八百屋お七ゆかりの大円寺・「ほうろく地蔵」

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大円寺は慶長2年(1597)の開創で、はじめ神田柳原にありましたが、慶安2年(1649)現在地に移り、それから「駒込大円寺」と呼ばれています。墓域には、幕末の先覚者であり砲術家高島秋帆、明治時代の小説家・評論家の斉藤緑(1868~1904)の墓があります。

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大円寺の門から見られるほうろく地蔵のお堂

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ほうろく地蔵のお堂と横には庚申塔

この大円寺に、ほうろく地蔵があります。ほうろく(焙烙)は「ごまなどを煎るための素焼の土鍋」です。そのほうろくを頭にかぶったお地蔵さまです。

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お七の大罪を救うため、熟せられた(ほうろく)を頭に乗せ、お七の身代わりとして、焼かれる苦しみに耐える地蔵として安置されたものです。享保4年(1719)渡辺九兵衛という人がお七の供養にと寄進したお地蔵様です。
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ほうろく地蔵は、頭痛・眼病・耳・鼻の病など首から上の病気を治す霊験あらたかなお地蔵様として有名になりました。
ほうろく(焙烙)は1枚2000円。患部や願いを書いて供えます。
▼中国の殷の時代、「ほうろくの刑」とよばれる残虐無比な刑罰がありました。
炎の上に、油を塗った銅板をおき、罪人を歩かせるというものです。
熱いから飛び跳ねます、その姿が焙烙ではじけるゴマなどに似ていることで、ほうろくの刑と称されたとか。
▼火で焼かれる刑は、日本では、火あぶりの刑です。
そこから来たのかどうか、お七の罪業を救うため、熱したほうろくを頭に被り、自ら灼熱の苦しみを受ける、そういうお地蔵さまが、ほうろく地蔵です。
ほうろく地蔵のまわりにはほうろくが多数奉納されています。
現在では首から上の病気平癒のご利益があるとのことで、ほうろく地蔵尊の前には病気の名前が書かれたたくさんのほうろくが重ねられています。

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永井荷風は『日和下駄』「第二 淫祠(いんし)」で「淫祠は大抵その縁起とまたはその効験のあまりに荒唐無稽な事から、何となく滑稽の趣を伴わすものである」とし、その例として、「芝日蔭町に鯖をあげるお稲荷様があるかと思えば 駒込には焙烙(ほうろく)をあげる焙烙地蔵というのがある。頭痛を祈ってそれが癒(なお)れば御礼として焙烙をお地蔵様の頭の上に載せるのである。」と書いています。

▼前回の圓乗寺で載せなかった八百屋お七の噺があります。落語『お七の十』です。
本郷の八百屋のお七は、恋しい寺小姓の吉三に逢いたさに放火してしまい、鈴が森で火あぶりの刑に処せられます。
吉三は悲しみのあまり吾妻橋から身を投げました。地獄で会った2人が抱き合うと、ジューという音がしました。
お七が火で死に、吉三が水で死んだから火と水でジュー! 又、七と三を足して十。
それでも浮かばれないお七の霊が、夜毎鈴ヶ森に幽霊となって現れる。
ある夜、通りかかった侍に「うらめしや~」。
武士は「恨みを受ける因縁はない」と、お七の幽霊の片足を切り落とします。
お七が片足で逃げ出したので、侍「一本足でいずこにまいる」
お七の幽霊「片足(わたし)ゃ本郷へ行くわいな」。

 

「八百屋お七の墓のあるお寺」圓乗寺

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白山権現(神社)付近の切り絵図

八百屋お七の墓のあるお寺」圓乗寺に行きました。圓乗寺は文京区白山1丁目34番地にある天台宗の寺です。(切り絵図は「円乗寺」です)。
寺伝によると、圓乗寺は、圓栄法印が天正9年(1581)本郷に密蔵院として創建したのが始まりで、元和6年(1620年)寶仙法師が圓乗寺と寺号を改め、寛永8年(1631)に当地へ移転したということです。江戸時代には、境内が1,770坪もありましたが、戦後の混乱期に地域の人に分け与えたとも伝えられています。

寺の前の浄心寺坂は、別名お七坂とも呼ばれています。
その於七地蔵尊にお目にかかりたいと思って行ったのですが、圓乗寺の門前は、すっかりきれいに改修されていました。

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浄心寺坂から圓乗寺の入り口

以前は、その坂道に面して「八百屋於七地蔵尊」の赤い奉納旗がひらめく御堂がありました。「八百屋於七地蔵尊」の石碑と、この地の旧地名である「指ヶ谷」の説明板は、しっかりと建てられていました。
しかし、「八百屋於七地蔵尊」の御堂は消えてしまっていました。とても残念です。
現状と合わせて、数年前に撮った写真を載せておきます。

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かつての圓乗寺入り口付近の写真

その当時、圓乗寺の入り口にあった「八百屋お七地蔵尊」は「お七が在世のとき所持していた地蔵尊を祀ってある」ということでした。
持ち運べるような小さなお地蔵さんではなかったので、どういうお地蔵さんだったのかな、と疑問に思っていました。

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八百屋お七地蔵尊

今度、どこに行ったのか聞いてみようと思います。
地蔵の正式名は「南無六道能化八百屋於七地蔵尊」でした。

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化八百屋於七地蔵尊の碑と、右に「指ヶ谷」・「お七の墓」の案内

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「指ヶ谷」と「八百屋お七の墓」の案内板


「指ヶ谷」の説明板は、昔のままです。
このあたりは昭和39年(1964)8月1日施工の新住居表示によって白山となるまでは「指ヶ谷町」と呼ばれていたのです。
指ヶ谷の由来は、3代将軍家光がこの地を「あの谷」と指差したことによるといわれています(『紫の一本』)。
この町は小石川村御料地で、元和9年(1623)に伝通院領となりました。
寛永11年(1634)百姓町屋が許され、延享2年(1745)より町奉行支配となります。
町内の呼び名は「さすがや」が正しい呼び方のようですが、「さしがや」ともいわれました。この案内では「さしがや」になっています。
▼旧指ヶ谷町の東北端に位置していたこの「南縁山円乗寺」は元和6年(1620)宝仙法印によって開山された天台宗の寺院です。
円乗寺の手水鉢の龍と、龍塚があります。

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圓乗寺 六地蔵

六地蔵があって、その先にお七の墓があります。

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八百屋お七の墓

八百屋お七の墓
墓碑は3基建っています。

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八百屋お七の3基の墓

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昔の「八百屋お七の墓」の写真

中央がお七の墓で、「妙栄禅定尼。天和3(1683)年3月29日寂」とあります。
右側は、寛政年間(1789-1801)に歌舞伎役者の岩井半四郎が、お七を演じた縁で建立した供養塔で、左側は近所の人が270回忌法要のために建て供養塔です。
墓石の後ろには卒塔婆が並び、いつも、線香や花が手向けられていて、お参りの人は多いようです。

真ん中の墓については、次のような住職の話があります。
当時の住職が当地区には沢山の大名屋敷があり、そこのコネで遺骨を引き取らせてもらい安置していましたたが、
ほとぼりの冷めた頃墓を建てて菩提をともらいました。その墓石が今に伝わっているのです。
戒名「妙栄禅定尼霊位」(みょうえいぜんじょうにれいい)。
お七は地蔵になって極楽浄土に往生したと伝わっています。
ですから、お七地蔵を祀っています。その名を「南無六道能化(のうけ)八百屋於七(おしち)地蔵尊」と言います。

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お七の墓の左側にあるお地蔵様。これが、そのお七地蔵かなと思ったりしています。

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三代 歌川豊国 古今名婦伝 八百屋お七 

●「八百屋お七」事件とは
本郷森川宿の(一説による駒込片町とも)の有数な八百屋の娘お七は、大円寺塔頭大竜庵を火元とする火事で、一家でこの寺・圓乗寺に避難しましたが、そこで寺小姓の吉三郎と知り合い恋の炎が燃え上がりました。
お七は、火事になればまた吉三郎と会えると思い つけ火をして捕らえられます。
お七の付け火は、すぐ消し止められたのですが、当時は放火は重罪で、鈴が森の刑場で天和3年(1683)、火あぶりの刑に処されました。
お七15歳の頃の話になっています。江戸時代の悲恋物語の代表格で各種芝居や浄瑠璃等の台本に取り上げられています。

八百屋お七には、いろいろな説があります。

お七一家が逃れた火事は、よく振袖火事(明暦の大火)と思われたりますが、その振袖火事から25年後の天和2年(1682)12月28日、駒込大円寺から出火した火事です。東は下谷、浅草、本所を焼き、南は本郷、神田、日本橋に及びました。大名・旗本屋敷240余、寺社95を焼失、焼死者3,500人をだした大火事でした。

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歌川国貞 八百屋於七

●まだまだ、八百屋お七に関するいろいろ。
▼お七の恋人の名は、井原西鶴の『好色五人女』や西鶴を参考にした作品では「吉三郎」とするものが多く、そのほかには山田左兵衛、生田庄之介、落語などでは吉三(きっさ、きちざ)などさまざまです。
▼『近世江都著聞集』では、「お七は左兵衛という美少年に恋をし吉三郎にそそのかされて放火した。」となっています。
つまり、お七と恋仲は山田左兵衛で、吉三郎は、八百屋に出入りしていたあぶれ者で素性の悪い人物として登場します。
吉三郎は、自分が博打に使う金銀を要求する代わりに2人の間の手紙の仲立ちをしていました。やがて渡す金策に尽きたお七に吉三郎に「また火事で家が焼ければ左兵衛のもとに行けるぞ」とそそのかすわけです。(圓乗寺では、この説を引いているようです)
▼八百屋の娘お七が火付けの科(とが)で、火あぶりによって処刑されたという実話に基づいて、処刑から3年後、井原西鶴が『好色五人女』のなかで脚色、「恋草からげし八百屋物語」として物語化しました。そして井原西鶴の『好色五人女』に取り上げられてから、浄瑠璃・歌舞伎などに脚色されて行きます。
▼現代の「八百屋お七」の物語では、落語などを中心に「当時の江戸では火付け犯は15歳を過ぎれば火あぶり、15歳未満は罪を減じて遠島の定め」とし、お七の命を救ってやりたい奉行がお七の年齢をごまかそうとして失敗するといった話が流布しています。
しかし、西鶴などの初期の八百屋お七物語には、この話は出ていません。
▼数ある「八百屋お七」物語は、情人の名や登場人物、寺の名やストーリーなど設定はさまざまです。共通しているのは「お七という名の八百屋の娘が恋のために大罪を犯す」ということです。
▼日本舞踊、浮世絵では、お七は放火せず、代わりに恋人の危機を救うために振袖姿で火の見櫓に登り、火事の知らせの半鐘もしくは太鼓を打つストーリーになっています。
歌舞伎や文楽でも、振袖姿のお七が火の見櫓に登る場面がもっとも重要な見せ場となっていて、櫓の場面だけを1幕物『櫓のお七』で上演する事が多いです。

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●「八百屋お七」に真偽のことをとやかく言うのは野暮なことですが、圓乗寺のお七の墓は元々は天和3年(1683)3月29日に亡くなった法名「妙栄禅尼」の墓です。これがお七の墓とされ、お七の戒名は「妙栄禅定尼妙」とされていますが、それはどうかなと思います。お七は火あぶりの刑に処せられたのですから、墓に葬られたということは、本来おかしいと言えます。
●他にもある八百屋お七の墓」
岡山県御津町と千葉県八千代市の長妙寺にも八百屋お七の墓とよばれるものがあります。
御津町吉尾(現岡山市御津吉尾)には次のように伝わります。「八百屋お七」は、恋仲の男に会いたい一心で、吉三郎の入れ知恵に従い自宅に火を放って処刑されました。吉三郎はこれを悔い、お七の分骨を持って諸国を行脚し、いつのころか野々口に留まり、後小山村で没しました。村人はお七の分骨とともに手厚く葬ったと伝えられています。
あぶれもの吉三郎が、改心しての登場です。
千葉県八千代市の長妙寺のお七の墓は、「お七の養母が、鈴ケ森の刑場から遺骨をもらいうけ埋葬した」と寺の過去帳に記されているのだそうです。ここでは、養母が出てきます。
▼なお、恋人の吉三郎も、お七の処刑後、発心して「西運」と称し、江戸より巡礼の旅に出たことになっていて、各地にお七の地蔵を建てています。そして「西運」墓もあちらこちらに伝わっています。
例えば目黒の大円寺(目黒区下目黒一丁目8番5号)には、念仏を唱えながら、浅草観音に日参する西運の姿を刻んだ碑が境内にあります。
吉三は出家して西運を名乗り、大円寺の下(今の雅叙園の場所)にあった明王院に身を寄せたと言われます。
西運は明王院境内に念仏堂を建立するための勧進とお七の菩提ぼだいを弔うために、目黒不動浅草観音に1万日日参の悲願を立てた。往復10里の道を、雨の日も風の日も、首から下げた鉦しょうをたたき、念仏を唱えながら日参したのです。かくして27年後に明王院境内に念仏堂が建立されました。しかし、明王院は明治初めごろ廃寺になり、明王院の仏像などは、隣りの大円寺に移されました。

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目黒の大円寺・西運の姿を刻んだ碑



旧中山道の立場(たてば)「巣鴨庚申塚・猿田彦大神」と「延命地蔵尊」

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中山道(現巣鴨地蔵通り)を行くと折戸通りの交差地に、「巣鴨庚申塚・猿田彦大神」があります。都電荒川線の庚申塚駅の近くです。
巣鴨庚申塚・猿田彦大神 豊島区巣鴨4-35
巣鴨庚申塚は江戸時代中山道の立場(たてば)として栄え、旅人の休憩所として茶店もあり、人足や馬の世話もしていました。
その様子は「江戸名所図会」にも描かれています。

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江戸名所図絵 巣鴨庚申塚

「江戸名所図会」のなかの茶店の屋根の葭簀(よしず)の上に見える石塔は、庚申塚のいわれを裏付けるものです。現在、この石塔は当地の小さな社に鎮座しています。その銘文によれば明暦3年(1657)に造立されたものということです。これより以前、文亀2年(1502)に造立されたといわれる石碑がありましたが、「遊歴雑記」によると、この塚の下に埋められているとされています。

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この庚申塚には、猿の像が迎えてくれますが、これは、この巣鴨近辺の有志が、明治初期、千葉県銚子市にある猿田神社から猿田彦大神分祀したことによります。
現在、庚申堂に猿田彦大神を合祀しています。これは、巣鴨近辺の有志が、明治初期、千葉県銚子市にある猿田神社から猿田彦大神分祀したことによります。猿田彦大神は日本神話に登場する神様で、天孫降臨の際に道案内をしたということから、道の神、旅人の神とされています。
現庚申堂は昭和51年(1976)の再建です。

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巣鴨庚申堂

▼江戸時代の中山道巣鴨庚申塚付近には、巣鴨町近辺で行き倒れた人馬の共同墓地がありました。
そして、その墓標として延命地蔵が建立されていました。以来、さまざまな供養塔が集まって、現在も祀られています。

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延命地蔵  西巣鴨2-39-5

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 「題目塔」と「徳本名号塔」と左に「延命地蔵塔」の部分

中山道街道筋での横死者や辻斬りの犠牲者、長旅に疲れ行き倒れになった人や馬の供養のために元禄11年(1698)に建立されたものと伝えられます。当時は中山道を通行する旅人が巣鴨庚申塚で必ず一休みしましました。
延命地蔵尊は、かつて現在の都電庚申塚駅の場所にありましたが、明治44年(1911)、王子電気軌道(現都電「荒川線」)の停車場建設により移転されました。その後、現位置に再移動し、大正期に参道とお堂が整備されました。
移転の際、延命地蔵の下から、人や牛馬の骨が入った大きな桶に3~4杯も出てきたといいます。
昭和20年(1945)4月13日の空襲により、延命地蔵堂のすべての石造物が大きな被害をうけました。
終戦後、土地の守り地蔵尊として信仰されている延命地蔵を再興するため昭和35年(1960)に地元住民による奉賛会が発足し、毎年8月24日に法要が行われています。
徳本名号塔(とくほんみょうごうとう)
丸みを帯びた独特な書体で「南無阿弥陀仏」と刻まれた石塔です。江戸時代後期に、日本各地に足を運び、念仏を伝え歩いたことで知られる徳本上人が書いたものです。
題目塔(だいもくとう)
中央に「南無妙法蓮華経」、その左右に「大摩利支尊天」「北辰妙見大菩薩」を配置する三尊形式をとっています。塔の正面に「加越能佳人」「為道中安全」とあることから、北陸と江戸を結ぶ街道として中山道を往来した者が建立したのではとされています。

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延命地蔵塔と奥に2つの地蔵塔


延命地蔵(えんめいじぞうとう)

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延命地蔵

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延命地蔵塔」と「御題目塔」

延命地蔵塔の前からと左右からの写真を見てもらいました。
角柱型の安山岩に、右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠を持つ半跏座像の地蔵が浮彫されています。傷みが激しく、建立年代等を知ることはできませんが、地蔵堂の形式などから、江戸時代初期のものであろうと推定されています。

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徳本名号塔(右)と馬頭観音塔(左)

地蔵像庚申塔(じぞうぞうこうしんとう)
上部に日・月があり、中央に地蔵菩薩立像、その下に三猿が描かれていたと明治の記録にあります。その記録によると、地蔵像の右に「是より小石川おたんす町之ミち」、左に「元禄拾一年戌寅四月十六日 諸願成就」の銘があったととのことです。
馬頭観音(ばとうかんのんとう)(写真の左側)
台座前面の銘は一部欠損していますが、もとは「馬頭観世音」とあったとみられます。側面には「巣鴨」「願主 馬口藤三郎」とあり、巣鴨の住民が建立したものとみられます。
こういう風な、歴史の風雪を染みこませたような、遺構が、その先にあることも、巣鴨とげ抜き地蔵商店街を魅力を打ち出していると思います。

「まねき猫」のモデルと言われた猫の石像がある西方寺

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高尾太夫の墓の前の腕が欠けてしまっている猫は、高尾太夫でなく、同じ吉原の三浦屋の薄雲太夫ゆかりのものです。

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月岡芳年の「薄雲太夫

薄雲太夫は「玉」と名付けた三毛猫をとっても可愛がっていて、いつも行動をともにしていました。
魁道中にもその玉を連れて行くほどで、周りからは猫に取りつかれたのでは、とささやかれるほどでした。
ある日、薄雲太夫が厠に入ろうとすると玉が着物の裾を噛んで離しません。
楼主の治郎衛門がそれを見かねて、短刀を抜き、玉の首を切り落しました。
玉の首は厠の下溜めへと飛び、潜んでいた大蛇を噛んでいました。
玉は、薄雲太夫を蛇から守ろうとしていたのですね。
薄雲太夫は自分を守ろうとした猫を死なせてしまったことを悔い、深く悲しみ、西方寺に猫塚を祀りました。
また、長崎から取り寄せた伽羅の銘木で「玉」の姿を刻んだものを作ってもらいました。(これには、馴染み客が、玉の像を彫らせて贈ったという説もあります)。
木彫りの猫は大変評判になりました。
その姿が左手を挙げて、人を呼んでいるような格好だったことで、「まねき猫」の発祥だと言われるようになります。
薄雲太夫は木彫像をとても大切にし、太夫の死後は、西方寺に寄進しました。
しかし、西方寺寺は江戸時代末期に火災で全焼し、その像も焼失してしまっています。

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門の上にいた猫の写真(お借りしてます)

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西方寺の門 今は猫はいません。

いつごろからなのかわかりませんが、玉の像を石で造って、西方寺の右門の上に鎮座されていました。
そのこともあって、浅草の今戸焼き、世田谷の彦根藩井伊家の菩提樹豪徳寺、新宿落合の自性院などと共に「まねき猫」の発祥として、西方寺もあがっていました。
これもいつ頃なのかはっきりしませんが、その猫の像は、門の上にいなくなり、そっと高尾太夫の墓の前に置かれていました。

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傷みが激しく、大事な左手は欠けています。頭も、陥没したようですが、かろうじて修復されています。
高尾の墓を守るように鎮座しています。
もともとは、薄雲太夫がかわいがっていた猫、玉の像なのです。

2代目高尾太夫の墓がある、西巣鴨の西方寺

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西方寺の門を入ると、

西方寺は白山通り、都営三田線西巣鴨駅の近くに(豊島区西巣鴨4-8-43)あります。
浄土宗のお寺で、元和8年(1622)浅草聖天町に建立されました。吉原の近くで、三ノ輪の浄閑寺ともに遊女の投込み寺でもありました。
関東大震災で焼け、昭和2年(1927)現豊島区巣鴨に移転して来ました。
門を入ると、静か雰囲気で、すてきな石造物も飾られ、茶室もあります。
墓地に入り奥に進むと、2代目高尾太夫(万治高尾とも仙台高尾とも呼ばれる)の墓があります。

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2代目高尾太夫の墓 全景

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銅製のの灯籠

●銅製の灯籠
墓の手前に立つ銅製の灯篭に「投げ込み寺」とあります。元は浅草日本堤にあって、三ノ輪の浄閑寺と共に遊女の投込み寺として知られていたことを現しています。灯籠には「待乳山」、「土手道哲」、「山谷堀」、「今戸橋」、「土手八丁」などの文字も見られます。それぞれかつて日本堤にあった頃の名残です。

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           切り絵図「日本堤」右中央に西方寺も出ています。

「山谷堀」は暗渠になってしまいました。「土手八丁」とは吉原大門前の吉原土手の別称でその道を土手通りといい、土手がなくなった今でもその名称は残っています。「土手道哲」は、その土手で念仏を唱えながら見送っていた和尚「道哲道心」のことです。道哲は、西方寺の開基だったと言われます。

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        土手の道哲庵図 延宝6年(1678)板菱川絵本の図より
灯籠の後ろは「高尾太夫」の墓です。
●2代目高尾太夫仙台藩主・伊達綱宗
2代目高尾太夫は、仙台藩主・伊達綱宗の意に従わなかったため、隅田川三つ又の船中で逆さ吊りに惨殺されたと伝わります。

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綱宗は、三浦屋の高尾太夫に入れ込みますが、高尾は西方寺の開基といわれる僧道哲と恋に落ちていたことから、綱宗のどんな誘いにも靡きませんでした。激怒した綱宗は高尾を隅田川で斬り殺したとか。(綱宗は、21歳にして隠居させられ、その後を継いだのが2歳の長男綱村で、これを切っ掛けに「伊達騒動」が幕を開けます)。
しかし、高尾太夫が「きみはいま駒形あたり時鳥」という句を作っていて、この句は、綱宗のことで、2人の仲はむつまじかったという説もああります。ほかにも、旗本の島田利直と、伊達とが争い、高雄太夫は島田を選んだとか、尼となってこの西方寺に庵を結んで念仏三昧に過ごして、「道哲道心」と恋仲になったとか、諸説あります。
*なお、高尾太夫は吉原の三浦屋に伝わる大名跡で、6代説・7代説・9代説・11代説があります。
伊達綱宗のことが気になるので、三田村鳶魚伊達綱宗について書いたものを引用しておきます。
「仙台侯伊達綱宗が、伽羅の下駄を履いて吉原へ通ったとか、落籍した高尾を中州の三叉で堤げ切りにしたとか、盛んに訛伝(かでん)されたので、大名の傾城狂いの第一人者のように言われているが、延宝(1673-81)度に、遊女の腹から出た大名が23人ある(「長崎土産」)、といわれたのでも、大名の太夫買い、廓通いが仙台侯だけでないのが知れよう。陸奥守綱宗が、御茶の水開鑿の幕命によって工事を始めたのは、万治3年2月10日からで、牛込から和泉橋までの間を疎通するために、毎日6200人の人夫を使用した。在国であった綱宗が出府して自身で現場へ監督に出かけたのは6月1日からで、隠居させられたのは7月18日なのだ。綱宗は御茶の水への往復に吉原で遊んだ。この時は新吉原で、現在の場所なのに、仙台家の江戸屋敷は、今の新橋停車場のところにあったのだから、この間を往復されるのには、道寄りとか通りがかりとかでないのは明白である。年の若い仙台様は多数な人夫で盛んに工事を運ぶ、その景気に浮かれたのであろう。三浦屋の高尾を敵娼(あいかた)にしたと云うのは間違いで、京町高島屋のかおるを買い、それを落籍したと伝えたほうが事実らしい。」(江戸の花街  鳶魚江戸文庫13)
伊達綱宗は、お茶の水あたりの外濠を造っていたのです。

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2代目高尾太夫の墓です。

●2代目高尾太夫の墓
ここの墓は、万治3年(1660)に高尾太夫が死んだと伝えられ、吉原三浦屋の傾城2代目高尾(万治3年没)の墓の表示があります。
元の浅草聖天町高尾の墓でしょうが、目印に紅葉が植えられていたそうで、高尾は紅葉とよばれていたようです。(江戸砂子)

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2代目高尾太夫 お地蔵様の墓標

お地蔵さんの墓標があります。剥落が激しいです。顔もよくわかりません。

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高尾太夫の墓標の顔の部分

「碑面に地蔵を彫る。上に紅葉の紋あり。右に転誉妙身信女。万治三庚子年十二月二十五。左に辞世の句、「寒風にもろくもつくる紅葉哉」とあり、墓の後ろに紅葉の木あり。高尾の紅葉と云う。今のは若木なり。」とあります。
今はまったくこうした文字は見えません。紅葉もないです(たぶん)。

明治の浮世絵ですが、月岡芳年のきれいな高尾太夫の姿の絵をお借りします。

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月岡芳年『月百姿』「君は今駒かたあたりほとゝきす」

▼東浅草の春慶院(台東区東浅草2丁目14番1)にも2代高尾の墓とされるものがあります。
▼また、隅田川の三つ又で吊り斬りにされた高尾の死体は北新堀河岸に漂着したということで、神霊高尾大明神として祀り高尾稲荷社(中央区日本橋箱崎町10-7)があります。こちらも元の場所から移動はしているようです。
「江戸鹿子」、「江戸砂子」などはこの西方寺にある墓が真実の墓だとし、太田南畝・山東京伝などは山谷の春慶寺が正しいと言っています。

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高尾太夫に左に道哲の墓標。並んでいます。

●「道哲道心」
道哲の父は彦根藩江戸詰の硬骨の士でした。家老の悪事を殿に注進したのが仇になり、切腹させられました。息子の道哲は浪人して再起の機会を狙っていましたが、彦根藩主が高尾太夫に惚れて日参していることを聞き、三浦屋に忍び込み、殿に直諫したとも言われます。その後、道哲は武士であることがいやになり、僧となって日本堤に草庵を営なみました。
西方寺の開山にいては、「小塚原の刑場に引かれていく囚人を日本堤の土手で念仏を唱えながら見送っていた和尚“道哲道心”が開基したとお寺」という説があります。
道哲は信心深く、人情に厚く、ことに遊女が死んだあとで浄閑寺などに投げ込まれることを哀れみ、発見しだい、ねんごろに埋葬してやったと言われます。
高尾太夫は道哲の人情の厚いことに感激し、やがては恋に落ちたとも伝えられています。
そして、「死んだら道哲さまのおそばに埋めてほしい」と息を引き取ったという話が伝わっていました。

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端正な道哲の墓標の地蔵像

西方寺が巣鴨に移されるとき、道哲の墓を掘ってみると、墓穴から2つの骨壷が発見されました。1壺は道哲道心、もう1壺は2代目高尾の遺骨であろうと言われました。
▼墓の前の猫の石像については別稿にします。

四谷怪談のお岩さんの墓がある「妙行寺」

西巣鴨の荒川線の庚申塚駅から栄和通りを歩いて白山通りを横切ると「お岩通り」になります。この先に、四谷怪談で知られるお岩さんの墓がある「妙行寺」があります。「お岩」は、四谷怪談のお岩さんです。
妙行寺は、麹町清水谷に創建され、寛文元年(1624)に、四谷鮫ケ橋南町に移転し、更に東京府により市区改正事業により
明治42年(1909)に、現在地に移ってきました。妙行寺 豊島区西巣鴨4-8-28

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入り口に大きく、大きなお岩さんの墓所の石碑、その横に、少し小さいですが、浅野家の墓の案内の碑があります。
門を入るとすぐ、大きな岩に「お岩さんの墓のある妙行寺」と深く彫られた見事な碑があります。元は外にあったのでしょう。

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明治末に移転して来てからも、お岩さんのお墓を訪ねる人が多かったのでしょう。

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門を入ると魚がし供養塔、浄行様、うなぎ供養塔、納骨堂を右に本堂が正面に見えます。

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妙行寺の境内案内

<魚がし供養塔>
「何妙法蓮華経法界萬霊」の下に右から左に横書きに「魚がし」と大書されています。
「魚がしで犠牲になった生類の供養塔」ということです。
碑の裏には「昭和十三年五月建之 施主 石黒為次郎/當山十九赤威猛院日勢」と記されていました。
<うなぎ供養塔>

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背面に「原型者 高村光雲先生  鋳造者 渡辺008長男先生  昭和三十五年五月二十日建立」とあります。
塔の上の観音像は高村光雲の原型作です。光雲が歿したのは昭和9年(1934)ですから、歿後かなり経ってから鋳造されています。
台座に、組合に加盟する店の名がたくさん記されています。
日本橋や上野の鰻蒲焼商組合に加えて、 浜名湖養魚漁協同組合、焼津鰻出荷組合などもあります。

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さて、墓地に入ります。
広い墓所の先に、赤い鳥居が立っています。ここがお岩様の墓へ通じる入り口でした。
お岩様の案内もありましたが、それは、また後ににて、左に入ると、まず、浅野家の墓があります。

●浅野家の墓

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赤穂浅野家の菩提寺でした。浅野長直の室高光院、浅野大学長広の室蓮光院の墓があり、浅野内匠頭長矩の室瑤泉院の供養塔があります。
瑤泉院の供養塔は、瑤泉院が祖母高光院の永代供養を依頼した縁で、昭和28年(1953)瑤泉院の240回忌に供養塔が建てられました。遥泉院の墓は泉岳寺にあります。
お参りして、先に行くと、小さなお地蔵さまがありました。

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お地蔵さまに手を合わせ、右に進むと、田宮家の墓でした。

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妙行寺は元々四谷にあった時から田宮家の菩提寺でした。お岩の墓はその菩提寺に田宮家の代々の墓と共に置かれていました。
これはお岩さんが実在の人物であったという証です。
お岩さんの墓は、真っ正面にあります。まわりには田宮家の名前の入った墓が並んでいて、その先にびっしりと卒塔婆が立っています。
このような墓の並びは、こちらに移ってからなのかなと思いました。
赤い鳥居は、四谷の「於岩稲荷」を意識してかなと思うので、『於岩稲荷田宮神社』から見て行きます。
●四谷の『於岩稲荷田宮神社』

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四谷三丁目駅から徒歩5分ほどで、お岩さんの末裔「田宮氏」が神主を務める『於岩稲荷田宮神社』があります。
田宮家は御先手組同心で16石の禄高、生活は非常に苦しかったようです。
<お岩さまの真実 貞女説> 
「江戸初期です。四谷左門町に、田宮又左衛門という御家人がいました。その娘のお岩と夫の伊右衛門は人も羨む仲睦ましい夫婦でした。
しかし、田宮家の家計が苦しいので、お岩は奉公に出ることになります。お岩は熱心に働き、また。その奉公している屋敷内の稲荷の社に日参して、一日も早く夫婦がいっしょに暮らせることが出来るようにと祈願していました。その結果、田宮家を再興することができました。
これも日ごろ信ずる稲荷大明神の霊験であるというので、お岩は自分の屋敷内にもその稲荷を勧請して朝夕に参拝しました。それを聞き伝えて、近所の御家人の奥さま方が、お岩の幸運にあやかろうとたくさん訪れるようになりました。お岩はそれを拒まずに誰にもこころよく参拝を許しました。その稲荷は、誰が云い出したともなしに「於岩稲荷」と呼ばれるようになりました。」
■<鶴屋南北東海道四谷怪談』の登場>
江戸の後期になります。歌舞伎作家、四代目鶴屋南北は、100年以上もたつのに「お岩稲荷」が根強い人気あることに注目しました。そして「お岩」という名前を使って歌舞伎にすることを思い立ちますが、お岩が、善人では面白くない。そこで南北は江戸で評判になったいろいろな事件を組み込んだ話を造ります。例えば、ふたりの下男が主人殺しをしてはりつけになったとか、旗本の妾が中間と密通したため戸板に釘付けされて神田川に流されたとか、江戸の人間なら、だれでも記憶にある事件を盛り込み台本を書き上げました。それが『東海道四谷怪談』です。鶴屋南北71歳の作品でした。
▼『東海道四谷怪談』は文政8年(1825)7月、江戸中村座での初演。初演時にはこの作品は『仮名手本忠臣蔵』と交互に上演し、2日かかりで完了する興行形式を取りました。
上演された文政8年(1825)ごろは、江戸文化が最も華やかで、文化爛熟といわれた時代です。歌舞伎は大当たりをします。お岩は三代目尾上菊五郎伊右衛門は七代目市川団十郎で、『東海道四谷怪談』は江戸中の話題をさらいました。
▼ちなみに、『東海道四谷怪談』では実在の田宮家をはばかり田宮を「民谷」とし、四谷を雑司ヶ谷四谷町に変えています。雑司ヶ谷に四家という地名はあります。
●お岩が亡くなったのは、寛永13年(1636)とされています。
東海道四谷怪談』の初演が1825年ですから、つまりは200年も後に作られた創作の舞台が、『東海道四谷怪談』なのです。

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妙行寺はお岩さんの田宮家の菩提寺で、かつて四谷鮫河橋(現在の新宿区若葉・南元町)にありましたが、明治後期になって巣鴨へ移転しました。お岩さんのお墓は境内墓地の一番奥まったところにあります。『東海道四谷怪談』や、それに題材を得たお芝居などを演じる役者さんがこのお墓をお参りしています。また、一般の人も「心願成就」のご利益があると、熱心にお参りされているようです。
多くの卒塔婆がそれを物語っています。
●お岩さんの墓の案内板には次のようにありました。

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お岩様が、夫伊右衛門との折合い悪く病身となられて、その後亡くなったのが寛永13年2月22日であり、爾来、田宮家ではいろいろと「わざわい」が続き、菩提寺妙行寺四代目日遵上人の法華経の功徳により一切の因縁が取り除かれた。
この寺も四谷にあったが、明治42年に現在地に移転した。
お岩様に塔婆を捧げ、熱心に祈れば必ず願い事が成就すると多くの信者の語るところである。(境内掲示より)
●お岩さんのお墓です。

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赤坂一ツ木通りの浄土寺のお地蔵さま

赤坂の繁華街、一ツ木通りに、お寺が2つ残っています。赤坂不動尊威徳寺と浄土寺です。その浄土寺のお地蔵さんの話です。
浄土寺は浄土宗のお寺で、文亀(1500年頃)のころ江戸城内平川口の地に創建し、寛文5年(1665)一ツ木通りの当地へ移転して来たと言われます。

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入り口のところに2体のお地蔵さまが立っています。身代地蔵尊(左)と子育地蔵尊(右)です。
身代地蔵尊は、大悲(だいひ)をもって罪人の苦を代わり受けたり、危難を被りそうになった信者の身代りになってくださるお地蔵さんで、
子育地蔵尊は、子供の健やかな成長にご利益があるお地蔵さんです。
ここのお地蔵さまは、来るたび衣装がちがっています。梅雨時にはレインコートを着ておられました。お花もいつも新しいです。
境内に入ると、本堂前に、銅造地蔵菩薩坐像があります。

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銅像地蔵菩薩座像

左手に宝珠(ほうじゅ)、右手に錫杖(しゃくじょう)を持ち、僧衣を着けた 像高1m30cmの像です。

そして、その全身と高さ50cmの台座に、武士や町人など945名の結縁者の名が印刻されています。

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地蔵の台座 名前がたくさん刻まれています。

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台座正面下段に施主として「平兵衛」ほか三人の名が見え、彼らを中心として建立が行われたものと考えられます。

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地蔵の横の肩のところにも名前が彫られています。

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さらに背面。

背面には「享保四年(1719)二月二四日鋳物大工太田駿河守正義」とあります。

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御鋳物大工太田駿河守正義(儀)の銘があります。

太田正義は、深川の地蔵坊正元の発願で、各街道筋に建てられた「江戸六地蔵」を鋳造した神田鍋町の鋳物師「太田駿河守正儀」だと言われています。
江戸六地蔵」は、宝永5年(1708)から享保5年(1720)にかけて江戸市中の6箇所に、江戸市中から浄財が集められて造らた銅造地蔵菩薩坐像です。こちらは、享保5年(1719)です。同じ時期に入ります。こちらの像が少し小さいです。
でも、とても立派です。

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