文京区「播磨坂」の桜並木

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茗荷谷駅から春日(かすが)通りを右へ進むと、大きな交差点にぶつかります。そこが播磨坂です。
戦後の区画整理でできた「環状3号線」の一部として整備された時、江戸時代、この地にあった松平播磨守の上屋敷にちなみ、播磨坂と名付けられたと言われます。
松平播磨守は、徳川光圀の弟を藩祖とする常陸府中藩(ひたちふちゅうはん)の藩主でした。常陸国は、現在の茨城県石岡市です。
また一説に、坂の下には、千川が流れる低地があり、その一帯の田んぼが「播磨田んぼ」と呼んでいたいたから坂道を「播磨坂」と名づけたとも言います。切り絵図に「上水」と書かれた川(千川)が流れていて、「播磨田んぼ」と呼ばれていた”田”が千川に沿って広がっています。

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昭和35年(1960)に坂の舗装が行われた際、当時の花を植える運動の一つとして桜の木約150本が植えられました。
桜は、地元の人々の手で育てられ、多くの花見客を集めて都内の桜の名所として知られるようになりました。現在、桜は130本ということです。

南西側の端は国道254号線(春日通り)との「小石川五丁目」交差点です。

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北東側の端は都道436号線との「植物園前」交差点(すぐ北側に東京大学大学院理学系研究科附属植物園があるため)のところです。

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その両者を繋いで500メートルほどの長さの「播磨坂」です。
地形的には「植物園前」側が低く、「小石川五丁目」側が高く、緩やかな坂道になっています。

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広い通りの真ん中には中央分離帯を兼ねた遊歩道が整備されていて、遊歩道の中には小川も設けられています。
この通りの両脇の歩道と中央の遊歩道とに、三列に桜並木が続きます。
播磨坂の遊歩道は中央部の「播磨坂桜並木」交差点で途切れ、東西に分かます
西側(坂を登った方)は「洋風ゾーン」として西洋風に整備し、
東側(坂を下りた方)は「和風ゾーン」としてせせらぎなどを設けて和風庭園風に整備されているようです。

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右側に水が流れています。

遊歩道には三体の彫刻作品も展示されています。写真は佐藤忠良の作品です。

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昭和46年から開催されていた「文京さくらまつり」は、コロナ禍で、本年は中止になりました。すてきな桜並木でした。

コロナ禍の代々木公園の桜

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代々木公園、青い空と桜

代々木公園の所在地は、陸軍の代々木練兵場でした。第二次世界大戦での日本の敗戦後にはワシントンハイツとなり、昭和39年(1964)の東京オリンピックで代々木選手村として一部が使用されました。その後再整備され、昭和42年(1967)に代々木公園として開園しました。森林公園にということで植えられた樹木は時とともに豊かに繁り、隣接する明治神宮の鎮守の森とともに都会のオアシスとして訪れる人を癒しています。

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花壇の向こうの建物は、昭和39年(1964)の東京オリンピックの選手村の宿舎です。

代々木公園の敷地は54ha(およそ東京ドーム11個分)。東京23区内の都市公園のなかでは、水元公園(約96ha)、葛西臨海公園(約80ha)、舎人公園(約71ha)、光が丘公園(約60ha)に次いで5番目に広い公園です。
そして、東京都のお花見人気ランキング5位、全国では10位となっています。通常だと大変な人が集まっていることでしょう。
桜の写真を載せます。コロナ禍の2021年3月22日の代々木公園の桜です。

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橙色の幕のようなものは、コロナの感染予防で、桜の下に侵入禁止を示す柵です。

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太い幹、しっかりと花をつけて

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花びらがきれい

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枝振りも見たい。

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バックが新芽の緑。良い味になっている。

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こちらは少し赤い。



 

「新宿ワシントンホテル」の「韋駄天尊」と「蛯子稲荷大明神」

                

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▼西新宿の都庁の隣り「新宿パークタワー」あたりは、江戸時代から明治にかけて、『梅屋敷銀世界』と名付けられた梅園でした。
その様子をしるには、歌川広重(2代目)が、慶応3年(1867)に『梅屋敷銀世界』を描いた「絵本江戸土産第10編 『四谷新町』」(上の絵図)があります。
絵には、天保3年(1833)琉球人棟応昌が書いた「銀世界」の石碑が、大きく描かれています。
『梅屋敷銀世界』は明治45年(1912)に、ガスタンクが出来るので、芝公園へ移されました。
昭和40年(1965)には、浄水場は廃止され、西新宿一帯は、高層ビルの立ち並ぶ都心へと大変貌を遂げます。
『梅屋敷銀世界』があった場所には「新宿パークタワー」が建設されましたがその一角に、『梅屋敷銀世界』を偲ぶ「銀世界稲荷」があります。
▼江戸時代、『梅屋敷銀世界』の隣は「館林藩角筈抱屋敷」でした。抱屋敷とは、大名家が自分で所有権を取得した屋敷のことです。
群馬館林出身の作家田山花袋(1871~1930)の家系は、館林藩の下級藩士でした。
明治30年代、館林藩角筈抱屋敷は、田山花袋の義兄が屋敷守をしていました。その縁で、田山花袋はこの屋敷を頻繁に訪れています
そして、すぐ近くだった淀橋浄水場が建設される様子などを『時は過ぎゆく』に書いています。また、梅屋敷のことも出てきます。
「梅が白く垣根に咲く時分には、近くにある名高い郊外の梅園に大勢東京から人が尋ねて来た。瓢箪などを持って来て、日当たりの好い芝生で、酒を酌んだりなどする人達もあった。梅の多い奥の邸に間違えて入って来て、『や、ここは銀世界じゃないのか。それでも梅が沢山あるじゃないか』など言って、門の中から引き返して行くものなどもあった。」
館林藩は、小田原征伐後、徳川四天王の一人・榊原康政が館林10万石で立藩しました。
寛文元年(1661)のち六代将軍となる徳川綱吉が25万石で館林藩主になりましたが、その外はおおむね5万石から11万石の中藩でした。
幕末の弘化2年(1845)出羽山形藩から秋元志朝が6万石で入り、それ以後明治4年(1871)の廃藩まで秋元家が藩主として続きました。
その最後の藩主秋本家の抱え屋敷が、元角筈、現在の新宿ワシントンホテルから都庁にかけてあってわけです。

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▼「新宿ワシントンホテル」ビル玄関の右側に、健脚健康の神、韋駄天を祭った「韋駄天尊(いだてんそん)」があります。
秋元家第2代藩主、秋元但馬守礼朝(ひろとも)の守護神・戦神として浅草の屋敷に祭祀されていました。
韋駄天尊は、韋駄天尊は江戸中期の作とされ、浅草の屋敷から、明治4年(1871)年、現在の場所に遷座されたものです。
その後広く信仰を集め参詣する人が増えたため、大正8年(1919)独立仏堂となりましたが、第二次世界大戦末の空襲により昭和20年(1945)4月仏堂は破壊消失されてしまいました。
戦後の混乱がようやく治まりつつあった昭和30年(1955)ごろ地元に復興の機運が高まり、板碑で「新宿韋駄天尊」は復元されました。

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板碑は宮原柳遷画伯の揮毫により、仙台石に彫刻されました。 堂宇は総桧造りで再建されました。

それから、昭和61年(1986)、この地域が東京副都心として超高層ビルが林立し始める時、当地の守護神として現在の堂宇が建立されました。

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堂宇の中の全景。賽銭箱のところに、白いシューズがある。

▼韋駄天尊とは
古代インド神話の神であり、仏教においては南方増長天八大将軍の一官として三十二将の主位に置かれています。
インドの伝説によれば釈迦牟尼世尊の入滅後、 仏舎利を奪った足疾鬼(そくしつき) に対し、韋駄天尊は得意の脚力で追い、雲を踏み、霧を破って瞬時に奪還したとあります。このことから足の速い様を「韋駄天のごとし」といい、 その走力を韋駄天走りと称するようになりました。
韋駄天尊のご神徳は、勇猛迅速ということで、大名の間では守護神又は戦神として祭祀されていました。そのうち、しだいに、一般に信仰は拡がり、勝負事の神、あるいは足の神として尊崇されて行きます。殊に腰部より足先にかけての疾患等はその信心により癒されるとされました。
▼浅草から角筈へのご遷座にまつわる伝説があります。
もともとは、立像であった韋駄天尊像を秋元家屋敷の浅草新寺町から角筈へ運搬しようと請け負った者が、 男一人と荷車一台を手配して訪れたところ、高さ6尺、重さ300貫程という想像以上の大きさでした。 浅草から角筈までは一里半はあり、駿河台や九段の坂もこれでは覚束ないとして後日準備万端臨まねばと考え、出直そうとしました。その時、運搬人の耳元で「心配することはない。坂やなんぞは俺れが後押してやるから運べ運べ」とささやく声が聞こえました。 やってみるかと韋駄天尊と蛯子稲荷大明神の御二柱を車上に上げ、荷車を引き出してみると、坂道になっても平坦を行く軽さで、 角筈下屋敷にまで運び込んでしまったと伝えられています。
これは確かに、韋駄天尊の御加護だと当時の人々は云い、より崇敬の念を篤くしました。

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▼韋駄天尊並んで、商売繁盛の神様「蛯子稲荷大明神」があります。
「蛯子稲荷大明神」は「うばこいなりだいみょうじん」と読みます。
「蛯」は本来「えび」と読みます。「蛯」は海老の別の表記ですが、蛯には老の字が含まれていることから、「うばこ」と呼んだのでしょう。
商売繁盛の神として韋駄天尊と共に浅草から当地に遷座されました。「蛯」は本来「えび」と読み、 「えびすいなり」と読むのが普通と思われますが、近隣の人々には「うばこいなり」と呼び、親しまれ崇敬されているとのことです。
創建の年代や詳しい由緒は不明です
韋駄天尊の祠の脇には、私財を投じて、この地の祠の建立や、稲足神社(東京都あきる野市)の遷座に尽力された野村専太郎ご夫妻の像があります。

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「衷心より韋駄天尊に対し 感謝と奉仕を捧げる姿」ということです。

昨年7月オープンした 新・飯田橋駅。「牛込駅の復活!?」

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昨年7月オープンした飯田橋駅西口駅舎

コロナ禍であまりあちこちに出かけていないうちに、まちの風景が変わっています。
飯田橋駅もそうでした。
飯田橋駅に新しい西口駅舎がお目見えしたのは、昨年(2020年)7月のこと。JR飯田橋駅で乗り降りしなかったです。
それまで、JR飯田橋駅のホームは急カーブ上にあり、電車とホームの隙間が大きく空いていて「都内で最も危険なホーム」と呼ばれていました。安全対策のため、ホームは200m市ヶ谷寄りに移設され、西口駅舎も新しくなりました。
牛込見附の橋から西口駅舎を見ると、とてもスマートです。駅前も広くなっています。

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サクラテラス側から見た牛込見附とサクラ

牛込見附の石垣まで来ると、桜が満開でした。花が小ぶりで、コヒガンですかね。
石垣との対比なかなかすてきです。飯田橋サクラテラスとの対比も大きく見えます。

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桜と植木の花を観て少し進むと、先にピザ店と薬局が建っています。そしてその角に外濠の土手に上がる場所です。
実は、そこあたりがJR中央線の前身・甲武鉄道の「牛込駅」があった場所に位置しています。

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かつて「牛込駅」があった場所

甲武鉄道の“甲”は甲州、武は“武州(武蔵)”、つまり、甲武鉄道は東京と山梨とを結ぶ目的で建設された私鉄でした。社名からもうかがえるように、本来なら甲武鉄道八王子駅から西進するはずでした。
しかし、八王子より西側は山が険しく、鉄道の建設は困難が予想されました。そこで、需要が見込める東京の都心部への進出を検討しました。しかし、新宿駅から都心部へ進出するには、外濠という大きな壁がありましたが、
甲武鉄道はこの外濠を利用して線路を敷設することにします。
明治22年(1889)4月に新宿 ー立川間、8月には 立川 -八王子間を開業します。
「牛込駅」は明治27年(1895)10月に新宿 ー牛込間の開通と同時に開業しています。
そして、翌明治28年(1896)4月に現在の水道橋駅に近い大和ハウス東京ビル付近に飯田町駅が開業します。
牛込駅と飯田町駅は近いですが、当時の電車は1両編成で、さして問題ではなかったようです。
明治37年(1904)8月に飯田町 ー中野間で電車の運行が開始します。
ところが、明治39年(1906)10月に甲武鉄道鉄道国有法によりに国有化になります。
そして、昭和3年(1928)に中央本線複々線化に伴い、牛込駅と飯田町駅を統合して、中間に飯田橋駅が開業し、牛込駅は廃止されました。

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外濠の土手から見ると、新しいホームがすぐ下にあった。

「牛込駅」があった場所から土手に上って、ホームを見ると、移設された新ホームがすぐ下にありました。
今回の工事はホームにおける利用者の安全性を向上させる目的でしたが、ホームが新宿側に200m寄ったことで、「牛込駅の復活!?」といった声も出ている、という記事が出ていましたが、なるほどと納得しました。

 

与謝野鉄幹・晶子 麹町区の暮らしから。

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与謝野鉄幹 晶子 居住跡」の碑です。
大正4年(1915)与謝野鉄幹・晶子は、麹町区中六番町から麹町区富士見町へ転居しています。その前後のことを年表で拾ってみます。
明治32年(1899)(鉄幹26)11月~明治34年(1901)4月 麹町区上六番町45番地(千代田区三番町22付近)
明治33年(1900)与謝野鉄幹が『明星』を創刊。北原白秋吉井勇石川啄木などを見い出し、ロマン主義運動の中心的な役割を果たしました。しかし、当時無名の若手歌人であった鳳晶子(のち鉄幹夫人)との不倫が問題視されます。
明治34年(1991)(鉄幹28・晶子23)晶子は6月に実家を飛び出し、鉄幹を追いかけて上京。
結婚後、与謝野晶子は現在の渋谷の道玄坂あたりに住まいを移しています。
明治41年(1908)『明星』は第100号をもって廃刊になります。
明治43年(1910)8月~明治44年(1911)11月(鉄幹37・晶子32)麹町区中六番町3番地(千代田区四番町11付近)
明治44年(1911)11月~大正4年(1915)8月(鉄幹38・晶子33)麹町区中六番町7番地(千代田区四番町9付近)
『明星』廃刊後の鉄幹は極度の不振に陥っていました。明治44年(1911)鉄幹は、晶子の計らいでパリへ行きます。そして晶子も渡仏します。フランス国内からロンドン、ウィーン、ベルリンを歴訪しました。
しかし、創作活動が盛んとなったのは晶子の方で、鉄幹は依然不振を極めていました。
しだいに栄光に包まれて行くる妻の陰で苦悩に喘いでいたと言えます。
大正4年(1915)3月、鉄幹が第12回総選挙に故郷の京都府郡部選挙区から無所属で出馬して、落選します。
大正4年(1915)8月~昭和2年(1927)9月 (鉄幹42・晶子37)麹町区富士見町5丁目9番地(千代田区富士見町2-10)
大正8年(1919)鉄幹は、慶應義塾大学文学部教授に就任、昭和7年(1932)まで在任します。
大正10年(1921)建築家の西村伊作と、画家の石井柏亭そして鉄幹・晶子らとともにお茶の水駿河台に文化学院を創設します。男女平等教育を唱え、日本で最初の男女共学を成立させました。晶子はのち文化学院女学部長に就任します。

▼鉄幹と晶子は、結婚して6男6女と子だくさんに恵まれましたが、鉄幹の詩の売れ行きは悪くなる一方で、
鉄幹が大学教授の職につくまで夫の収入がまったくあてにならず、昌子は、孤軍奮闘しでした。
来る仕事はすべて引き受けなければ家計が成り立たず、歌集の原稿料を前払いしてもらったりしていました。
しかし、晶子は、そうした多忙なやりくりの間も、即興短歌の会を女たちとともに開いたりし、残した歌は5万首にも及びます。
源氏物語』の現代語訳『新新源氏』、詩作、評論活動とエネルギッシュな人生を送り、女性解放思想家としても巨大な足跡を残しました。
麹町区富士見町5丁目9番地へ
大正4年(1915) 8月 鉄幹と晶子は麹町区中六番町7番地から麹町区富士見町5丁目9番地に転居 しました。
転居の理由はわかりませんが、鉄幹が衆議院議員に立候補して落選し、また無口となり、見あたるような仕事もなく、家へ籠もりがちになっていたことが原因の一つであったことは確かだと思います。
晶子の方は、童話を書き、小説を書き、帰国後ぐっと増えた評論と、仕事の枠が広がっているのに比べて、鉄幹は大正8年に慶応義塾大学教授に就任するまで、表だったことが年譜に残されていません。
▼鉄幹・晶子が住んだ頃は、まだ飯田橋駅はなく 甲武線の「牛込停車場」でした。
甲武鉄道は新宿から都心へ向かう線路を徐々に延ばして行きました。
明治27年には牛込駅まで、28年に飯田町駅、37年にお茶の水駅、41年には昌平橋(現在の秋葉原付近)まで、
外濠・神田川沿いを走る鉄道線が延長されていったのです。
関東大震災の翌年の大正13年(1924)
関東大震災による東京の壊滅状態を目の前にして鉄幹と晶子は子供らの成長に合わせた住宅を整えるため、郊外への転居を決めました。
大正13年(1924)に子どもたち、昭和2年(1927)に鉄幹と晶子は、富士見町から井荻村(杉並区南荻窪)へ転居しました。そのころの「井荻村下荻窪」は、畑ばかりの土地でした。そこに晶子自らの設計した家を新築し、晩年を過ごしました。

六番町を東西に伸びる番町文人通り

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番町文人通り

六番町を東西に伸びる番町文人通りは島崎藤村泉鏡花有島武郎菊池寛藤田嗣治など多くの文化人が住んだ歴史ある通りです。
現在では閑静な高級住宅街で、瀟洒な低層マンションがいくつも並び、その道沿いにはかつての文人たちに想いを馳せるパネルが貼ってあります。まず全体の案内板から。

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番町文人通りの案内板より

その中のいくつかのパネルを見て行きます。

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島崎藤村旧居跡

島崎藤村  明治5年(1872)ー昭和18年(1943)
明治学院を卒業した藤村は、明治24年(1891)に「女学雑誌」の翻訳の仕事をしたことをきっかけに、翌年秋から明治学院の教壇に立ち英語と英文学を教えるようになります。藤村20歳の時です。
そして、明治26年(1893)教え子の佐藤輔子に失恋し(輔子にはすでに婚約者がいました)、藤村は失意のうちに一時女学校を辞職します。翌年には再び教壇に復帰しますが、その熱の入らぬ授業は、生徒の相馬黒光をして「ああもう先生は燃え殻なのだもの」(相馬黒光「黙移」)といわしめました。想いを寄せた輔子を、藤村は『春』で勝子として登場させています。
時は移り、藤村は国際ペンクラブ大会に出席のためアルゼンチンへ渡り、帰路アメリカ、フランスをまわって、昭和12年(1937)1月に帰国すると、新居を六番町に移します。ペンクラブ大会に同行した有島生馬の熱心な誘いがあったのだろうと言われています。住まいから5分足らずのところにあった、かつての明治女学校跡を彼はどんな思いで歩いたのでしょうか。

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有島邸のあった所の現在

<六番町の有島邸は、大正・昭和文学の梁山泊
有島武郎(作家) 有島生馬(画家) 里見弴(作家)

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白樺派の作家として知られる有島武郎をはじめ、その弟の洋画家で作家でもあった有島生馬や作家・里見弴 などが育ったのが下六番町(現:六番町3)でした。
政府の役人から実業界に転じた彼らの父・有島武が明治29年(1896)に大きな長屋門がある広大な旗本屋敷を買い取ったのです。
有島武郎の死後は、有島兄弟たちが住む一方、広大な敷地の一部を作家・菊池寛が一時住み、文藝春秋社もここに置いていました。
画家の有島生馬、作家の は弟。妻安子は陸軍大将男爵神尾光臣の次女。長男は俳優の森雅之。指揮者で作曲家の山本直純は妹の孫です。
旗本屋敷の有島家の前には、泉鏡花の二軒長屋がありました。
『私が夏庭に出て、竜吐水で水をまきながら、先生の玄関先にもと思って、ちゅうちゅうやっていると、奥さんが格子窓から首を出して、あなた、座敷の中へ水が飛び込みますよ、と怒鳴られる近さである。』(『大東京繁昌記』山手編)と、お向かいの家に住んでいた有島生馬は書いています。
有島武郎(ありしま たけお) 明治11年(1878) ー大正12年( 1923)
学習院中等科卒業後、農学者を志して北海道の札幌農学校に進学、キリスト教の洗礼を受けます。明治36年(1903)に渡米。ハバフォード大学大学院、その後、ハーバード大学で歴史・経済学を学ぶ。(ハーバード大学は1年足らずで退学)。
帰国後、志賀直哉武者小路実篤らとともに同人「白樺」に参加します。1923年、軽井沢の別荘(浄月荘)で波多野秋子と心中しました。
菊池寛 明治21年( 1888)ー昭和23年(1948)
小説家・劇作家として活躍する一方、雑誌「文藝春秋」を創刊して文壇に君臨。一高時代の同級生であった芥川龍之介久米正雄らとともに第三次「新新潮」の同人となる。小説「忠直卿行状記」「恩讐の彼方に」や戯曲「父帰る」などを発表して新進作家としての地位を固める。またジャーナリスト的な視点から文藝春秋社を設立し、一大出版社に育て上げました。大正15年(1926)、有島邸の一部を自宅兼文藝春秋社としました。

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泉鏡花旧居跡の近く現在の様子

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泉鏡花(いずみ きょうか) 明治6年(1873)-昭和14年( 1939)
明治6年金沢市に生まれました。明治24年(1891)牛込の紅葉宅を訪ね、快く入門を許されて、その日から尾崎家での書生生活を始めます。
独特の文体で幻想的・神秘的な文学世界を構成しました
鏡花は、明治43年(1910)にそれまで住んでいた土手三番町から、
元旗本屋敷だった広大な有島邸の向かいの下六番町11の二軒長屋に転居し死去まで神楽坂の元芸妓桃太郎のすずとここで暮らしました。
年齢で言えば、37歳から66歳で歿するまでの29年間。二軒長屋の左側で過ごしました。
この家から『夜叉ヶ池』『天守物語』などの名作が生みだされ、すでに「婦系図」で人気を博していた彼のもとには、多くの作家たちが集まってきました。

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明治女学校跡の現在の建物

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●先進的な女性を育んだ明治女学校
明治18年(1885)、木村熊二夫妻によって飯田町に創立された明治女学校は、当時「女学雑誌」の編集人で熱血の人でもあった巌本善治が引き継ぎ、明治23年(1890)に麹町区下六番町6番地(現:六番町3)に移転してきました。
羽仁もと子相馬黒光、大塚楠緒子、清水柴琴、野上弥生子など、明治・大正・昭和に活躍する数多くの女性たちを育てたことで有名です。
当時は寄宿舎制度で、教員・生徒がこの地に住んでいました。
講師として、若き島崎藤村、北村透谷、星野天知、平田禿木戸川秋骨馬場孤蝶といった「文学界」の同人たちが、明治女学校の教壇に立ちました。
島崎藤村が教え子の佐藤輔子に失恋したのもここにあった明治女学校です。
明治29年(1896)火事に遭い校舎は焼失してしまいます。その後は巣鴨庚申塚に移転し、明治41年(1908)には、その輝かしい歴史を閉じることになります。

与謝野晶子・寛の旧居跡は、別の機会に入れます。

「番町」の歴史を嗅ぎ取る。

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江戸の「番町」を記した切り絵図です。すべて名前が載っています。大番組の旗本だったからです。
千代田区の「番町」エリアは皇居の西南に位置し、高級マンションが建ち並ぶ住宅地です。
江戸時代の旗本のうち、将軍を直接警護するものを大番組と呼び、大番組の住所があったことから番町と呼ばれました。
大番組は設立当初、一番組から六番組まであり、これが現在も名目だけ一番町から六番町に引き継がれています。
しかし江戸時代の大番組の組番号と、現在の町目の区画は一致していません。
江戸時代の番町の区画は、通りに面して向かい合う二連一対の旗本屋敷の列を基準に設定されていました。(名前が道を挟んで姓を付き合わせています)
そのように、「番町」という地名には、歴史を感じます。
実は上に載せたような、江戸の「切絵図」は「番町」のわかりづらさから発案されたにです。
切絵図の「番町」収図範囲は、四谷御門・市ヶ谷御門・市ヶ谷濠・九段・富士見・番町・麹町の地域です。この一帯は幕閣の中堅幹部・組番の役宅密集地で、麹町通りの町地を除く約9割が旗本屋敷となっていました。
それに、役職が変わるたびに移転するので、「切絵図」改版も多かったようです。
旗本屋敷街と外桜田の大名屋敷街に挟まれて伸びるのが麹町です。麹町は江戸で最も古くからある町地で、武家の衣食を支えて栄えてきました。

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番町文人通りの道に建つ「番町文人通り」の碑

前に記した心正寺と藤田嗣治旧居跡の道を少し来ると、江戸時代、大番組の大阪城、二条城を敬語する組頭のひとり、笠原平太夫の屋敷跡に来ます。この前に「番町文人通り」碑があります。「番町」のことを詳しく記しています。

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番町の道は江戸時代とあまり変わっていません。切り絵図散策にも楽しい町です。

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「番町」は、このように江戸時代武家地だったことから、広い敷地が必要な学校が多く,イギリス大使館ローマ法王庁大使館なども多く建っています。
また、明治から大正、昭和にかけて多くの作家や文化人に愛された街でもあり、小説家の島崎藤村与謝野晶子与謝野鉄幹永井荷風菊池寛、作曲家の滝廉太郎なども居を構えた街として知られています。その住居跡や史跡碑などからは歴史と文化の香りを感じる事ができます。
第2次大戦後,今は移転しましたが、日本テレビをはじめ、大きな会社,事業所が進出し、高級マンションも多く建ちました。

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番町小学校:文政年間(1818~29)以前にはこの地に、四谷門の定火消し屋敷がありました。