衛門家の大切な名跡の「中村福助」です。
噺のサゲは「今戸焼の福助」、そのひとことで通用するだけ、今戸の福助はみんなが知っていたのですね。それだけ身近だったのでしょう。
幸福を招来するという縁起人形の一種。背が低く,童顔で頭の大きい男性人形で,ちょんまげを結い,裃 (かみしも) を着けて正坐した形の「福助」。
いったいいつごろの、どこの人がモデルなのでしょう。
いろいろな説が出ています。
江戸時代,享和期 (1801~04) 頃に死んだ長寿の佐太郎という実在人物を模したもの。
佐太郎は摂津国の農家の生れで,身長約 60cmぐらいの大頭の小人 (こびと) でしたが,幸運な生涯をおくり長寿であったといわれます。
安永2年(1773)年に「福助」が「お福」なる女性を娶る話が『吹寄叢本(ふきよせそうほん)』に出ているそうです。
また、太田南畝の『一話一言(いちわいちげん)』には「享和3年(1803)に流行した」と記されているとあります。よく分からないですね。
そのように「福助」伝説には、いくつもの説があるようですが、お店に関係して、なっとくできるお話を2つ、紹介してみます。
一つは、京都呉服屋「大文字屋」主人にまつわる話です。
大文字屋は頭が大きく背が低くて美男子ではなかったが、店の宣伝に熱心で店は大層繁昌しました。
そして貧民へ施しも忘れませんでした。
人々はこの店主にあやかろうと、人形を作ったところから、今の福助人形が生まれたという。したがって、京都では今でも福助のことを「大文字屋」と呼んでいる、ということです。
二つ目は、滋賀の伊吹山のふもと、木曽街道六十九次の宿場「柏原」にある、「亀屋」の話です。
これは、歌川広重が渓斎英泉と共に描いた、作品「木曽海道六十九次之内」の「柏原宿」に描いています。

f:id:ktuyama:20210801172343j:plain

広重画「木曽海道六十九次之内」の『柏原』 亀屋

柏原宿には大名御用達のもぐさ屋「亀屋」が描かれ、その店頭の右に巨大な福助人形が、左に金太郎人形が描かれています。
天保6年(1835)年から7年余りかけて制作されたものです。
ここ「亀屋」に「福助」と言う番頭がいました。
この番頭は、正直一途、店の創業以来伝えられた家訓を守り、裃を着け、扇子を手放さず、道行く人にもぐさをすすめました。
もぐさを買うお客に対しては、どんなに少ない商いでも感謝の心を表し、おべっかを使わず、真心で応え続けました。
そのため店は大いに繁昌して、主人もたいそう「福助」を大事にしていました。
これを京都伏見の人形屋が耳にして、福を招く縁起物として「福助」の姿を人形にしたということです。
福助人形は大流行。商店の店先に飾られるようになったということです。
この説でいけば、「福助」は今戸人形でなく、伏見人形が、発祥ということになります。

f:id:ktuyama:20210801163855j:plain

昭和の初めのころの今戸人形 お福と福助

姉さま人形として、本来は別々だったのでしょうが、福助の連れ合いとして「お福」「お多福」あるいは「おかめ」が並びます。

先日アップした、山谷堀でも、その福助とお福さんがセットで並んでいました。

f:id:ktuyama:20210801163528j:plain

「お福」「お多福」はその字のまま、「おかめ」は、「お亀」と書き、上の「亀屋」と同じく「福」を招きます。
足袋・靴下を中心に下着、服飾衣料で知られていた「福助株式会社」がありました・
創業者の辻本福松という人が、明治15年(1882)に大阪府堺区(現・堺市堺区)大町東で、足袋の製造販売をおこなう「丸福」を創業しました。
しかし、丸に福を入れ商標は、すでに他の業者が商標として登録していたこともあり、伊勢詣での際に福助人形を見つけたことから、これをもとに1900年に「福助印堺足袋」を発足させました。「福助足袋」は一世を風靡しましたが、今は、新たにfukuske で活動しています。

f:id:ktuyama:20210801164054j:plain

福助株式会社」の福助足袋のマーク


福助」は享保年間頃から、商店では「千客万来・商売繁盛」、家庭では「出世開運・福徳招来」の置物として、200年以上の長きにわたり、多くの人に親しまれてきました。
近年になって「招き猫」にその座を奪われていル気がします。がんばれ福助と言ってやりたい気分です。