「日比谷」の話。

日比谷公園や、皇居の堀である日比谷堀などにその名を残す「日比谷」、地名の由来は諸説ありますが、江戸時代初期の地形と関連しています。
日比谷あたりは、家康の江戸入府以前は、漁民がすむ村落でした。漁民が海苔をとり、魚をとらえるために海の中に立てる竹の小枝のことを「ひび」と言います。「ひび」がたつ入江(谷)であったことから日比谷という地名に転じたということです。
なお、「江戸」についても。海水が入り込むところを示す『江』と、その入り口という『戸』から『江の戸口』というところから来ているとい言われます。
そのように、徳川家康が江戸に入府した天平18年(1590)、江戸城は、日比谷入江と呼ばれ、海が入り込む場所でした。

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日比谷入江の東側は、江戸前島という半島が突き出していました。
日比谷入り江は、城下町をつくる障害になったので、家康は、埋め立をします。
まず、入り江に流入していた平川という河川の流路を付け替えました。続いて、和田倉橋の東から八重洲の北方にかけて江戸前島を横断する道三堀を設け、さらには縦断する堀を掘って外堀とし(いまの外堀通り沿い)、排水対策をしたうえで、高地を削った土や江戸城を造成した残土で、日比谷入江を埋めたのです。
このように日比谷一帯はかつて入江であり、その入江を埋めた軟弱地盤であるため、後々の都市計画にも影響を与えることにりました。
例えば、日比谷公園。日比谷ヶ原と呼ばれていたこの地は明治4年(1871)年から陸軍の練兵場として使われたのち、公園として整備され、明治36年(1903)年に開園しました。
官庁集中計画においては日比谷ヶ原にも官庁の建設が予定されましたが、元々入江だったため地盤が悪く、大掛かりな建物の建設には不向きと判断され、公園地としての利用が提案され、日比谷公園を造ったわけです。
このあたり、入り江の埋め立て地で、地盤が弱かったため、ビルの建設は難しかったのです。

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靖国通り日比谷の交差点近くに、ペニンシュラ東京がありますが、この場所には「日活国際会館(のち日比谷パークビル)」という建物がありました。
映画会社の日活によって昭和27年(1952)年4月1日に竣工しました。

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日活国際会館

この「日活国際会館」は、戦後としては初めての最大のビルでした。
このビルは、竹中工務店による画期的な潜函(=ケーソン)工法で、造られました。
「潜函工法」は、先に地上で、先に地上で地下4階分の建物を一体的な構造で建設し、建物下の土を掘削しながら地下に沈めるという、画期的な工法でした。地下に沈める作業は、昭和25(1950)年末に開始し、約半年で完了。その後、地上9階分の工事が進められ、昭和27(1952)年に竣工しました。当時は「沈むビル」として話題になりました。

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東京ミッドタウン日比谷」は2007年に閉館した三信ビルディングと2011年に閉館した日比谷三井ビルディングの跡地に建ちました。2つのビルの間にあった道路を廃止して区画整備したことで、広大な敷地が確保できたということです。
施設の高さは約192メートルで、高層ビルが少ない銀座・有楽町方面から来ると、まずその高さに圧倒されます。地盤の対策などどうしたのでしょうか。
この「東京ミッドタウン日比谷」については、何度か行って、またの機会に書きたいと思っています。
今回は、「東京ミッドタウン日比谷」から望んだ日比谷公園の姿を載せます。

▼「東京ミッドタウン日比谷」<6階パークビューガーデン>
周囲に高い建物がないので見晴らしがよいです。

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「テラスには日比谷公園と同種の樹木を採用し、日比谷公園との一体化を図った」とのことです。

▼<9階スカイロビー>」より広い視界。6階のパークビューガーデンも望めます。

(写真が載りませんでした)

 

 

 

 

 

 

 

今戸人形「福助」にまつわる話。

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今戸神社台東区今戸1-5-22)

後冷泉天皇康平6年(1063)、源頼義・義家父子が、奥州討伐の折、鎌倉の鶴ヶ丘と浅草今之津(現在の今戸)とに京都の石清水八幡を勧請したと伝わり、その浅草今之津の「今戸八幡」が「今戸神社」の創建となっています。

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今戸神社の境内に「今戸焼き発祥の地」の石碑があります。

今戸と言えば今戸焼き。福助や狐など、独特な愛嬌のある顔立ちの人形陶器として広く知られていました。昔は、七輪、火鉢、植木鉢など素焼きの今戸焼きが日用品として生活の中にあり、たくさんの窯元が今戸から橋場にかけてあったようで、その余技として人形製作が始ままれ、人気を博しましていました。

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「今戸焼」という落語があります。三笑亭可楽(8代目)が得意としていました。
『亭主が仕事から帰ってくると女房がいない。隣も前も長屋中の女が出かけているようだ。芝居見物に行ったらしい。
女房たちが帰ってきます。1人が遅くなったから亭主に謝ろうというと、「謝ると癖になる。亭主なんてものは月に5、6回はお仕置きをしなければだめだ」なんて言っている女房もいる。
家に入ると亭主は怒って口をきかない。女房は平気で、普段ぼぉーっとしている顔より怒っている顔の方がしまっていていいから一週間ほど怒っていっればいい、なんて調子だ。
亭主が「芝居へゆくなじゃねえが、帰ったあと元さんは吉右衛門に似ているとか、三吉さんは宗十郎に似ているとか言うたびに俺は肩身の狭い思いをしているんだ。よその亭主ばかりほめるな」と言うと、
女房が「お前さんも似ているよ」「だれに」「福助」「あの役者の福助にか」「なに、今戸焼の福助だよ」』
役者の福助は、成駒屋中村歌右衛門家の大切な名跡の「中村福助」です。
噺のサゲは「今戸焼の福助」、そのひとことで通用するだけ、今戸の福助はみんなが知っていたのですね。それだけ身近だったのでしょう。
幸福を招来するという縁起人形の一種。背が低く,童顔で頭の大きい男性人形で,ちょんまげを結い,裃 (かみしも) を着けて正坐した形の「福助」。
いったいいつごろの、どこの人がモデルなのでしょう。
いろいろな説が出ています。
江戸時代,享和期 (1801~04) 頃に死んだ長寿の佐太郎という実在人物を模したもの。
佐太郎は摂津国の農家の生れで,身長約 60cmぐらいの大頭の小人 (こびと) でしたが,幸運な生涯をおくり長寿であったといわれます。
安永2年(1773)年に「福助」が「お福」なる女性を娶る話が『吹寄叢本(ふきよせそうほん)』に出ているそうです。
また、太田南畝の『一話一言(いちわいちげん)』には「享和3年(1803)に流行した」と記されているとあります。よく分からないですね。
そのように「福助」伝説には、いくつもの説があるようですが、お店に関係して、なっとくできるお話を2つ、紹介してみます。
一つは、京都呉服屋「大文字屋」主人にまつわる話です。
大文字屋は頭が大きく背が低くて美男子ではなかったが、店の宣伝に熱心で店は大層繁昌しました。
そして貧民へ施しも忘れませんでした。
人々はこの店主にあやかろうと、人形を作ったところから、今の福助人形が生まれたという。したがって、京都では今でも福助のことを「大文字屋」と呼んでいる、ということです。
二つ目は、滋賀の伊吹山のふもと、木曽街道六十九次の宿場「柏原」にある、「亀屋」の話です。
これは、歌川広重が渓斎英泉と共に描いた、作品「木曽海道六十九次之内」の「柏原宿」に描いています。

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広重画「木曽海道六十九次之内」の『柏原』 亀屋

柏原宿には大名御用達のもぐさ屋「亀屋」が描かれ、その店頭の右に巨大な福助人形が、左に金太郎人形が描かれています。
天保6年(1835)年から7年余りかけて制作されたものです。
ここ「亀屋」に「福助」と言う番頭がいました。
この番頭は、正直一途、店の創業以来伝えられた家訓を守り、裃を着け、扇子を手放さず、道行く人にもぐさをすすめました。
もぐさを買うお客に対しては、どんなに少ない商いでも感謝の心を表し、おべっかを使わず、真心で応え続けました。
そのため店は大いに繁昌して、主人もたいそう「福助」を大事にしていました。
これを京都伏見の人形屋が耳にして、福を招く縁起物として「福助」の姿を人形にしたということです。
福助人形は大流行。商店の店先に飾られるようになったということです。
この説でいけば、「福助」は今戸人形でなく、伏見人形が、発祥ということになります。

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昭和の初めのころの今戸人形 お福と福助

姉さま人形として、本来は別々だったのでしょうが、福助の連れ合いとして「お福」「お多福」あるいは「おかめ」が並びます。

先日アップした、山谷堀でも、その福助とお福さんがセットで並んでいました。

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「お福」「お多福」はその字のまま、「おかめ」は、「お亀」と書き、上の「亀屋」と同じく「福」を招きます。
足袋・靴下を中心に下着、服飾衣料で知られていた「福助株式会社」がありました・
創業者の辻本福松という人が、明治15年(1882)に大阪府堺区(現・堺市堺区)大町東で、足袋の製造販売をおこなう「丸福」を創業しました。
しかし、丸に福を入れ商標は、すでに他の業者が商標として登録していたこともあり、伊勢詣での際に福助人形を見つけたことから、これをもとに1900年に「福助印堺足袋」を発足させました。「福助足袋」は一世を風靡しましたが、今は、新たにfukuske で活動しています。

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福助株式会社」の福助足袋のマーク


福助」は享保年間頃から、商店では「千客万来・商売繁盛」、家庭では「出世開運・福徳招来」の置物として、200年以上の長きにわたり、多くの人に親しまれてきました。
近年になって「招き猫」にその座を奪われていル気がします。がんばれ福助と言ってやりたい気分です。

「ゴジラ」に出会った。

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日比谷ゴジラスクエアのゴジラ

令和3年(2021)7月末日、テレビでオリンピック真っ盛りの時出かけ、『日比谷ゴジラスクエア』で「新・ゴジラ像」を見ました
以下は、これまで、映画館以外で出会ったゴジラを整理してみます。

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東京ミッドタウンの庭のゴジラ

平成26年(2014)、この年、ゴジラが誕生して60年というということでしたが、その年に公開された、ハリウッド映画版「GODZILLA ゴジラ」とコラボレーションした特別企画で、東京ミッドタウンの庭で、6.6メートル(全長108メートルの実物を7分の1に凝縮)の「ゴジラ」が、姿を現していました。その時、わざわざ見に行って、当時のブログにあげていました。

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平成27年(2015)、歌舞伎町ランドマークだったコマ劇場が無くなり、そのあとにシネコンとホテルの「新宿東宝ビル」ができました。
1階は飲食・物販店舗。3階から6階はシネマコンプレックス「TOHOシネマズ 新宿」そして、8階から30階までがホテルです。
その8階から、ゴジラが頭を出しています。

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そのゴジラの頭

ビル8階の屋外テラスに設置されたゴジラヘッドは、『ゴジラvsモスラ』(1992年)の撮影で使用し、保管してあったゴジラ原型を3Dスキャンで起こしたものです。設置面積258㎡、重さ80トン。高さはテラス床面から12m。ホテルの高さ約40mを加えトータルで52m。昭和のゴジラとほぼ同じ高さになるとのことです。

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旧「日比谷シャンテ」のゴジラ

◆いつだったか、はっきりしませんが、そのころ、日比谷シャンテ前にあったゴジラ像です。
体長は1mくらいでした。台座には、1作目「ゴジラ」(54年)の映画の中で、山根恭平博士の台詞、「このゴジラが最後の1匹だ とは思えない」が刻まれていました。

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◆そして、平成30年(2018)3月22日
東京・有楽町の「日比谷シャンテ」がリニューアルオープンするに当たり、東宝は22日「日比谷ゴジラスクエア」と命名した敷地内広場に、一昨年大ヒットした映画「シン・ゴジラ」の主役を模した「新・ゴジラ像」を設置し、除幕式を行いました

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東宝によると、新・ゴジラ像は高さ3メートル(像2.5メートル、台座0.5メートル)で、ゴジラの全体立体像としては最大ということです。
像の脇には「人類は、ゴジラと共存していくしか無い」との映画「シン・ゴジラ」のせりふを記したプレートも造られました。

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旧浅草猿若町を歩いてみた。

 

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広重が描いた『絵本江戸土産』の「猿若町」です。まずは、その「猿若町」について。

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■旧浅草猿若町  台東区浅草6-5-1
猿若町」の町名案内板です。
「この地はその昔、丹波国(現在の京都府)園部藩主小出氏の下屋敷であった。天保12年(1841)、徳川幕府天保の改革の一環として、この屋敷を公収し、その跡地に、境町・葺屋町(ふきやまち)・木挽町(こびきちょう)、いずれも現・中央区日本橋人形町あたりにあった芝居小屋の移転を命じた。芝居小屋は、天保13年から翌4年にかけて当地に移り、猿若町はできた。芝居小屋の移転とともに猿若町は、一丁目から三丁目にわけられ、一丁目には中村座および薩摩座、二丁目には市村座および結城座が移った。そして、三丁目には河原崎座が移転してきた。このうち中村座市村座河原崎座が世にいう「猿若三座」である。町名は、江戸芝居の始祖といわれた猿若勘三郎の名をとってつけたという。」
猿若町は浅草の北東部。天保の改革により、風紀を乱すとの理由から江戸市中の芝居小屋が強制的に一ヶ所に集められた場所でした。
当初は、芝居小屋を廃止させることを考えていましたが、北町奉行・遠山左衛門尉景元(遠山の金さん)の献言により一ヵ所に集めて取り締まりを強化する方針に変更されたと言われています。
遠隔地に新設されたこの芝居町は、江戸の歌舞伎劇場の創始者とも言える、猿若勘三郎、のちの中村勘三郎の「猿若]から来ています。
しかし、当時としては僻地でしたので、当初は客が入らず、相当苦労しました。
しかし、中村座市村座森田座のいわゆる江戸三座が、役者や作者の相互貸し借りなどの新機軸を打ち出し演目を充実させると、再び人気に火が点き、客足が戻って来ました。
天保13年(1842)~明治5年(1872)の約30年間、猿若町には幕府公認の芝居小屋、「中村座」「市村座」「森田座」の猿若三座が繁栄を極めていました。大きな3つの芝居小屋を中心に他に小さな芝居小屋も集まって来ていました。
そうして、浅草寺参拝や芝居見物後の吉原遊び、或いは小塚原の処刑見物などとあわせ、浅草界隈は往時の人形町を彷彿させる一大歓楽街に成長して行ったわけです。

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広重『名所江戸百景 猿わか町よるの景』

■広重『名所江戸百景 猿わか町よるの景』、安政3年(1856)の作品です。
猿わか町(猿若町)は、現在の浅草6丁目付近、浅草寺から北東へ500メートルほどの場所です。
当時、猿若町といえば江戸三座のある町として知られ、この通りの右側に芝居小屋が3軒並んでいました。
屋根に櫓(やぐら)を掲げているのは、芝居興行を許された芝居小屋である証しです。
奥から櫓がついて中村座市村座があり、手前が櫓は描かれていませんが、森田屋(後の守田屋)です。
当時の芝居小屋の最大の照明は日光でした。小屋の雨戸の開け閉めで昼夜の場面を作り出していました。お天道さまが頼りでした。
この絵は芝居がはねた19時~20時頃、見事な満月・陰暦15日の夜です。
一つの通りに、3つの芝居小屋が並ぶ壮観な様を、遠近法を駆使して見事に表現しています。
通りの反対側には芝居茶屋が並び、食事や休憩などで賑わいました。

▼現在は、猿若町の名前も、芝居小屋も、江戸文化歓声も何もかも無くってしまいましたが、広重が描いた「通り」は残っていて、「浅草猿若町の碑」があります。
歌川広重の『名所江戸百景 猿わか町よる之景』の手前から、下の地図では、上から歩いてみます。

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猿若町地図 

まずは、現在地とあるところの、猿若町の案内の写真。

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地図に「現在位置」とある前、言問通りにある案内。

 

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現在の「猿若町」の通り

それでは、上の地図にある「ハ」の場所の守田座跡の碑から。

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江戸猿若町守田座跡の碑

「ロ」の市村座

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江戸猿若町市村座跡の碑

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浅草猿若町

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猿若町会館

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歌舞伎の小道具を造っている藤波小道具株式会社

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藤波小道具株式会社に飾られていた小判など

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中村座跡 石碑はここには無かった。

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下に貼られた中村座の案内

そして言問通りに出ます。

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言問橋の方 スカイツリーが見える

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隅田公園にあった地図から、旧猿若町が分かる地図

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<「平成中村座発祥の地」記念碑です。隅田公園の山谷堀広場に建っています。
歌舞伎役者の18世中村勘三郎(初演時は5代目中村勘九郎)と演出家の串田和美らが中心となって、浅草・隅田公園内に江戸時代の芝居小屋を模した仮設劇場を設営して「平成中村座」と名付け、平成12年(2000)11月に歌舞伎『隅田川続俤 法界坊』を上演したのが始まりである。
翌年平成13年(2001)以降も、会場はその時によって異なるものの、ほぼ毎年「平成中村座」を冠した公演が行われていたが、座主の18世中村勘三郎平成24年(2012)12月に亡くなった為、2013年は公演を行わなかったが、勘三郎の遺志を継いだ長男の6代目中村勘九郎が座主を引き継ぎ、2014年に実弟の2代目中村七之助、2代目中村獅童と共にアメリカ合衆国・ニューヨークで平成中村座復活公演を行ったウィキペディアより)

江戸の香りを伝える「山谷堀公園」、そして今戸人形の飾り。

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山谷堀公園・ 聖天橋

山谷堀公園を聖天橋から待乳山聖天まで歩きました。
山谷堀(さんやぼり)公園は、かつての水路でした。正確な築年は分かっていませんが、江戸初期に荒川の氾濫を防ぐため、箕輪(三ノ輪)から大川(隅田川)への出入口である今戸まで造られた人工の川でした。

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広重の『江戸名所百景 待乳山山谷堀夜景』

手前を流れる川が隅田川。中央の闇に浮かぶ岡が待乳山です。そしてその右が、山谷堀です。

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江戸時代には、吉原遊廓新吉原遊郭への水上路として、隅田川から遊郭入口の大門近くまで猪牙舟が遊客を乗せて行き来していました。
隅田川から山谷堀を上り、吉原へと向かうために主に使われた船は猪牙船(ちょきせん)という船でした。
船底が浅く、スピードは出たようですが、横揺れも激しかったようで、
  江戸っ子の 生まれそこない 猪牙に酔い
という川柳があります。また、この猪牙船は吉原通いにも利用されたため、別名を山谷船といい、 吉原通いを「山谷通い」とも言いました。
船での吉原行きは陸路よりも優雅で粋とされました。

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猪牙舟の案内

界隈には船宿や料理屋などが建ち並び、「堀」と言えば、山谷堀を指すくらいに有名な場所でしたが、明治時代に遊興の場が吉原から新橋などの花街に移るにつれて次第に寂れ、昭和には肥料船の溜まり場と化して行きました。

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「山谷堀」 大正5年(1915)5月 改修工事が終わった山谷堀」 東京都下水道局資料より

そして吉原閉鎖後、昭和50年(1975)までにはすべて埋め立てられてしましました。
現在は、日本堤から隅田川入口までの約700mが台東区立の「山谷堀公園」として整備されています。

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山谷堀公園

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広重画『隅田川八景 今戸夕照』

今戸焼きは、瓦職人が余技で焼き始めたと言われ、素焼きの土器は「今戸焼」と総称されたくらい盛んに製造されていました。(広重画『隅田川八景 今戸夕照』は瓦を焼いている風景です)
今戸焼きの範囲は非常に広いです。焙烙(ほうろく)、灯心皿、瓦燈(かとう)、土風炉(どぶろ)、豚の蚊やり、七輪 、火鉢、猫あんか、植木鉢、そして、招き猫、狸、狐、鳩笛、人形など。
素朴な味わいで人気がありました。

 

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今戸焼きの解説


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国芳画「江戸じまん名物くらべ・今戸のやきもの」です。招き猫や鉄砲狐に彩色しています。右は今戸人形の鉄砲狐。雄雌の対です。ひげがある方(左)が雄です。

▼ 山谷堀公園に、今戸焼きの形を中心にした置物が飾られています。

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招き猫、河童、おどり雀、招き猫、鉄砲狐です。ずっと向こうにスカイツリー

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福助・お福・鉄砲狐

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河童 前から後ろまで

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踊り雀

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招き猫 横向きばかりなりました。

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そこで正面を 招き猫

 

大根でお参りする「待乳山聖天  本龍院」

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待乳山聖天  本龍院

隅田川隅田公園のすぐ近くにある「待乳山聖天」は、好きな神社です。
神社に「好き」というのはおかしいですが、奥浅草という感じで、奥ゆかしい思いがします。

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待乳山聖天」、正式には「待乳山本龍院」と称し、浅草寺をご本山とする聖観音宗の寺院です。
ご本尊は歓喜天 (聖天)と十一面観音。待乳山聖天は「まつちやましょうでん」と呼ばれています。
浅草名所七福神にも入っていて、毘沙門天がお祀りされています。
関東大震災や太平洋戦争により、本堂などの堂宇は焼失してしまい、 現在の本堂は昭和36年 (1961)に再建されたものです。
その歴史は古く、言い伝えでは、推古天皇3年 (595年)9月20日に、たった一夜にして涌現 (ゆげん)した霊山と言われています。
その時に金龍が舞い降り、待乳山を廻り守護したそうです。 浅草寺の金龍山はここからきたともいわれます。
江戸時代、隅田川とあいまって、景色もよく、歌川広重もたくさん描いています。

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広重 東都名所 『真土山之図』

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広重 江戸名勝図会 『真乳山』


●乳山聖天では、大根をお供えします。

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待乳山聖天  拝殿

待乳山聖天 パンフレットに次のように書かれています。
「大根は深い迷いの心、瞋(いかり)の毒を表すといわれており、大根を供えることによって聖天さまがこの体の毒を洗い清めてくださいます。
そしてその功徳によって、 身体を丈夫にしていただき、良縁を成就し、夫婦仲良く末永く一家の和合を御加護頂けます。
大根は心身を清浄にする聖天さまの「おはたらき」を象徴するものとして、聖天さまのご供養に欠かせないお供物とされています。」
2本の大根が根元で引っ付くことから、良縁を成就させ夫婦仲良く末永く和合でいられますようにとの意味がはっきり現されています。
大根は、心身健康、良縁成就夫婦和合を表しているのです。
毎年、1月7日に「天の大根まつり」が開催されています。待乳山聖天の参道で、風呂吹き大根とお神酒が振る舞われます。
聖天様にお供え、清められた大根が頂けます。
待乳山聖天のもうひとつのシンボルが巾着です。
巾着は砂金袋を表しており、事業繁栄、財宝商売繁盛を意味しています。
境内のあちこちに浮き彫りにされているものや、様々な形の大根と巾着に出会います。

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本殿にも、大根と巾着があります。

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 まわりにビルが建ち、山も昔ほど高くはないのでしょう。隅田川も望めないですが、江戸を感じられる聖天宮です。最後にお参りの入り口と、『江戸名所図会』を。

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待乳山聖天  本龍院

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江戸名勝図会 『真乳山』




 

 

 

浅草、花川戸公園の「姥ヶ池(うばがいけ)」と「助六歌碑」

 

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歌川国芳『観世音霊験一ツ家の旧事』 諌める娘を恫喝する鬼婆が描かれています。

「姥ヶ池(うばがいけ)伝説」とか「一つ家伝説」とか「石の枕伝説」などとよばれる、一軒家に棲む老女が、宿泊する旅人をあやめて金品を奪っていたお話は、全国各地に見られます。
浅草でも、浅草寺観音菩薩にまつわる伝説として江戸時代以後には書籍や演芸・芝居なども取り上げられ、広く知られていました。
いろいろな形で伝わっていますが、少し丁寧なものを引用すると次のようになります。

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月岡芳年「月百姿 孤家月」

浅草寺が創建された頃、この周辺一帯は浅茅が原と呼ばれ、奥州へ向かう街道ではあるものの、見渡すばかりの荒れ地であったという。その荒野にあばら屋が一軒、老婆とその娘が暮らしていた。この辺りで日が暮れてしまうと、旅人はこの一軒家に宿を借りるしかなく、二人もそれを承知して旅人を泊めていた。しかし親切な老婆の正体は、旅人が石枕に頭を置いて眠りに就くと、吊した大石を落として頭を叩き潰して殺し、遺骸は近くの池に捨てて金品を奪ってしまうという鬼婆だったのである。そしてその所業を浅ましく思う娘は何度も諫めるが、老婆は聞く耳を持たなかった。
あと一人で千人の命を奪うところまできたある夕刻、一人の稚児が宿を請うた。老婆はいつものように床に案内すると、稚児が寝てしまうのを待った。そして頃合いを見計らって、いつものように大石を頭めがけて落とした。そして遺骸を改めたところで、異変に気付いた。いつの間にか稚児は女の身体にすり替わっていた。しかもそれは我が娘であった。さすがの冷酷無比の鬼婆も事の次第に茫然自失するしかなかった。
そこに全てを悟ったかのように稚児が姿を見せた。その正体は浅草寺観音菩薩。老婆の所業を哀れんで、稚児に姿を変えて正道に立ち戻らせようとしたのである。

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「一ツ家」安政2年(1855)浅草寺に伝わる絵馬です。

その後の老婆であるが、娘を自らの手に掛けた報いと己の所業を悔いて池に身を投げたとも、観音菩薩の法力によって龍となって娘と共に池に沈んだとも、仏門に入って手を掛けた者の菩提を弔ったともいわれる。いずれにせよ、この“浅茅が原の鬼婆”にまつわる池として姥ヶ池と呼ばれるようになったという。
柳田國男『日本の伝説』には、
「咳のおばば様と呼ばれるお婆さんの石像があちらこちにあり、子どもの咳を止めるだけでなく、子安様としてこどもの生育を守っていました」
と出ていました。
そこに、「姥ヶ池」が出て来ます。
「浅草には今から四十年ほど前まで、姥淵(うばがふち)という池が小さくなって残っていて、一つ家石の枕の物凄(ものすごい)昔話が、語り伝えられておりました。浅草の観音様が美しい少年に化けて、鬼婆の家に来て一夜の宿を借り、それを知らずに石の枕を石の槌つちで撃って、誤ってかわいい一人娘を殺してしまったので、悲しみのあまりに婆はこの池に身を投げて死んだ。姥が淵という名もそれから起ったなどといいましたが、この池でもやはり子供の咳の病を、祈ると必ず治ると信じていたそうであります。これは竹の筒に酒を入れて、岸の木の枝に掛けて供えると、まもなく全快したということですから、姥神も、もとはやはり子供をまもって下さる神であったのです。(江戸名所記)」
▼さて、その姥ヶ池の遺構が、花川戸公園にあります。

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「鬼婆が身を投げたとされる池は姥ヶ池(うばがいけ)と呼ばれて、現在も花川戸公園に残っている。池の大きさは、古くは隅田川に通じるほどの水をたたえた大きなものであったが、明治時代に宅地造成などのために大部分が埋め立てられており、かつての姿とはかけ離れたものとなっている。」とあります。
浅草寺の北東に、寺々が並んでいます。浅草寺の支院群です。この中に「妙音院」という寺があり、そこの寺宝として、「石の枕」が保管されていると言われます。

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花川戸町の案内

●浅草花川戸町(あさくさはなかわどちょう) は、奥州街道の両側に開けた町です。
地名の「花」は「桜」のことで、由来は「桜並木のある川端通り」など、諸説ありますが、
一般には「川に望む地に、桜並木と多くの戸(家)があったことに由来する」と、考えられています。
●花川戸と言えば、助六です。

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花川戸公園には、助六歌碑(すけろくかひ)があります。
「碑面には、  助六にゆかりの雲の紫を   弥陀の利剣で鬼は外なり 団洲
の歌を刻む。九世市川団十郎が自作の歌を揮毫したもので、「団洲」は団十郎の雅号である。
 歌碑は、明治12年(1879)九世団十郎が中心となり、日頃世話になっている日本橋の須永彦兵衛(通称棒彦)という人を顕彰して、彦兵衛の菩提寺仰願寺(現清川1丁目4番6号)に建立した。大正12年(1923)関東大震災で崩壊し、しばらくは土中に埋没していたが、後に発見、碑創建の際に世話役を務めた人物の子息により、この地に再造立された。台石に「花川戸鳶平治郎」、碑裏に「昭和三十三年秋再建 鳶花川戸桶田」と刻む。
 歌舞伎十八番の「助六」は、二代目市川団十郎が正徳3年(1713)に初演して以来代々の団十郎が伝えた。ちなみに、今日上演されている「助六所縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」は、天保3年(1832)上演の台本である。助六の実像は不明だが、関東大震災まで浅草清川にあった易行院(現足立区伊興町狭間870)に墓がある。」

●現在の姥ヶ池の姿です。

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元の姥ヶ池は、隅田川に通じていた大池で、明治24年(1891)に、宅地造成などのために埋め立てられてしまいました。