岸田劉生と菱田春草の名画に見る、明治末から大正にかけての代々木の風景。

新宿の角筈から西参道を南に進みます。右手側にはかつては大きな土佐藩藩主だった・山内家がありました。
今は、代々木3丁目で、マンションなどが密集していますが、明治から大正にかかては、代々木というこの地区は水田や、畑などが拡がり、武蔵野を代表するような雑木林もあったようです。
切通しの坂と呼ばれる道の右角に立正寺(法華宗)があります。

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立正寺と左が切通の坂。下は道票のアップ写真

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そのお寺の前に「岸田劉生が描いた 切通しの坂」の道標があります。
岸田劉生(きしだりゅうせい)は大正4年(1915)『道路と土手と塀(切通之写生)』(重要文化財東京国立近代美術館所蔵)を描いています。
岸田劉生はここからすぐ近くの「代々木山谷」に大正2年(1913)から大正5年(1916)まで、4年間住んでいました。
そして、当時は、開発中だった、それで、切通しの赤土が盛られていたりした、この地域の絵をたくさん描いています。
その代表作が、『道路と土手と塀(切通之写生)』です。

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岸田劉生『道路と土手と塀(切通之写生)』

切通し」は崖地を切り拓いたものです。むき出しの赤土(関東ロ-ム層)が開発途上の積まれた土です。
絵の左側は旧山内邸の塀ということになります。赤土に影を落とす電柱、おそらく出来たばかりの電柱で。これも当時の未来に向かう、時代を反映しています。
岸田劉生は、明治24年(1891)岸田吟香の子として文明開化が進む銀座に生まれました。17歳で画家になることを決意し、白馬会葵橋洋画研究所へ入門。その2年後には文展に入選するなど、早くからその才能の片鱗を見せていました。
明治44年(1911)海外の最新の芸術を紹介していた雑誌『白樺』と出会い、その作風は一変します。ゴッホセザンヌなどの西洋近代絵画の影響を強く受けた作品を制作しました。しかしながら、数年後にはその近代的な道から離れ、対象の実在感を細密に描写し、「内なる美」を描き出そうとする独自の写実表現を追求します。
さらに、大正8年(1919)の奈良と京都への旅行をきっかけとして東洋美術に開眼し、中国の宋元画や近世初期風俗画などを収集しながら、自身の作品にも「写実以上」の「深い美」や「卑近美」という独特な表現を、日本画や油彩画で求めるようになりました。
昭和4年(1929)、胃潰瘍と尿毒症のため38歳の若さで急死しました。
ります
銀座生まれ、銀座育ちの都会っ子であった劉生は、そのころまだ田舎だった代々木附近の開発の様子は、新鮮な驚きだったのかもしれません。
岸田劉生はこういう文章を書いています。
「この頃道を見ると、その力に驚いたものだ。地軸から上へと押し上げてゐる様な力が、人の足に踏まれ踏まれて堅くなった道の面に充ちてゐるのを感じた 赤土の原などを見てもそれを感じた そこに生えてる草は土に根を張つて、日の方へのびてゐる。その力を見た。自分はよく、これは全く、俺一人の見るものだ、これこそ、自分の眼で見るものだ、セザンヌでもゴオホでもない、といふ事をよく感じた。」
力強い絵です。

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『道路と土手と塀(切通之写生図)』が描いただろう場所からの現風景。

『道路と土手と塀(切通之写生図)』が描いただろう場所に立って眺めるとに、坂に面した土盛りとその擁壁(ようへき)はすべて取り払われ、作品の面影はありません。坂道のかたちには、どことなく当時の風情が残っている気はします。

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その少し先からの現風景。ここから見ると、坂の感じがよくわかる。

この坂あたりを描いた最初のころの『代々木付近』の描点もこの少し上あたりだったようです。今は、マンションが建って、その雰囲気は感じられません。

もう一人、岸田劉生と同じ頃、代々木を描いた日本画家がいます。
菱田春草(ひしだしゅうんそう)です。
菱田春草は、明治7年(1874)、長野県飯田町に生まれました。明治22年(1889)に上京して、翌年東京美術学校に入学、岡倉天心、橋本雅邦(がほう)の薫陶を受けて明治28年に卒業。明治36年(1961)に大観とインドへ旅行。37年には天心、大観らとアメリカへ渡り、翌年ヨーロッパを経て帰国。明治39年(1906)美術院の移転に従って茨城県五浦(いづら)に移り、第1回文展にはここから『賢首菩薩』を出品しました。
眼病(網膜炎)を患い、明治41年(1908)、東京に戻って代々木に住み、回復すると写生に励みます。
菱田春草が、代々木で暮らしたのは、岸田劉生より5年ほど早いです)
明治42年の第3回文展に出品した『落葉』は近代日本画中、屈指の名作の評価を得ました。
明治44年腎臓疾患(腎臓炎)で、36歳の夭折でした。
明治41年(1908)から明治44年(1911)の間、近場で3軒ぐらいの家を渡り歩いています。

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代々木山谷小学校のグランドの外にある「菱田春草終えんの地」の標柱

「代々木山谷小学校」の角地に「菱田春草終えんの地」の標柱があります。
亡くなったのは、もう少し先の小田急線が走るあたりだったと言われます。
代々木山谷小学校は、明治神宮造営時に開校。それ以前は住宅地の中の藪だったそうで菱田春草が観察に訪れたと思われます。

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菱田春草「落葉」左

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菱田春草「落葉」右


『落葉』(これも重要文化財)は、・当時まだ郊外で開発が顕著にならない時代の、代々木周辺の雑木林がモチーフになっているといいます。
菱田春草の『落葉』では雑木林の地面に落ちた葉を叙情的に描いており、電柱などは全く出てきません。その間に開発が進んだという事情があるかもしれませんが、電柱を描いた岸田劉生と描かない菱田春草、まちの捉え方の違いが、如実に出ています。
菱田春草は同じような雑木林の絵を何枚も描いています。
当時の代々木は、まだ国木田独歩の『武蔵野』の一部でした。
国木田独歩は、佐々城信子と離婚して、明治末期に代々木公園の南端のNHK放送センター付近に住んでいました。代表作の『武蔵野』は、自宅付近の雑木林を歩いて書いたと言われます。明治から大正にかけて、代々木地域は「武蔵野」だったのです。
「代々木」を武蔵野の落ち着いた風景として描いた菱田春草。開発する都市の躍動を描いた岸田劉生。どちらの作品も重要文化財です。それにしても、2人とも30代で亡くなっています。残念です。

小石川の林泉寺にある「縛られ地蔵」

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小石川の林泉寺にある「縛られ地蔵」

「お地蔵さん」めぐりもしてみたいと思っています。
茗荷谷駅の近くの林泉寺は、慶長7年(1602)伊藤半兵衛長光の開基、通山宗徹を開山として創設された曹洞禅宗のお寺です。
初めは普蔵院と号しましたが、寛文3年(1663)に林泉寺と改められました。
文政の頃は境内拝領地1685坪の広さがあったそうです。
境内には縄で縛られた石仏があり、俗称「縛られ地蔵」といい、江戸中期に著された「江戸妙子」には、小日向林泉寺の縛られ地蔵は大変有名であると書かれています。
「しばり地蔵」ともいわれるようですが、開基の伊藤半兵衛長光が両親の供養のために寄進したと伝わります。
33世林泉寺住職江田和雄和尚によると「寺社奉行が町民の不満対策のために地蔵を縛らせることで解消させようとした」と推測しています。
江戸砂子には、願掛けのために地蔵を縛り、願いが叶ったらほどくと言われているとに書かれているようです。
林泉寺は、何年か前に改装されたようで、きれいになっていました。
そして、新旧の「縛られ地蔵」がありました。旧来の「縛られ地蔵」は400年もたっていてもろくなっているのでさわらないでくださいの注意書きがありました。

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400年まえからの「初代縛られ地蔵」

荒縄で縛られていますが、ネットの写真でみると、ビニール紐で縛られていたのもありました。さすがに風情もないし、ビニール紐は取り払われたのでしょう。
お地蔵さまを縛っている縄をよく見ると、5円玉がついていました。

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新しい「縛られ地蔵」。よく見ると、5円玉が光っています。


東京都内で「しばられ地蔵」として有名なのは、水元公園の近くにある南蔵院の「しばられ地蔵」です。
こちらの「しばられ地蔵」は大岡政談に出て来ます。
日本橋の呉服屋の丁稚がお地蔵様の前で居眠りをしていて、反物を盗まれ訴え出ます。
南町奉行大岡越前守は「犯行現場のそばにいながら、悪事を見逃すとは、地蔵も同罪」ということでお地蔵さんに縄をかけ、江戸市中を引き回し奉行所へと向かいました。
そうしたら物見高い野次馬が奉行所へとなだれ込んで来ました。大岡越前守は「許可なく奉行所へ入るとは、不届き至極。罰として反物一反の科料を申し付ける!」。
後日、集まった反物の中に盗まれた反物があり、犯人は捕まって一件落着したといったお話です。

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光林寺の縛られ地蔵の案内に、南蔵院の「大岡政談」のことも書かれていました。

また、南品川の願行寺にも「縛り(縛られ)地蔵」がおいでになるようです。
それらの「縛られ地蔵」にも、一度お参りしてみようと思っています。

英国人外交官アーネスト・サトウゆかりの屋敷跡

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富士見坂 法政大学80年館前 アーネスト・サトウの碑

新見附橋から、靖国神社方面へ続く富士見坂を上り、法政大学80年館裏門にさしかかると、道路側に向いて銘板をはめ込んだ石碑があります。
この地が英国人外交官アーネスト・サトウ(1843〜1929)ゆかりの屋敷跡であることがサトウの功績とともに銘記されています。

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法政大学80年館が開館した昭和56年(1981)年3月に法政大学が建てたものです。
『一外交官の見た明治維新』などの著書で知られるアーネスト・サトウは、文久2年(1862)に英国駐日公使館の通訳(当初は見習い)として来日し、幕末から明治維新の動乱期にオールコック、パークス両公使を補佐しました。明治17年(1884)にいったん日本を離れますが、明治28年(1895)に駐日公使として帰任、明治33年(1900)まで滞在しました。
アーネスト・サトウは、明治8年(1875)2度目の帰国となるまでに通訳としての職務を果たす傍ら、武田兼(たけだ・かね)と正式な結婚ではありませんでしたが、2男1女をもうけています。(武田兼は、伊皿子の指物師の娘という説と、イギリス公使館などに出入りしていた植木職人・倉本彦次郎の娘とする説があります。)

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武田兼

アーネスト・サトウは家族のため、明治17年(1884)に麹町区富士見町4丁目6番地(当

時)の旧旗本屋敷を購入しました。そして、サトウ帰国後も一族はここで暮らし続けました。

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富士見坂上、左に白百合学園、右の塀の中が「靖国神社

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アーネスト・サトウ


アーネスト・サトウの日本滞在は、通訳官として文久2年(1862)から明治16年(1883)、そして駐日公使としては明治28年(1895)から明治33年(1900)まで。併せると、25年間、一時帰国はありますが、日本に滞在していたことになります。
武田兼とは入籍はしませんでしtが、子供らは認知して経済的援助を与えていました。
日本山岳会設立や尾瀬の保護に努めるなど日本を代表する植物学者として優れた業績を残した武田久吉(1883〜1972)は、次男です。
「サトウ」という姓は、当時スウェーデン領生まれドイツ系だった父の姓で、日本の『佐藤』とは関係ありません。
しかし、親日家だったサトウは、漢字を当てて「薩道」または「佐藤」と日本式に姓を名乗ったりしています。
本人も自らの姓が日本人になじみやすく、親しみを得られやすい呼び方だったことが、『日本人との交流に大きなメリットになった』と言っています。
武田久吉の娘、アーネスト・サトウが、ここの家について語った言葉があります。週刊朝日  平成26年(2014)9月5日号のインタビュー記事です。
「祖母と父が住み、私が生まれ育った家は、靖国神社の裏手にありました。祖父が祖母のために用意した家で、昔の旗本屋敷でした。
 冬は寒くて、とても住みづらい。だだっ広い木造の平屋で、天井が高くて、すごく太い梁がありました。和室ばかりでしたけど、なぜか一部屋だけじゅうたんが敷いてあり、椅子と丸いテーブルが置いてありました。祖父が日本にいたとき、その部屋で食事をしたのかもしれない。
 500坪の敷地には、池もありました。父が山からとってきた珍しい木や植物がたくさんあって、昆虫もいましたし、鳥も飛んできました。ほんとうに楽しい庭だったんです。
 でも、40年ほど前、相続税が大変で、泣く泣く手放しました。現在は、建物も池もなくなって、法政大学の図書館が立っています。
 今でも懐かしく思います。あの家が祖父からもらった宝物でした」
法政大学がこの武田邸を購入したのは昭和51(1976)年でした。
このインタビュー記事には、こういう言葉もあります。
「その後、祖父は各国に赴任し、晩年はイギリスで暮らしました。基本的に、祖父と家族は離れて暮らしていたのです。
ずいぶん前に、祖母の遺品を整理しようと段ボール箱を開けてみましたら、祖父から家族あての手紙が500通くらい出てきました。イギリスや赴任先の国からの手紙を、祖母はぜんぶとっておいたんです。」

なお、駐日英国大使館の桜並木はアーネスト・サトウが植樹を始めたものです。それが機縁で、千鳥ヶ淵が桜の名所になりました。

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英国大使館前の、アーネスト・サトウの桜の植樹の記念碑

 

牛ヶ渕と元九段会館。一部保存してオフィスビルへ工事中。

靖国神社の方から田安門の方にわたる歩道橋のそばに、桜が咲いていました。

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歩道橋のそばに手に取るようにあった桜

その歩道橋から高燈籠ごしに牛ヶ淵の方を見ると、工事中がみえました。

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歩道橋から高燈籠越しに牛ヶ渕の方を望むと工事の様子

田安門橋から工事を見ると、元九段会館の所でした。

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田安門橋から牛ヶ渕を見ると、元九段会館

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工事中の元九段会館

九段会館は「旧軍人会館」で、昭和9年(1934)に、予備役、後備役の軍人の収容・訓練の場として建設されました

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昭和9年 竣工当時の絵葉書。元は靖国神社の敷地でしたが陸軍省の要請で軍人会館を建設しました。

当時流行していた洋風ファサードに城郭の屋根を載せた「帝冠様式」というスタイルを取り入れた建物でした。
昭和11年(1936)の二・二六事件の時には、ここに戒厳司令部が置かれました。
昭和20年(1945)9月に連合軍に接収され、昭和32年(1957)1月まで連合軍の宿舎として使用されていました。
進駐軍撤退に伴い接収解除となった後、国は当施設の払い下げを公示、最終的に日本遺族会に対し無償払い下げを行うことになります。
そして、無償貸与を受けた日本遺族会が宿泊・結婚式場・貸しホール等の各事業を運営してきました。
ところが、平成23年(2011)3月11日 、東京観光専門学校の卒業式の最中に東北地方太平洋沖地震発生。天井崩落で2名死亡してしまいました。
九段会館は、この日以降休館に追い込まれ、同年4月12日 に廃業しました。
そして、平成29年(2017) 土地・建物を東急不動産が落札。この建物の歴史的価値を生かしながら高度利用を図ることとなっています。
工事が進んでいます。竣工は、2022年7月の予定です。

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2019年9月17日 発表の九段会館建替え 完成予定図 (出典:建設通信新聞

2021年、コロナ禍の「千鳥ヶ淵の桜」

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田安門から眺めた千鳥ヶ淵

徳川家康が、江戸入府したのは天正18年(1590)。相当数の家臣団を伴うため、まず飲料水確保が重要課題でした。そこで、家康がとった策は、江戸城の周りの小河川を堰き止め飲料水用ダム建設でした。
それが千鳥ヶ淵と牛ヶ淵です。
名前の由来は,壕がチドリの羽根を広げた形に似ていることから、千鳥ヶ淵
牛ヶ淵は、『江戸名勝志』に、「九段坂脇の御堀をいふ、昔此処へ銭を積みたる牛落ちてその牛落ちてその牛死せよりの名といふ」とあります。
田安門から、千鳥ヶ淵の桜を見物しました。今年の桜は開花が早く、散るのも早いようです。お堀の水に桜の花びらが敷かれていました。

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千鳥ヶ淵付近は桜の名所として有名で、桜の季節になると多くの人で賑わいます。

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今年は、コロナ禍で、桜まつりは中止になっています。
でも、たくさんの人が花見にみえていました。いつもなら、お堀でボートを楽しむ人が多いですが、ボートの姿もありません。
遠くから少しピンクかかった雲のような桜を見つめていました。

靖国神社「高燈籠(常燈明台)」

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歩道橋の奥が靖国神社で,左に見えている銅像は「子爵品川弥二郎卿像」です。

田安門前に立つ靖国神社の高燈籠(たかとうろう)です。和洋折衷の不思議な建物です。明治4年(1871)に靖国神社(当時は東京招魂社)の前に、靖国神社に祭られた霊のために建てられました。
高燈籠は本来社寺仏閣に献燈された燈台のことです。
常燈明台(じょうとうみょうだい)とも呼ばれます。

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九段坂の高台に設けられていたため当時はこの高燈籠から東京湾はもちろん房総半島まで見えたということです。
そして、この高燈籠の明かりは、品川に出入りする船の良い目印になっていたということです。
常夜灯や灯明台としての役割を果たしていました。それで、常燈明台とも呼ばれていたのだと思います。
高さは16.8m、構造として上部は洋風、下部は和風の様式です。
西洋の文化を取り入れ始めた時代の明治調をのこしている建造物として、江戸から東京に生まれかわる帝都のシンボル、時代の象徴だったのです。

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当初は、靖国神社正面の常夜灯として九段坂沿いの角に建設されましたが、道路の拡幅工事に伴い昭和5年(1930)に現在地に移転しました。
錦絵にも描かれます。

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二代目広重『飯田町九段坂の図』

九段を描いた絵の中で、小林清親木版画は「光線画」の技法で夜の風景の光の情感をしっかり描いています。

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小林清親 木版画『九段坂五月夜』

 

春の「小石川植物園」、桜が満開。

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小石川植物園」満開の桜

小石川植物園」と呼ばれていますが、正式な名称は「東京大学大学院理学系研究科附属植物園本園」です。元々は、江戸幕府により薬になる植物を育てる目的で、貞享元年(1684)に開園された小石川御薬園です。
江戸幕府は、人口が増加しつつあった江戸で暮らす人々の薬になる植物(薬草)を育てる目的で、寛永15年(1638)に麻布と大塚に南北の薬園を設置しました。やがて大塚の薬園は廃止され、貞享元年(1684)、麻布の薬園を5代将軍徳川綱吉の小石川にあった別邸に移設したものがこの御薬園でした。
その後、8代徳川吉宗の時代になり敷地全部が薬草園として使われるようになります。
享保7年(1722)、将軍への直訴制度として設置された目安箱に町医師小川笙船(おがわ しょうせん)の投書で、江戸の貧病人のための「施薬院」設置が請願されると、下層民対策にも取り組んでいた吉宗は江戸町奉行大岡越前守忠相に命じて検討させ、この御薬園内に診療所を設けましたた。これが小石川養生所です。 山本周五郎の『赤ひげ診療譚』や、この作品を映画化した黒澤明監督の『赤ひげ』は、養生所を舞台としています。

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旧養生所の井戸:享保7年(1722)年に設立された小石川養生所で使われた井戸です。

大正12年(1923)の関東大震災の時には、飲料水として役立ちました。

また、御薬園は、大岡越前守忠相が庇護した青木昆陽が飢饉対策作物として享保20年に甘藷(サツマイモ)の試験栽培を行った所としても有名です。国の名勝および史跡に指定されています。

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甘藷試作跡:享保20年(1735)に青木昆陽が、この地でサツマイモの栽培を試みました。

この記念碑は大正10年(西暦1921年)にその功績をたたえて建てられたものです。

2021年3月26日、コロナ禍の春でしたが、園内は、豪華な花を咲かせた染井吉野を中心に多様な桜が、咲き誇っていました。

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手前は藤棚

園内はソメイヨシノだけでなく、多様な桜が植えられています。またたくさんの花々や樹木など、ありとあらゆる植物や薬草が植えられています。

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